砂の月に愛を浮かべて
推しと愛馬が
月無き出会い
「ジョルジュ! おかえり、今日もお疲れ様! 」
玄関のドアを開けると、その音を聞きつけて愛するひとがひょこりと顔を出す。幸せそうな笑みは血と灰燼を浴びて乾くジョルジュの心によく沁みた。
「ただいま」
腕を広げると、そのひとは無邪気な仔犬のように飛び込んでくる。たっぷり数分、ぎゅうと思い切り抱きしめると、腕の中でちいさく「いきてる」と噛み締めるような呟きが聞こえた。
「……コート預かるよ、お湯溜めてあるからお風呂入っておいで」
「食事はいいのか」
コートについた汚れをブラシで丁寧に落とすエステルに声をかける。
この女は吸血鬼だ。
とはいえ、血掟で定められた法に則って暮らす害のない吸血鬼である。特に少食で人間が大好きなこの吸血鬼は、ハンターたるジョルジュが狩る対象にはなり得ない。
「うん。まだお腹空いてないし、ジョルジュ疲れてるでしょ。私のことはいいから、さっぱりしておいで」
コートの手入れを終わらせたエステルはそう言って微笑み、鼻歌混じりでキッチンに消えた。ジョルジュの食事を温めるらしい。
「そうだ!今日のお風呂はラベンダーのバスソルトだよ、私のてづくり!余計な念もイチコロだからちゃんと浸かってね」
キッチンのドアからエステルが再び顔を出す。明るい笑みに反してジョルジュは肝の冷える思いだった。この家にある塩は、調味料を除けば教会にて清められた対吸血鬼の儀式用岩塩しかない。
特に、死人タイプの吸血鬼であるエステルにはてきめんに効く。
「まて、清めの塩を使ったわけではあるまいな」
「使いました」
即答であった。
エステルにはこれまでも仕事道具だけは触ってくれるな、と口酸っぱく伝えてきたが、こうも悪びれずさらりと破られると清々しさすらある。ジョルジュは大きくため息をついて頭を抱えたが、厳しく叱咤する気にはなれなかった。
吸血鬼討伐後、殺された吸血鬼の怨念や負の感情が知らず知らずのうちにハンターには纏わりついていく。それは教会を拠点にしてきてもなかなか離れず、次第に心身ともに影響が出る厄介なものだ。家でも積極的に沐浴や清めの塩を使った入浴など、簡素な浄化を行うに越したことはない。組合からもそのように推奨されている。
エステルの行動は、ジョルジュを想ってのことなのだ。
「火傷は?」
叱りつけるより、ジョルジュは先に愛するひとの指先の確認をした。
神の加護を与えられた物に触れると死人タイプの吸血鬼はたちまち皮膚が焼け爛れ、空気中のエーテルやマナを使用した皮膚組織再生も無効化される。痛々しい傷跡が一生残ることになるのだ。
幸いなことに、エステルは手袋を何重にもして、服装も細心の注意を払って塩を扱ったようだ。青白い肌には傷ひとつない。
「あまり心配させるな」
「ごめんごめん、でもなんかしたくってさ」
「気持ちだけでも十分嬉しい」
この女はいつもこうだ。誰かのために傷つくことを厭わない。ジョルジュはエステルを抱きしめながら、その出会いを思い返す。
二人の出会いは新月の夜の路地裏だ。
仕事を終えたジョルジュは灰に汚れたコートを翻し、街灯が照らす帰路についていた。
帰路とはいえ、夜は吸血鬼の時間だ。帰宅して施錠するまで油断はできない。足音を立てず石畳の道を歩くと、案の定というか、やはり、というか。唸り声が聞こえてきた。
若い――いや、子どもの声だ。
ぐるる、と犬にも似た喉奥でこだまするそれは飢えに乾いて、自然とジョルジュの手は腰に佩く剣に伸びた。
すらりと抜刀すれば、薄く青い聖火を纏った見事な大業物が姿を現す。この刃で今宵は三体の吸血鬼を塵にした。
声の聞こえる方へ足を向けると、真新しい吸血痕から血を流し、悶え唸る少年の姿があった。命を作り変えた張本人の気配はすでになく、一歩遅かったとジョルジュは少しだけ苦々しく思う。
幸いにもここは狭く入り組んで、人気のない路地裏だ。命が眠りにつくこの時間、他に犠牲者は出ないだろう。飢餓に苦しむ姿は痛々しく、またこの少年に食い殺される人間を出さぬためにも、今のうちに消しておかねばならない。
ジョルジュが剣を振り、飢えにのたうち回る幼い吸血鬼を焼くかと思った瞬間。黒い影が間に割って入った。
「待って!」
どっ、と鈍い音を立てて刃が影の脇腹に食い込む。悪しきの肉を焼き骨を断つはずの焔が一瞬その光を失い、ジョルジュが驚くその傍ら、衝撃に耐えきれず影は壁に強く叩きつけられた。
