第5話 緋の絆 第二部:灰色の旅路 導入:胸を焼く炎
先の物語の続きとして、設定のキーワードを「肺癌」に変更し、安田京一郎の最期の旅路を深掘りして描写します。
京一郎の病名は「肺癌」に変わっていた。
十年前の事件以来、彼は人知れずタバコを吸い続けていた。それは海子の匂いを求めてか、自罰的な行為か、今となってはわからない。ただ、その代償は、彼の胸腔を焼くような激しい咳と、血の混じった喀痰という形で、容赦なく襲いかかっていた。
医者は言った。
「ステージIV。もって、あと一ヶ月」
一ヶ月。海子の元へ行くには、十分すぎる時間だった。彼は、窓の外の灰色の空を見つめ、静かに笑った。
「海子。今度こそ、お前と同じ灰になって、会いに行く」
京一郎は、病院を抜け出す前に、面会に来ていた一人の男に、最後の言葉を残すことにした。
男の名は、
再会した神崎は、十年の時が刻んだ皺が増え、白髪が目立っていた。
「安田、お前、もう長くないな」
神崎は、何の含みもない目で言った。
京一郎は、息苦しさに耐えながら、胸の奥に封じ込めていた真実を、まるで血を吐き出すように、絞り出した。
「神崎さん……海子は、八人殺しました。俺は、その場にいながら、止められなかった。俺の罪は、殺人ではない。共犯という名の、愛でした」
彼は続けた。海子が拳銃自殺する直前、京一郎にだけ送った、暗号めいたメッセージについて。それは、海子が自分たちの関係を「永遠」にするための、最後の「儀式」を予告するものだった。
「俺は、その儀式を完遂するために、ここまで生きてきた。もう、終わらせる」
神崎は、京一郎の痩せ細った手を握りしめ、強い視線で言った。
「安田。お前の愛は、狂気だ。だが、海子の死は、本当に自殺だったのか?」
京一郎の目が見開かれた。その問いは、彼の心臓を鋭く貫いた。
神崎の言葉は、京一郎の旅路に、新たな疑問という名の重石を加えた。
海子が自殺したとされる廃墟の倉庫へ向かう道すがら、京一郎は咳き込みながらも、十年前の記憶を辿る。
あの拳銃自殺の現場。海子の手に残された拳銃。 彼女の血痕。そして、警官隊に囲まれながら、海子が見せた、あの満足げな、しかしどこか虚ろな笑み。
「海子……お前は、本当に自分で引いたのか?」
もし、海子の死が他殺だとしたら?
**誰が、なぜ、**あの殺人鬼を殺す必要があったのか?
京一郎は、自分の余命が短いことを逆手に取り、大胆な行動に出た。彼は、肺癌の痛みをごまかすために、違法な鎮痛剤を手に入れる。その過程で、彼は裏社会の情報屋から、海子の死の直前に、彼女と接触していたとされる謎の人物の存在を知る。
「その男は、**『灰色の蝶』**と呼ばれていた。海子に、最後の獲物として狙われていた、とも言われている……」
灰色の蝶。そのキーワードは、京一郎の病状と、海子の「儀式」の暗号、全てに繋がる、不吉な響きを持っていた。
京一郎は、咳で体を震わせながら、海子の自殺現場である倉庫に辿り着いた。
倉庫は、前回訪れた時よりも荒れ果て、まるで世界の終末を待っているようだった。
京一郎は、咳き込みながらも、海子の血痕が残っていた場所を這うように調べる。すると、コンクリートの割れ目から、小さな光沢を放つものを見つけた。
それは、小さな蝶の形のブローチ。
「灰色の……蝶……」
そのブローチを手に取った瞬間、倉庫の奥から、低い声が響いた。
「よく来たな、安田京一郎」
振り向くと、そこに立っていたのは、神崎だった。しかし、彼の目は、十年前の刑事の優しさではなく、冷たい鉄のような光を放っていた。
「神崎さん……どうして……?」
神崎は、静かにコートの内側から、一丁の拳銃を取り出した。それは、十年前、海子が自殺に使ったとされた拳銃と、酷似していた。
「海子を殺したのは、お前か……**『灰色の蝶』**はお前だったのか!」
京一郎は、肺の奥から血が滲み出るような叫びを上げた。
神崎は、哀れむように笑った。
「そうだ。海子は、私を最後の獲物として選んだ。だが、彼女の狂気は、世の中に必要のないものだった。私は、法の限界を超えて、彼女の暴走を止める必要があったのだ」
そして、神崎は、ブローチを握りしめた京一郎に向かって、銃口を向けた。
「お前の愛も、狂気も、全てここで終わる。お前はもうすぐ癌で死ぬ。だが、それでは、海子の魂にたどり着けないだろう?私が、お前を海子の元へ導いてやろう」
神崎の言葉は、京一郎の望みそのものだった。しかし、彼の心には、海子の死の真相を知った、強烈な怒りが燃え上がっていた。
「ふざけるな!俺の海子に、勝手な裁きを下すな!」
京一郎は、最後の力を振り絞り、手に持ったブローチを神崎の顔めがけて投げつけた。
その瞬間、倉庫の中に、乾いた発砲音が響き渡った。
エピローグ:灰に還る
京一郎の身体は、床に倒れた。胸に熱い痛みが走り、肺から吹き出す血の温かさが、コンクリートに染み込んでいく。
「これで……海子と……」
彼の視界は、赤と黒に染まり、やがて、灰色の闇に包まれた。
神崎は、拳銃を下ろし、静かに京一郎のそばに寄った。彼は、京一郎の冷たくなりかけた頬に手を当て、そっと目を閉じさせた。
「安田。お前も、海子も、これで安らげる。この世の汚れを、全て灰にして、永遠に……」
神崎は、その場に立ち尽くし、やがて、静かに倉庫の闇へと消えていった。
残されたのは、血と、埃と、そして、永遠の孤独を手に入れた、二つの魂の灰色の痕跡だけだった。
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