第5話「鏡(Mirror)」
朝、点呼の鐘が鳴った。
いつものようにアマンダは列に並び、
名前の代わりに番号を呼ばれるのを待つ。
呼ばれるというより、確認される。
存在が「正しくここにある」ことを示す儀式だった。
「R‐41、確認。」
声が返る。
その響きは、もはや自分の名前のように馴染んでいる。
けれど、心のどこかで反発する音がした。
その数字は、誰かの名の断片を削って作られた記号。
呼ばれるたびに、少しずつ“彼女”が削られていく。
午前の作業はいつも通りだった。
だが、その日、指導係が珍しく区画を分けた。
「R‐41からR‐60まで、別棟へ移動。」
アマンダは列の後方で小さく息を呑んだ。
「別棟」とは、修正施設に併設された検体棟。
通常の囚人は立ち入らない場所だった。
何かの点検、あるいは交換。
どちらにせよ、戻ってこない個体もいるという噂があった。
冷たい鉄の廊下を歩く。
靴音が、まるで誰かの心臓の鼓動のように響いた。
長い通路の先に、ガラスの扉があった。
その向こう側には、アマンダがいた。
鏡のように、彼女は立っていた。
だがそれは鏡ではない。
向こう側の部屋に、同じ顔をした誰かがいた。
髪の長さも、傷の位置も、声の高さも同じ。
だが、目が違った。
奥に光があった。
——まるで、生きているように。
「……あなたも、アマンダ?」
ガラス越しに尋ねると、相手は微笑んだ。
「そう呼ばれたこともある。」
その声は柔らかく、どこか懐かしかった。
アマンダは息を飲んだ。
まるで自分の中に眠っていた声を聞いた気がした。
彼女たちは、しばらくガラス越しに見つめ合った。
言葉は少なかった。
けれど、沈黙が何かを伝えていた。
「あなた、どうしてここに?」
「調整個体。第二世代だって。
あなたたちの学習データを元に作られたらしい。」
「学習……?」
「ええ。あなたたちが“罪を考える”癖を持ってしまったから、
それを修正するための個体なんだって。」
アマンダは目を伏せた。
罪を考えることが、欠陥。
それがこの世界の倫理の形だ。
「でも、あなたは考えてる。」
「そう見える?
……私もそう思う。欠陥は、連鎖するんだと思う。」
アマンダは初めて、心の底から笑いそうになった。
笑ってはいけない場所で、
誰かと同じ温度を共有したのは、初めてだった。
その夜、アマンダは眠れなかった。
反省室の暗闇よりも、今日見た“彼女”の瞳の方がまぶたに焼き付いて離れなかった。
ガラスの向こうのアマンダ——第二世代。
彼女は鏡のようでありながら、鏡ではない。
彼女の存在が、「同一であること」への信仰を壊していた。
同じ形で、違う。
違うのに、同じ名前を与えられる。
世界はそれを矛盾とは呼ばない。
それが制度の“完全”を保証するための仕組みだから。
でも、彼女は感じていた。
——違いこそが、生きている証なのだと。
翌朝、アマンダは再びガラスの前に立った。
昨日の彼女がまだいるか確かめたかった。
しかし、部屋は空だった。
白い照明だけが点いていて、冷気が漂っていた。
床には、金属片のようなものが落ちている。
拾い上げると、小さな刻印が見えた。
「R‐61‐β」
アマンダは息を呑んだ。
番号。
同じ系列の新しい記号。
昨日の彼女は、もう“次”に置き換えられていた。
彼女の胸の奥に、かすかな痛みが走った。
その痛みは、失う悲しみではなく、世界の均質さへの恐怖だった。
昼休憩の時間、アマンダは隣の囚人に話しかけた。
「もし、自分が置き換えられたらどうする?」
囚人はスプーンを動かしながら、
無表情のまま答えた。
「置き換えられた時点で、私じゃない。
でも、同じ動作をするなら、問題ないでしょ。」
その答えに、アマンダは何も言えなかった。
“問題ない”という言葉が、
この世界を形作る最大の暴力であることを、
彼女はもう知っていた。
その夜、アマンダは夢を見た。
ガラスの向こうの自分が、笑っていた。
そして、何かを囁いた。
「あなたは、まだ“鏡”を信じているのね。」
目が覚める。
心臓が速く打っている。
汗が額を伝う。
暗闇の中、天井の継ぎ目を見上げると、
そこにうっすらとヒビが走っていた。
アマンダは手を伸ばした。
指先に、冷たい風が当たる。
壁の向こうに、また“外”がいる。
「私たちは、誰を映してるんだろう。」
彼女の声は誰にも届かない。
だが、闇の中で確かに響いた。
それは祈りでも、呪いでもなく、
世界そのものに向けた問いだった。
次の日、監視員が記録を読み上げる。
「R‐41、感情指数上昇。要再調整。」
その声を聞きながら、アマンダは思った。
——感情が罪なら、
私は罪を持って、生まれてきた意味がある。
胸の奥に、昨日の風が吹く。
ガラスの中の自分が、どこかで笑っている気がした。
倫理に閉じ込められた世界の中で、
彼女は初めて、他者を欲した。
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