種札の渇き
灯野 しずく
第1話 喉に砂が鳴った日
太陽の滲む輪郭が街路の端から端まで焼き付けた白に近い黄を敷き詰め、舗装の上を漂う薄い揺らぎがまぶたの裏で別の景色へ変換されるたび、体内の水が音もなく蒸発していく感覚だけがはっきりと残り、飲み物の自動販売機まで指の距離より短いはずの道のりが、遠い丘へ伸びる砂の坂道みたいに延々と続く錯覚に支配され、財布の位置も小銭の枚数も思い出しながら歩幅を狭めてみても脈のほうが速く進んでしまい、胸の内側で乾いた鳥の羽ばたきみたいな鼓動が何度も跳ね、舌の表面に塩の結晶がざらついた刃に変わり、唇は自分のものではない別人の皮のように硬く縮れ、耳の奥へ入ってくる街の音は遠い祭りの残響に変質して、風鈴の高い音と車のタイヤの低い唸りが絡んだ帯が頭の後ろを巻いて締め、足先の影が地面に貼りついたまま剥がれにくくなった瞬間、視界の中央で銀色の箱がぼやけ、その内側に見えた水滴の映像が急に遠のき、膝の関節から砂がこぼれ落ちたみたいなきしみを最後に、体が前ではなく内側へ倒れる角度を選び、触れた舗装の熱が頬を焦がし、その熱が合図になって膜のような何かが一枚だけ静かに抜け、深い井戸の底に落ちる石の音がしない落下へ移り、落ち着いた暗さが布団の裏側のように柔らかく広がった。
暗がりの温度が土の中の貯水槽みたいにひんやりして、頬を撫でた空気が湿りを含んでいると気づいた瞬間、地面を踏む音が背後から近づき、振り向いた視界の中へ麦色の掌がすっと差し出され、その掌の皺の深さが雨上がりの畑の畝を思わせ、その指に出た古い傷の白さが冬の朝の霜柱みたいに細く光り、顔を見上げると見覚えのある顎の線と眉間の影が、遺影の中でしか会ったことがない人と重なり、胸の奥で忘れていた苗代の匂いがふっと立って、名を呼ぶ前に相手がこちらの呼び名を子どものころの言い方で言い、声の響きが家の土間に置いた鋤の柄に当たる音を思い出させ、驚きが喉に残ったまま起き上がると、世界は夜明け直前の田の端の薄闇を引き延ばしたみたいな灰青で、足元は水気を含んだ黒い土、その上に稚い緑の糸が無数に顔を出し、遠くで牛ではない大きな獣の鼻息が寝息のように響き、その向こうに屋根の低い作業小屋の影と、知らない形の星座を映す浅い水面が見え、空の真ん中に帯を引く大きな川みたいな光の筋が、地上の畦道の位置を優しく指示していた。
掌の主は笑みを短く見せ、土に馴染んだ声で、ここは終わった後に手順を覚え直す場所で、乾きに打たれた者は根の曲がり方から学び直すのだと告げ、目の前の畑の枠が自分の課題で、芽吹きも枯れも降水も雑草も虫も、計画と予感の両方で扱う練習をここでしなさいと穏やかに続け、その言葉が肩の硬さをほどき、死の実感という硬い板が一歩ずれて、代わりに湿った土のぬめりが指先に移り、呼吸はさっきよりも深く、鼻腔に入る匂いは黒豆を煮る甘い湯気と、雨の前に草が放つ青さが混ざって、うれしさとか悲しみとか名前の付け方が難しい感情が胸の中央で丸まり、目尻の端に少しだけ水が戻り、頬を伝う前に土の色へ吸い込まれていくのが分かった。
祖と呼ぶべきその人は、かつて川の氾濫の年に家族の食べ物を守るため畦を高く積み直し、倉に残した玄米の数を記録するため木札を新しく刻み、台風の夜に苗代へ灯りを置いて風下の欠けを補った人だったと、近所の古い人たちから何度も聞かされていた人物で、その肘の傷や手の甲の節の固さがまるで昔話から抜け出たようにここにあり、土の上へしゃがんだ姿勢のまま、右の掌を畝の端へ当て、土中の水脈の流れを確かめる仕草を見せ、ここでは手一本で水の歌が聞こえると囁き、耳を澄ますと確かに、土の奥からとろりとした低音が緩やかに近づき、芽の根元を撫でて去っていく気配があり、その音の波形に合わせて指先をわずかに曲げ、曲げた角度に水が反応して進路を少し変え、乾きが強い部分へ筋を引いてくれるのが分かり、その瞬間、喉の奥でさっきまで鳴っていた砂の音が静まり、体の中の砂漠に最初の細い用水が引かれたような安堵が拡がった。