「げほっ、ごほっ!」
どくどくと黒い血を流し、影は苦しげに咽せている。ジョルジュは悶える影──黒いコートの女を睨みつけた。
「何だお前は」
女はぜえぜえと呼吸しながら、這って飢餓状態の少年の元へ行く。ジョルジュはその様を油断なく見つめるが、女が誰かを攻撃する気配はない。ぐるぐると唸っていた少年は流れる血の匂いに同族の気配を感じ取ったのか落ち着きを見せ、女の腕の中で大人しくしている。
「さあお食べ、苦しかったね」
「! 」
女が懐から取り出したのは血液パックだった。パックには行政が吸血鬼への販売を認可したものにだけつけられるロゴマークが入っている。
「血液商人か」
少年が夢中になって血液を吸う間、ジョルジュがそうとえば女は白い顔で頷いた。
「私はエステル。吸血鬼で、君のいう通り血を売り捌く仕事をしている。それから──」
満腹になったのか、エステルの腕の中で眠りにつく少年を優しく見つめ、ぼさぼさに乱れた髪を手櫛で整えてやる。
「こういう飢餓状態の新米吸血鬼に非常食を与えて、保護施設にぶち込む慈善活動もやってる。ほら、認可証と会員証。一応こういうの発行されんだぜ」
ジョルジュの足元にカードが2枚飛んでくる。そこには、認可された血液商人にのみ渡されるICチップが入ったカード、それから、吸血鬼保護団体の会員証があった。写真と名前は目の前の女と一致している。街灯の光に反射して、特殊なホログラム加工がチラチラと輝くのも確認できた。間違いなく正規のものである。
「君ら人間からしたら、将来同族を襲いかねない吸血鬼の芽は摘みたいだろう。"飢餓状態の吸血鬼は殺害しても構わない" そう血掟にもある。けどね、私らにとってもこの子はすでに仲間だ。彼がきちんと自我を取り戻して、吸血鬼の生き方を学んで、自分の行末を自分の意思で選べるようになるまで、時間を作りたいと思うもんだよ。見逃しちゃくれないか、ジョルジュ」
女、エステルが教えていない自身の名を発したことでジョルジュの剣を握る手に力が入る。ス、と音もなく剣を構え、威嚇を行うと、エステルは慌てて子を守るようにして後ずさった。
しかしその顔に怯えはない。多くの吸血鬼が戦意を喪失するジョルジュの威嚇にも動じないということは、それなりに長く生きて経験を積んだ吸血鬼の証左である。軽薄で友好的なその態度で、突然牙を剥くことだってあり得るのだ。
「よしてくれ!悪かったよ、急に馴れ馴れしく名前呼んだりなんかして!でも、この辺を拠点にしてる聖火の剣士なんか、君以外いないだろう!」
「どうかな」
「嫌になるぜ、みんなもっと気楽に構えてくれたら私たちも楽なんだけどな。血掟が定められるよりずっと前から、慎ましく暮らしてるっつの」
エステルは脇腹から血を滴らせながらも子を腕に抱えたまま危なげなく立ち上がり、何の感情も載せない顔で、踵を返した。
「とにかく、私はこの子を保護施設まで連れて行く。気になるなら君もくればいい」
剣を構えたままのジョルジュに背を向けて、黄丹は闇に姿を消した。
「……奇特な吸血鬼もいたものだ」
十分ほど経って、ようやくジョルジュが警戒を解いた頃、ふとエステルの出血量が気になった。吸血鬼の再生力は恐ろしく、単に斬っただけでは胴が泣き別れたとて立ち所に接合して蘇る。
ジョルジュが扱う聖火の剣は彼が持つ発火能力を活かしたつくりで、吸血鬼にとっては凶悪な武器だ。だが、エステルの身体は焼かれなかったのか、出血が多かった。深く刃が入ったにしても出血が続いており、不可解な点が残る。
そういった違和感を見過ごさないのが、ジョルジュが名の知れたハンターたる所以である。
エステルの血の後を追うと、街の中心部、夜間保育園が入るビルにたどり着いた。同じビルの別フロアに保護施設があるらしい。
ちょうど子どもの引き渡しが行われており、眠っている子どもは施設の職員と思しきエプロンの男に引き取られた。柔らかな笑顔で子どもを見ていた男は、ついでエステルの怪我に気づいて慌てたように奥へ引っ込んだが、エステルは懐から厚みのある封筒を取り出し何か書き留めて、玄関へ放り込むと男が戻ってこないうちに姿を消した。
「おっ、いる」
背後から声がしてジョルジュが振り返ると、相変わらず無の顔をした黄丹が、白い顔で立っていた。
