第53話 出発の朝

 薄曇りの空が、街の上に低く垂れ込めていた。

 朝靄はもうほとんど消えかけているが、空気にはまだ夜の冷たさが残っている。

 リーヴェ郊外、馬車置き場から続く街門前の広場には、いつもなら行商人や旅人の列ができ始める時間だ。だが今日はまだ早いのか、人影はまばらだった。

 そんな静けさの中に、不釣り合いなほど頑丈そうな馬車が一台、どんと腰を据えている。

 厚い魔樹材で組まれた荷台、その中央には、金属の補強枠でがっちりと固定された大きな木箱。木箱の表面には、淡く光を反射する刻印──簡易とはいえ、ちょっとした神殿の結界にも使われる類の封印陣がぐるりと刻まれていた。

 箱を支える鉄枠には、振動を殺すための魔術的な細工が施されている。車輪の軸にも、一見ただの鋲に見せかけた魔法金属のピンが打ち込まれていた。

 馬は二頭。どちらも肩までの高さが普通の馬より一回りは大きく、皮膚の下に詰まった筋肉の動きが毛並み越しにもわかる。黒い毛並みは光を吸い、瞳は落ち着いた暗褐色。魔力に当てられても動じにくい、耐性持ちの特別な種だ。


(……まあ、見た目だけならちょっとした小隊用の戦時装備だな)


 アルドはそんなことを思いながら、木箱の側面に指先を添えた。

 箱の四隅、補強枠の継ぎ目、封印陣の交点──そこに隠すように刻まれた、短い符丁がいくつもある。普通の魔導師なら読み飛ばしてしまうような、命令文の添え書きだ。

 アルドは息を吸い、声を出さずに、ひとつひとつを指先でなぞっていく。

 唇は閉ざされたままなのに、その周囲の空気だけが一段重くなったように感じられた。見えない圧が木箱を包み込み、封印陣の線がほんの一瞬だけ、内側から脈打つ。

 符丁が、応えた。術式が、そこに記された管理者の名を改めて確認し、承認する。


(よし)


 短くそう判断し、アルドは指を離した。

 木箱の中には、今はただ静かに眠っているだけの球体がある。だが、ほんの二週間ほど前、その〝封印核コア〟は、街ひとつを吹き飛ばしかねない暴威として吠え狂った。


「…………」


 少し離れたところで、その木箱をじっと見つめている視線があった。

 エリシャだ。いつもの旅装にマントを重ね、胸元には予備の魔力瓶をいくつか吊るしている。その長い銀髪は、いつも通り真っ直ぐ下ろされていた。

 外見だけ見れば、いつもの遠征前とさほど変わらない。けれど、その表情には、僅かな強張りが混ざっている。

 喉のあたりを、目に見えない指が軽く締めつけているような気配。視線は木箱から離せないくせに、一歩、二歩とほんの少しだけ距離を取っていた。

 無理もない。

 ほんの少し前、この中身がもたらした暴走に巻き込まれ、彼女は傷つき魔力を枯らした。その結果が、八日間の療養だ。


「なんだ、緊張しているのか?」


 アルドは木箱から離れ、エリシャの隣に並びながら声をかけた。


「するに決まってるじゃないですか。だって、こんな代物が近くにあるんですよ?」


 エリシャは目を逸らすわけでもなく、真正面からそう言った。

 アルドはふっと息を吐き、軽く肩を竦めた。


「なに、こいつそのものが危険なものというわけではない。ちゃんと俺たちの手にあって、俺たちの管理下にあるなら、あんな暴走はしない。と同じだ」


 顎をしゃくって示した先では、学会側の護衛に短い指示を飛ばしていたエストファーネがいた。

 新調したらしいプレートメイル上に、赤い外套、腰にはいつもの剣。彼女が短く命じるたび、護衛の兵や御者たちは「はいっ」と返事をして持ち場へ散っていく。


「剣のこと、ですか?」

「ああ。エストファーネが持つ剣は脅威ではないだろう? 賊や敵が持つ剣は脅威になるだろうが」


 同じ鉄でも、握る手が違えば意味は変わる。

 扱う意志と、制御する技術。その両方が揃っていれば、危険は力ではなく盾にもなる。〝封印核コア〟も同じだ。使い手さえしっかりとしていれば、もうあんな暴走は起こさせない。