この畑では道具が増えるらしく、祖は腰の袋から薄い札を取り出し、札の表面に微細な線が迷路のように刻まれ、小さな点が脈打つように輝き、ここでは種は貨幣であり呪であり契約書でもあって、札に刻まれた経路は育て方の約束であり、土へ埋める角度や月の高さや風の方向で利子が変わり、芽が伸びる速度や病を避ける確率が読み取れると説明し、札をひとつ渡してくれたので、掌の上で角を指で軽く弾くと小さな音が鳴り、その音が畑の境界へ伝わり、さっきより一段深い呼吸が土全体へ広がって、目に見えない判子が押されたみたいに地表の粒子の並びが整い、薄い靄が畝の上を流れる向きが変わって、光の筋がまだらから均一へ滑っていく変化が見え、たった一枚の札で世界の表面がひと呼吸ぶんだけ生まれ変わるのを見て、胸の中で不思議が驚きに変わり、驚きがやがて期待に混ざった。
この世界には耕す営みと同じ強度で賭ける場があり、札を賭場へ持ち込み、雨の来る時刻や虫の群れの角度を読み、月の欠け具合と風の匂いで勝負の目を張り、収穫の先物を回す帳場が夜毎に灯りをともしているらしく、祖は片眉を上げて、賭場に身を落とせば種が減るだけだと叱りたくなる一方で、確かな読みを持つ者が畑を守るために短い勝負で必要な水権を引き寄せることもあると認め、つまり賭けも道具だと告げ、欲と必要の境目を自分の喉の渇きで量るのだと諭し、札の裏面を示して、ここに印をひとつ増やすには、賭場の秤で負けない耳と、畑の呼吸を乱さない指が必要だと続け、その言葉の中に不思議な温度差があり、厳しさと笑いが同居していて、さっきまで自分の命が終わった事実の鋭さが、耕すという具体の中へ緩やかに沈んでいくのを感じた。
初めての仕事は、畝の端に立っている黒い棒の影の長さを見ながら、札の迷路の特定の角に朝の光を通し、こぼれた粒子を拾い戻し、水脈の歌を二度だけ低くいなして方向を南へ寄せ、湿りが薄いところへ薄く絹の布のように霧を引くことで、稚い芽の背丈を指の幅ぶん確かめる作業で、単純そうに見えて気配の微妙な揺れを読む必要があり、指先の皮膚の温度が少しでも強すぎると霧がほどけてしまい、逆に冷えすぎると霧が固まって粒になり、葉の縁を重くして倒してしまう危険があり、祖は後ろから呼吸の深さを合わせるように静かに立ち、肩越しに歌の音程を低く真似てみせ、わずかな首の傾きで合図を出し、こちらの失敗を先回りで柔らげ、目の端で見るだけで方向を教え、手を握らず、声を荒げず、揺らぎの中心にだけ触れてくる感じで導き、いくつかの合図が身体に入ると、土とこちらの胸の奥を通る空気が同じ拍で伸び縮みして、何かが噛み合い、ここでやっていけるかもしれないと初めて思えた。
作業を続けるうち、遠くの水鏡の表面を小さな舟が滑るように横切り、舟の上に立つ影がこちらへ手を上げ、肩から下げた袋の口から札が少し覗き、舟の舳先の装飾に小さな鐘がいくつも下がり、波が触れるたびに微かな金属音が連なる涼しい合唱が起こり、その舟が岸に寄ると、濃い藍色の布を締めた若い人が笑って、今夜の灯りの輪に来ないかと誘い、祖が顎を少し引いて、初日から耳を騒がせるなと目で伝え、相手は悪びれず、畑の息が整っていれば灯の下で学べることもあるからと軽い声で続け、こちらは頷き方を迷い、祖の表情を盗み見てから、作業小屋に道具を戻した後でなら顔だけ出すと答え、相手は鐘の鎖を指で弾いて短い音を残し、舟の底板を蹴って去っていき、その背中の軽さの奥に、何度も干上がった湖の底を知っている人間の重心が見え、賑わいと危うさが並んで立っている輪の中へ自分の足もいつか入ることを、遠い地面に描かれた道の線の続きを見るような感覚で予感した。