出血はあれから三十分近く経つが、まだ止まっていない。
「……お前の出血が気になった」
「ああこれ?コートがちょっと特別な耐火素材なんだ。だから君の剣が腹に食い込む前に火は消えて、刃だけが脇腹に入った。傷口が焼けてないから当然だよね、中身が出なかっただけ良かったかも」
そう言ってエステルは内ポケットからコートの製作者の名刺を取り出してスタージュンに差し出した。
「気になるならここに連絡してご覧」
と血を流しながら平然と語る姿はあまりにも異様だった。
剣が食い込んだ時、この女は確かに痛みに悶えていた。それが、今は何も映さぬ新月のように何も感じていない顔をしている。
「血が止まってないのは体質。普通の吸血鬼とは違って、私は傷の治りが遅くて血も止まりにくい。だからこの傷も割と致命傷なんだけど、どう?これで出血の謎は解決した?」
「……」
言葉を失ったジョルジュの顔を、エステルが下から覗き込む。闇より暗い絶望を浮かべる双眸といやでも視線が合う。
「私のことを殺す?それでもいいよ。君は首を刈るのがうまそうだ。持っていってくれないか」
「……無害な吸血鬼を理由なく殺すことはできない。血掟でそう決められている。攻撃したことについては謝罪する。傷の治療も料金を出そう」
「んはは、つまんねー」
そう笑ったエステルの口からがぼ、と大量のどす黒い血が溢れる。顎から下を汚し、薄ら寒い笑顔を浮かべたまま卒倒した。失血が限界まで来たらしい。
「……」
頭から綺麗に倒れたエステルの体を抱き止め、ジョルジュはため息をついた。
今日腕の中で白目をむいているエステルと会う前にすでに三体を相手にしており、夜明けも近い時間になっていた。吸血鬼専門の医院も、施術できる規模の設備が整っているところとなるとジョルジュの足をしても今からでは夜明けに間に合わない。
簡単な応急処置と輸血くらいなら自身でもできるか、と軽くなった女の体を抱え、改めて帰路に着く。
これが、二人の奇妙な出会いだった。
「やほ、こんばんは」
ジョルジュは無言でグラスを傾ける。その日仕事終わりにバーを訪れていた。同僚のハンターに誘われ、半ば引きずられる形で来ることになった。桃色の髪のハンターはこの店を贔屓にしている。というより、マスターの女に会いにきているのだ。二人は恋仲故に。
ジョルジュとの喋りもほどほどに、満足するとハンターの男はさっさと会計を済ませ、ジョルジュを置いてバーの二階に上がって行ってしまった。二階の居住スペースで同棲しているらしい。
自分を連れてくる意味はなかったのでは?
声をかけられたのは、そうやって釈然としないままグラスに残った酒をちびちび飲んでいる時だった。
あの奇妙な出会いから三週間、気軽で元気そうな声は変わっていない。傷を庇う様子もなく、どうやら退院──ジョルジュは応急手当ての後病院に連れて行った──はできたようだ。
「良い夜だね、今夜の収穫は?」
「懸賞金の高い者を一体……酒を飲んで平気なのか」
「ダメだってさ!だからジャンヌにはモクテルをお願いします。ライムのやつひとつ!」
ジャンヌと呼ばれたマスターは、にこりと完璧に作った笑顔でシロップやジュースの瓶を手に取った。
「はあい」
柔らかく、鈴を転がしたような声色であるのに、どこかその響きは冷えて、背筋をざらりと撫でていく。エステルはしおしおと挙げた手を下ろし、拠り所を求めたのか少し身体をジョルジュの方へ寄せた。
「ジャンヌ、鬼怒ってる」
見事な手つきでライムをカットしていくマスターの手元から目を離さぬまま、小声でエステルはそういった。親しみのある呼び方だ。
「知り合いなのか」
「三百年近くの付き合い」
「……ではマスターも?」
「吸血鬼」
人間の想像する範疇を軽く超え、二人は随分と永い時間を共に過ごしていた。怯えるような仕草の中でも、エステルが親友と言い切った時には声が温かく解けたのは心を許しているが故だろう。
「そうよ、親友です」
ドン、とエステルの前にグラスが置かれる。
鮮やかなライムのグリーンがグラスの中で螺旋を描き、ぱちぱちと炭酸が弾けるのに合わせて果肉がおどっている。
目に楽しいそれは、ジントニックに近い見た目をしていた。
「私とエステルはお互いを緊急連絡先にしたり、なんらかの連帯保証人に出来るくらいには、信頼し合った比翼の鳥で連理の枝」
