第6話 拒絶(Reject)

 朝の区画には、消毒液と熱金属のにおいが混じっていた。

 作業灯の光は、夜と朝の境を認識しない。ここでは時間は“供給”されるものだ。壁に埋め込まれた白いパネルが、一定の周期で昼と夜の明度を切り替える。それがすべての生体リズムの基準になっていた。


 アマンダは、割り当てられた工具を取り、機械の内臓のような配管の隙間に手を差し入れた。指先が熱を帯び、油が爪の奥に入り込む。毎日同じ作業。

 誰かのためではない。

 ただ「罪を償うため」と言われている。


 罪――。その言葉を聞くたび、彼女の脳は鈍い痛みを覚える。

 自分が何を犯したのかを、誰も説明しない。

 生まれたときから“罪人”であることが当然とされている。

 同じ顔をした者たちが、同じ工具を握り、同じ手順で部品を取り替える。間違えた者は黙って消え、次の個体が同じ番号を受け継ぐ。


 昨日、隣のブロックで「67番」が処理された。

 機械の故障ではない、心の故障――そう呼ばれていた。

 “心”という単語を、誰も定義しようとしない。

 ただ、「壊れた」と言われた者は、再教育区画に送られ、数時間後には記録から消える。


 アマンダはそれを“削除”と呼んでいた。

 彼らの存在が消されると、勤務表の空欄が翌日には新しい名前で埋まる。

 新しい個体は、同じ声で「おはよう」と言い、同じ姿勢で働く。

 その瞬間、世界は継ぎ目を失い、完璧に閉じる。


 だが今朝、アマンダはわずかな「乱れ」を感じた。

 配管の奥に、古びた札のようなものが貼られていたのだ。

 茶色く焼けた紙に、見慣れない文字が刻まれている。

 ――“拒絶するな”――。

 それは命令にも似ていたが、誰の命令でもなかった。


 視線を上げると、監視用のドローンが通路を滑るように移動していく。

 だが、いつもよりも動きが遅い。

 アマンダは手を止め、札をそっと剥がした。紙は湿っていて、崩れそうなほど脆かった。

 彼女はそれをポケットに隠す。


 作業を終えたあと、点呼が始まる。

 全員が壁際に並び、音声入力に従って番号を復唱する。

 「一一九。正常。」

 「一二〇。正常。」

 順番が進み、彼女の番が来た。

 「一二三、正常。」

 その瞬間、監視装置の赤い光がわずかに点滅した。


 「反応値、低下。再測定。」

 無機質な声が天井から響く。

 アマンダは、喉の奥が詰まる感覚を覚えた。

 “拒絶するな”という文字が、脳の奥で反響していた。

 命令に従うことが呼吸であり、反射であるこの世界で、彼女は初めて呼吸を止めた。


 ――測定、異常なし。

 機械の声が途切れ、照明が通常の白光に戻る。

 列の中の誰も、何も言わなかった。

 だが、アマンダの胸の奥では、何かがわずかに軋み始めていた。


 罪を償うとは、何を意味するのだろう。

 もしそれが“命令に従うこと”ならば、彼女は今日、確かに一度だけ“罪を犯した”のかもしれない。

 札の文字が、脳の裏側にこびりつく。

 拒絶――。

 それは、息を吸うのと同じくらい自然な行為のように思えた。

 その夜、アマンダは眠れなかった。

 区画の照明が落ちても、天井の配線から漏れる微光が彼女の顔を照らしていた。

 壁一面に設置された記録端末が、時折、電子音を立てて動作する。

 データの書き換え――それはこの場所における“夢”のようなものだった。


 隣のベッドでは、同じ顔の少女が静かに呼吸している。

 “アマンダ=124”と名付けられたその個体は、昼間の彼女とまったく同じ声で笑い、同じ癖で寝返りを打つ。

 見ているだけで、気が狂いそうになる。

 自分という存在が“唯一ではない”という感覚が、血液の中を逆流していく。


 ――もし、私が死んでも、代わりが現れる。

 それが制度の美しさであり、恐ろしさでもある。

 “人間”は、誰かが死んだ後に穴を埋めるようにして社会を維持してきた。

 この世界では、その穴を埋めるのが“同一の人間”になっただけ。


 彼女はベッドから降りて、靴音を殺しながら通路へ出た。

 夜間の区画は静まり返っていて、冷却ファンの低い唸りだけが響いている。

 札を取り出して、掌の上に乗せた。

 ――“拒絶するな”。

 意味が分からないのに、どうしても捨てられなかった。


 廊下の端で、彼女は警備ドローンのセンサーが死角になる角度を見つけた。

 そこに、小さな通風孔がある。

 昼間、配管の奥を掃除していたときに見つけた穴。

 それは世界の外へと繋がっている――そう直感していた。


 彼女は膝をつき、鉄格子の蓋を外そうとした。

 工具はない。

 指をかけると、爪が割れ、血が滲む。

 痛みは、まるで自分が生きていることの証のようだった。

 誰かの罪を背負っているはずの自分が、初めて“自分の痛み”を持った。


 「――何をしているの?」


 背後から声がした。

 振り返ると、124番が立っていた。

 無表情のまま、しかしその瞳の奥に“理解”の光が宿っている。


 「……外を、見たいの。」


 アマンダの声は震えていた。

 124はしばらく彼女を見つめ、ゆっくりとうなずいた。

 「私も、そう思っていた。」


 その瞬間、世界がわずかに裂けた気がした。

 均質で、完全だった秩序の中に“共感”が入り込んだ。

 それは、制度が最も恐れる“感染”だった。


 二人は格子を外し、暗い通風孔の中に身を滑り込ませた。

 風の匂いが変わる。

 冷たく、乾いている。

 これまで嗅いだどんな空気とも違う。


 彼女は前を行く124の背を見ながら、心の中で呟いた。

 ――罪とは、誰のものだろう。

 私たちの中にある“原型”の罪?

 それとも、命じられた通りに生きてきたこの日々そのもの?


 狭い通路を抜けると、錆びた扉が現れた。

 その表面には、薄くかすれた記号が刻まれている。

 “自由”の文字に似ていたが、少し違う。

 まるで古代の言葉のように、意味が削り取られていた。


 アマンダは、そっと手を伸ばす。

 指先が冷たい金属に触れた瞬間、

 遠くで警報が鳴った。


 だが、彼女の心は不思議と静かだった。

 何かを失う恐怖よりも、初めて“自分の意志で選んだ”という感覚が全身を満たしていた。


 ――拒絶するな。

 その言葉は、命令ではなかった。

 それは、外の世界へ向かう“祈り”だった。

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