日が傾き、光の川の幅が少し狭まり、畦の影が長く伸び、芽の先に小さな露が一列に並び、その粒がこちらの目を小さく映し、胸の内側の渇きが朝と違う質へ変わり、飲み物を求めるという生の悲鳴から、土と空から学んだ呼吸のリズムを続けたいという欲へ移り、汗が塩に変わるまでに何度も薄い風が肌へ触れ、袖の布の内側で微細な砂が音を立て、首筋を伝った一滴が背中へ滑り、その道筋が熱の地図を描き、地図の終わりにある作業小屋の影が涼しい洞窟みたいに感じられ、扉を開けると干草の匂いと油の混ざった甘い香りが出迎え、棚には見知らぬ形の鍬や、円盤状の羅針のような器具や、札を保護する薄い鞘が並び、壁には古い誰かの手による印が数列刻まれ、そこに並ぶ記号の中に、幼いころ覚えた家の蔵の梁の傷跡に似たものを見つけ、祖はその前で少しだけ沈黙し、ここにも長い時間が積もっているのだとゆっくり言い、初日の終わりに、札を一枚だけ畝の端へ返し、代わりに小さな木の勾玉のような護りを紐で渡し、夜に灯りの輪を見るならこれを首に下げよと勧め、悪い風のかけらを避けられると説明し、その紐の肌触りが汗で冷えた鎖骨のあたりに心地よく、何かに守られているという言葉に頼らずとも、体が自分で守り方を思い出す手助けになるような、落ち着いた重みがあった。
水面のほうから灯りが増え、薄闇に乳白色の輪が浮かび、舟の鐘の音がいくつか重なり、誰かが笑い、別の誰かが囁く夜のはじめの気配が低い霧のように広がり、祖は背を向けずに目で行ってこいと告げ、こちらは頷き、首の護りを確かめ、畦道を足の記憶に任せて歩き、灯りの輪の縁に立ったとき、札の売り買いの声や、水権の配分に関する短い交渉の気配が耳へ入り、香草を煮た湯の香りや、焼いた穀の香ばしさが腹の奥を温め、輪の中心では小さな台の上に砂時計が置かれ、砂の粒が落ちる速度に合わせて手の合図がいくつも交わされ、周囲には天秤や刻みの入った棒や、月の位相を示す丸い盤があり、そこに集まった人々の目は、炎の明滅に照らされて各々違う濃さで光り、勝ち負けの数字ではなく、畑一枚ぶんの雨を今日中に確保できるか、病の広がりをここで止められるか、明朝の霧の量をどれだけ借りて返すかという、具体的な生活の数が巡っているのが見え、賭けが破滅ではなく調整であり、しかし一線を越えれば畑の呼吸が乱れる危うさを内側に抱え、輪の外に立つ者の心まで少し速くする種類の熱を生んでいるのを肌で受け取った。
輪の内側から先ほどの舟の人が気づいて手招きし、こちらは慎重に一歩だけ輪の影へ入り、札を賭けるのではなく、耳を使う練習として、砂時計の音と天秤の揺れと、火に投げられた香草の弾ける小さな破裂音を分けて聞き、その三つの音が重なる瞬間にだけ目を閉じ、胸の奥で昼の畑と同じ拍で息を吸い、指の関節をわずかに曲げ、札の角を外衣の布越しに撫でて、札の迷路の中の最短路がどちらへ傾くかを予想する遊戯をこっそり試し、舟の人が笑みだけで評価の合図を送り、耳の使い方が畑と賭場で地続きであることを、体が動きで理解した瞬間、小屋の方向から祖の姿は見えないのに、背中に安心の気配がふっと乗り、輪の中心で砂が止まり、短い勝ちの歓声と悔しさの吐息が交じり、誰かが札の角を軽く叩いて夜の区切りを作り、灯の高さが一段下がり、火の周りに集まった顔がそれぞれの家の影と重なって、ここが死後であることを忘れるのではなく、忘れなくても立っていられる居心地が生まれ、乾いて死んだという自分の最後の瞬間の刺が、土の水脈に溶けて遠くへ運ばれていく情景を想像できる余裕が胸に宿った。
輪の外へ一歩下がり、水面のほうへ目をやると、星の川が少しだけ濃くなり、水に映る光の道が畦の線と重なり、遠い岸にぼんやりと別の灯が見え、その灯の上に、札の迷路の図と似た形が薄く浮かび、そこに立つ影がこちらへ背を向けたまま手を上げ、振り返らないまま、風に乗せた言葉で、明日、畑の北の端で古い種の庫を開ける、来るなら合言葉はいらない、耳と指だけ持って来いと告げ、その声の低さに祖の声の響きが少し混ざり、明日という単語がこの世界にもあることの安堵が胸に落ち、札を首の紐の下へ滑り込ませ、輪の音から少し離れた暗がりへ体を置き、湿った夜気を吸い込み、胸骨の裏でゆっくり伸びる呼吸の布を整え、今日という最初の一日が畑の土にしっかり縫い留められた感触を確かめ、目を閉じずに、暗闇の細部を見る練習を続けた。
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