「それは仲睦まじい伴侶の例えでは」
「なのに!今回は二週間も音信不通!」
「ごめんなさぁい!」
エステルの言葉もジャンヌの存在すら無視、マスターとしての最低限の礼節すら投げ捨てて、ジャンヌは怒号をあげた。
「聞きましたよ、セドリックから。エステルはあなたの刃に倒れて入院していたらしいではありませんか」
「ここで私に飛び火するのか」
すとんとジャンヌの愛嬌のある面立ちから表情が抜け落ちた。やや幼い端正なつくりの顔が無を浮かべると、それはそれは迫力がある。怒りは際限なく膨らむようで、額とこめかみを覆う髪の隙間からゆっくりと青筋が浮いた。それを視認してしまい、エステルがヒ、と小さく息を呑む。
「一発殴っても?」
関節が浮いて白くなるほど握られた拳が持ち上がった。客商売でこれほど喧嘩っ早くて大丈夫なのか、とジョルジュは内心思いながら酒を煽る。
実際ジャンヌは気性が荒い。唯一無二の友、エステルに関しては特に顕著で、考えるより先に手が出ることが多かった。エステルがそばにいて止めなくては、相手が肉塊に成り果てる。
ジャンヌの本気を悟り、真っ青になったエステルがカウンターに乗り上げて親友の体に抱きついた。他の客の目線が刺さるがなりふりなど構ってられない。
「ダメダメ! ジャンヌ待って! あれ事故だから! むしろ手厚くアフターケアしてもらってこっちが恐縮してるから! てか私それのお礼を言いに来たの! 」
腰にしがみつくエステルの頭を、ジャンヌの白い手が優しく撫でる。反面、発された声は冷える鋼のような、煮えたぎる溶岩を押し留めるような硬さを含んでいた。
「私、アンガーマネジメントって言葉嫌いなのよね。六秒あったら二百回殴れるじゃない」
エステルの口から小さく悲鳴が上がった。本気の殴打をするつもりだ。
「私の親友、私の唯一。あなたが他に害され、傷ついたことを知らないどころか手助けもできなかった私の気持ちも考えて」
「すいません」
「と、いうわけで。一発で許してあげます」
ジョルジュはグラスをそっとおいた。
「了承しかねる」
「落ち着いてよ〜ジャンヌ〜殴っちゃヤダァ〜」
エステルの泣き落としでようやく落ち着いたジャンヌは、呼吸を荒くしながらジョルジュを指さした。
「次はないと思ってください。殺します」
そう言うとジャンヌは他の客の注文を取りに、カウンターの端まで行った。
「落ち着いてくれて良かった……」
「いつもああなのか」
「そう、私のことになると抑えが効かない」
「溺愛だな」
再びグラスを持ったジョルジュはエステルに向かってグラスを差し出した。
「退院祝いだ。乾杯しよう」
「嬉し、ありがとうね」
チン、とグラスの高い音が鳴る。
二人の夜は語らいとともに、のんびりと更けていった。
「そんなこともあったねえ」
「あの時の傷が残らなくてよかった」
入浴後、ジョルジュはエステルが作った料理に舌鼓を打ちながら、出会いを思い返した。今日の夕食はビーフストロガノフだ。エステルは人の食事は食べられないが、レシピ通り作るので味に問題はない。むしろ美味で、ジョルジュは胃袋をしっかり掴まれていた。
「炎が消えてたからね。耐火コートに感謝しないと」
自身の腹あたりをさすり、エステルは笑った。エステルの傷は適切な応急処置と治療を受け、綺麗さっぱり治っている。
「もう二度とあんなことはしない」
「ハンターとしては正しい対応だったよ」
いつまでも気にするジョルジュにエステルは苦笑する。彼は責任感が強く、真面目すぎるきらいがあった。今は愛する人を過去の自分が殺しかけた、というのがジョルジュにとってはじわじわと心を蝕むらしい。
「ね。そんなこと気にするならさ、今の私の相手してよ」
「誘い方が下手だな」
「へへ、流石に無茶かぁ」
上目遣いでジョルジュを見上げる。エステルは頬を掻いて照れた。
「でも相手して欲しいのはほんと。このあと、どう?」
「……構わない」
体も大きく年若いジョルジュは、用意されたビーフストロガノフをぺろっと完食した。それを片付け、エステルを横抱きにして寝室へ向かう。
「ふふ、美味しく食べてね」
砂の月に愛を浮かべて 推しと愛馬が @F_hanezu
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