第2話 Why didn't she write?

 妻戸の隙間からこぼれ落ちる月の影。几帳の帳をかすかに揺らす夜風。薄物をかずいたように来訪者の身体に惜しげもなく纏わり付いた高価な合わせ薫物の香。散楽のすり鉦のように鼓動の早まる心の臓。それが歓びなのか恐れなのか、知っているのは視聴者テイカーそれぞれによって違う。

 訪れを待ち望んで恋い焦がれた視聴者テイカーもいれば、二度と逢いたくなかった視聴者テイカーもいるだろう。どちらでもいい。些末なことだ。あるいはどちらでもあるのだから。

 ことりと扇を置く音。かがみ込んで身を抱き寄せる衣擦れの音。抱きすくめられても男の躰にだけは触れないように細心の注意を払う。女の躰は「あなたはきさいの宮です」「あなたは上達部かんだちめの北の方です」「あなたは中のしなの女房です」と、己の立場を言われれば容易くそれを信じてしまう。おのが身の在り所を外から与えられて、それをしかりと思って生きるしかない。己の躰がどう在るか、己の心がどこに在るのか、それを他人の言葉をもって我が事として生きるしかないのが女という生きものだ。

 己の肌に触れる汗衫かざみあわせひとえ、それが麻だろうと素絹だろうと上絹だろうと確かな己の一部として知覚できる。男君の装束も香も、触れたことのない布や、嗅いだことのない匂いでも、己が背の君と信じることができる。けれども、素肌だけはだめだ。他人の持つ温もりはいとも簡単に視聴者テイカーに貼り付けられた「女君」を引き剥がしてしまう。だから、身を寄せても、抱き上げられても決して肌だけは触れない。上のきぬをはだけるその手の温度を感覚エレメントに入れない。触れられるその直前で時間を飛ばす。触れられる手の熱さ、抱きすくめる腕にこもる力、骨格や肉付きは「女君」の仮面ペルソナを剥ぎ取って、素のままの女に戻してしまう。だから、「男君」は身なりや姿形、焚きしめた香や楽器の腕前をどれだけ感覚エレメントに載せても、肉体だけは生成ゲネレートしない。素肌に触れることがないよう、細心の注意を払いながら逢瀬を演出する。

「男性の作る仮想現実VRを経験するべきだよ。それで君の書く至高の男君は完成する。君の男君には確かな肉体が必要だよ。女性だって男性として『女』を抱けるんだ」

 いつかどこかでそんなふうに言われたことを思い出す。「女」を抱いた実在的リアルな「男」の肉体があれば完全無欠の世界だと信じている。「男」の脳からしか現実リアルに限りなく近い仮想現実VRが生み出せないと思っている。そんなことを言ったのは誰だったかとっくに忘れてしまった。どうせもう半分の世界を永遠に見ることがない人だ。ないことになっている半分の世界を書くことに私が心血を注いでいると思いも寄らない人だ。

「お前が男に生まれなかったことが私の一番の不運だよ」

 私の胸を剣のように突き刺す言葉はたった一つだけ。私が仮想現実で「男」の人生を生きることは一生ない。だから私は今日も仮想現実配信者VRノベルライターとして、世の中の、男女の仲の仮想現実リアル配信ギブする。

 3Dホログラムのコンソールをフリックしながら、課金コースのランクの数だけ「女君」の感覚のデータを割り振る。七段階に分けられたコースに「視覚ビジユアル」「聴覚サウンド」「嗅覚パフューム」「触覚テクスチヤ」「味覚テイスト」「感情フィーリング」「情動エモーション」のそれぞれの感覚エレメントをどこまで配分すれば物語が破綻なく繋がるか、課金額に応じた満足度を与えられるか。低価格の課金コースで体感できない感覚エレメント文章テキストで補完して情報の取りこぼしのないように気をつける。商業配信である以上、課金ユーザーは大事だ。もちろん支援者パトロンも。五感全てに加えて「感情フィーリング」「情動エモーション」を体験できる仮想現実は、膨大なデータを送り出す配信者ギバーにも、そのデータを受け取る端末を用意する視聴者テイカーにも多大な出費を強いる。資金力の豊かな支援者が配信設備の投資をしてくれなければ到底七感覚を揃えた配信などできるものではない。同時にまた、感覚の種類が多い高課金コースに入れる視聴者だけでも配信を維持することはできない。裾野は広ければ広い方がいいのだ。

 感覚エレメント代用文章オルタナティブテキストを追加している時が、実は仮想現実を構築する作業の中で一番好きかもしれない。自分の嗅いだことのない高価な香も、珍しい楽器の音も、目を見張るようなきらびやかな装束の行列も、文章テキストで「ある」といってしまえば「在る」のだ。これほど痛快なことがこの世にあるだろうか。通信技術ネットワーク端末モバイルも瞬く間に移り変わって、一昔前の仮想現実VRノベルは失われていくものも多い。きっと千年先まで残る作品は全ての感覚に文字情報テキストが付いているのだろう。事が終わって装束を整える「男君」と襖にくるまって身じろぎもしない「女君」の場面を生成ジェネレートしながら、そう思った。

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