琥珀の記憶

侘山 寂(Wabiyama Sabi)

琥珀の記憶

 引っ越しをして、ようやく段ボールが減った。

 ベランダに出て、コンビニで買った缶コーヒーを飲む。

 コンクリートの匂いと、新しい壁紙の匂いが混ざって、少しだけ眩暈がする。

 夕方の光が、向かいのマンションの窓に反射していた。


 彼女が出て行ってから、この街に来るまでずいぶん時間がかかった。

 荷物をまとめたとき、これだけはどうしても捨てられなかった。

 琥珀色の香水瓶。

 彼女が最後につけていた香りだ。


 世界のどこかでは、線香を使って“偉人の記憶”を追体験する企業があるという。

 歴史に残る人物の人生を香りで再現し、 吸い込んだ者は一時的にその思考や感覚をなぞるらしい。

 そうして、優秀な人材を人工的に育てようという試み。

 今では一部の研究者や経営者が、その“記憶香”を普通に使っているそうだ。


 僕も、一時期はそんなものに惹かれていた。

 自分には何もないと思っていたから。

 でも、本当は、すぐ隣にそれを持っている人がいた。


 彼女はいつも、自分の意見をはっきり言う人だった。

 やりたいことを迷わず口にし、間違えても笑っていた。

 僕にはできないことだった。

 その強さが好きだったし、どこかで「彼女の真似をすれば、少しは自分も変われるかもしれない」と思っていた。


 けれど、彼女が去ってからも、僕は何も変われなかった。

 弱さはそのままで、彼女の香りだけが残った。

 まるで時間の底に沈んだ琥珀のように、淡く固まったままで。


 蓋を開けると、空気がわずかに揺れた。


 初めての雨の日、傘を差し出したときの柔軟剤の匂い。

 休日の朝、コーヒーを淹れてくれた手の香り。

 夏の夜、汗と香水が混ざった首筋。

 匂いはどれも短い映像よりも正確で、僕を過去へ戻す。


 けれど、そのどれもが、僕には持てなかった強さの匂いでもあった。

 嗅ぐたびに、彼女になれなかった自分だけが浮かび上がる。


 僕は瓶を見つめたまま、しばらく動けなかった。

 そして、ゆっくりと蓋を閉じ、袋に入れた。

 夜になって、ゴミ捨て場に向かう。

 ビニールの中で、瓶が小さく鳴った。


 「ありがとう」

 誰にともなく呟いた。


 それで、全部終わったはずだった。


 翌日の午後、外に出た。

 この暗い部屋でうじうじしていても仕方がない。

 駅前まで歩き、見慣れない洒落た店に入る。


 ガラス越しの照明、ワインの匂い、低い音楽。

 席に着き、メニューを手に取ったその瞬間——


 空気の中に、ふとあの香りがした。


 思わず息を止める。

 客の誰かが通り過ぎたのか、あるいは店員の袖からか。

 けれど、その一瞬で時間が止まった。


 それは確かに、あの香水の匂いだった。

 捨てたはずの、あの瓶の。


 鼻の奥が熱くなった。

 そして、なぜか笑いそうになった。


 きっと、強くなるって、こういうことなのかもしれない。

 失くしたものを完全に忘れるんじゃなく、それでも前を向けるようになること。


 風が揺れて、香りが消えた。

 そして、ようやく僕は息を吸い込んだ。

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琥珀の記憶 侘山 寂(Wabiyama Sabi) @wabiisabii

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