「なるほどです。確かにそうですね」


 エリシャは、少し考えてからこくりと頷いた。

 まだ完全に緊張が解けたわけではないが、唇の端がかすかに上がる。


「何はともあれ、先生がいれば大丈夫ってことですよね?」


 ぽつりと、そんな言葉がこぼれ落ちた。

 アルドは一瞬だけ言葉を選びかけて、結局、余計な飾りをつけるのをやめた。


「ああ、その通りだ。安心しろ」

「わかりました。じゃあ、安心しますっ」


 エリシャの顔がぱっと明るくなって、顔を綻ばせる。

 単純だな、と内心で苦笑しそうになったが、その単純さに何度助けられてきたかを思えば、そうも言えない。

 きっと、彼女のこうした笑顔に、アルドは知らずのうちに支えられていた。


「全く……命懸けの遠足なのに、デート前みたいな顔してるわよ、エリシャちゃん」


 不意に、そんな声が横から飛んできた。

 門前の石段に腰を下ろし、腕を組んでこちらを眺めていたアリアだ。


「あ、アリアさん!? 何を言ってるんですかッ」


 エリシャが盛大に裏返った声を上げた。

 耳まで真っ赤になり、両手をばたばたと振る。


「そ、そんな変な顔してませんってば! ね、先生!?」

「遠足ではないぞ」

「わかってますってば!」


 そこだけは食い気味に否定するあたり、さすがに線引きはしているらしい。

 アリアはくすくす笑いながら立ち上がり、近づいてきた。


「でも、いい顔よ。それくらいの気持ちでいる方が、きっと上手くいくわ。それに、もう前みたいに青い顔で運び込まれるのも、勘弁してほしいしね」


 その言い方に、エリシャの動きが一瞬だけ止まる。

 けれどすぐ、「……ですよね。ご心配おかけしました」と小さく頭を下げた。


「ちゃんと戻ってきなさいよ? 報告書を書く人の身にもなってほしいわ」

「そこなんですね、心配の内訳が」


 エリシャが呆れた声を漏らし、アルドは思わず口元を緩める。

 アリアのこういうところが、ギルドの「顔」として長くやってこられた所以なのだろう。


「配置、完了した。護衛と御者は、いつでも動ける」


 エストファーネがこちらへ歩いてきた。

 短く報告する声は、いつも通り落ち着いている。


「学会側の隊長とも確認した。峡谷までの警戒体制も問題ないはずだ」

「助かる」


 アルドがそう返すと、エストファーネは一瞥だけ木箱に視線を送り、それからエリシャの方へ目を移した。

 少女の頬に残る、ほんの僅かな頬の赤みと緩み。

 それを見て、彼女は小さく息を吐く。


「やれやれ、もう少し緊張感を持ってほしいものだな」

「全くだ」


 エストファーネの苦言に乗る形で、アルドも同意する。


「な、なんか先生にそう言われるのは腹が立ちますね……」


 エリシャがむくれたように頬を膨らませた。

 ぶつぶつ文句を言いながらも、その声にはどこか楽しさが混じっている。

 エストファーネも、「まあ、そのくらいの方が丁度いいのかもしれないな」と小さく笑った。

 アリアが腕を組み直し、三人を見渡す。


「はいはい。じゃあ、そろそろ時間ね。門番にも話は通してあるから、出立の合図があればすぐ開けてもらえるわ」

「ギルド本部には?」

「予定通りに出発したって報告を飛ばしておく。何かあったら、責任者の名前は全部アルドさんで出しておくから安心して」

「安心要素がどこにもないな」


 そんなやり取りに、周囲で待機していた護衛たちの口元にも、わずかな笑みが浮かぶ。

 命懸けの任務であることは、誰もが理解している。

 それでもこうして、出発前の大気にほんの少しの笑いを混ぜておくのは、悪くない。


(さて──)


 アルドは木箱へと視線を戻す。

 金属の補強枠。

 刻まれた封印陣。

 その奥に潜む、世界の命令文の塊。

 ポケットの中では、フィルから渡された追加資料が、まだひんやりとした存在感を主張していた。


(剣と同じ、か……)


 自分でそう言ったのだから、きちんと握り続けねばならない。

 手放しにすれば、それはたちまち「誰かの手の中の脅威」に変わる。


「じゃあ、行ってくる」


 アルドはアリアにそう告げた。


「ええ。いってらっしゃい。さん」


 アリアが軽く手を振る。

 その言葉にエリシャが照れ、エストファーネは眉を顰め、アルドは肩を竦めた。

 ほんの一瞬、四人の間に、同じタイミングで笑い声が重なる。

 それは、これから行く先の重さを、ほんのわずかでも軽くするための、最初のひと押しだった。

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