第6話
馬の蹄が石畳を打つ音が、夜明け前の静寂を破っていく。
第三中隊は二列縦隊で街道を疾走していた。松明の明かりが闇を切り裂くように進む中、俺はミリアと同じ補給馬車の荷台に揺られていた。医療品や包帯、薬草の束が所狭しと積み込まれ、その隙間にかろうじて人が座れる程度の空間があるだけだった。
馬車の揺れで肩がぶつかる度に、ミリアが小さく謝ってくる。普段なら気まずい雰囲気になりそうなものだが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
前方の空が、不自然に赤く染まっている。
太陽はまだ地平線の下にあるはずなのに、その方向だけが血のような色に染まっていた。時折、光が明滅し昼間のように明るくなることもあった。焦げ臭い匂いを馬車の中にいても感じた。
「止まれ!」
先頭を走っていたレオンの号令で、部隊が急停止した。
街道の先に人影が見えた。いや、人影どころではない。数十、いや百を超える人々が、こちらに向かって歩いてきていた。
避難民だった。
最初に目に入ったのは、裸足で歩く子供たちだった。足の裏は血で赤く染まり、顔には煤がこびりついている。母親らしき女性に手を引かれているが、その女性もまた、片腕を血に染めた布で吊っていた。
「水を……」
老人が兵士の一人にすがりついた。その頬は火傷で爛れ、皮膚がめくれ上がっていた。
「お願いです、子供にだけでも」
赤ん坊を抱きかかえた女性がその横で膝をついた。身を挺して庇ったのか、所々焦げ付いている女性の服とは対照的に、赤子を包んでいる毛布は綺麗だった。大きな泣き声が馬車の中まで響いてくる。
「大きな器はあるか? ハルト! 水を出してやれ」
エドワードが馬から降りてこちらに手を振っている。馬車から飛び降りて、避難民たちが次々と差し出してくる器に魔術で水を注いでいく。後方ではレオンやエリナが、まとめ役らしき男と話していた。
「魔獣に襲われたのか」
「いいえ、次々と家や田畑が燃え始めたのです。半数近くはそれで……」
男の歯ぎしりの音が聞こえてくる。鼓膜だけでなく、脳まで揺さぶられるような音だった。
「そうか、原因はわかったか」
「火の粉です、私たちの火傷は全てそれによるものです」
「?」
「……最初は、それはそれは幻想的な光景でした、無数の光が瞬き、まるで星空の中にいるようでした。でも」
男は奥歯を鳴らしながら泣きそうな声で続けた。「違った。あれは地獄です。蛍よりも小さな光の粒一つ一つに、人を焼くほどの力がある! あれには近づくことすらできません! 倒そうだなんてバカなことは考えない方がいい! 騎士様も一緒に逃げましょう!」
縋りつく男の指を優しく剥がし、レオンは首を振った。
「脅威はそれだけじゃない。逃げるわけにはいかないんだ」
レオンが馬上から周囲を見渡した。その表情は、今まで見たことがないほど厳しかった。
「エド、ハルト、もうやめろ。後続部隊に任せて我々は先へと進む」
「「「はっ!」」」
「お願いです、私たちと一緒に来て下さい!」
「……申し訳ない。我々の任務は前線での魔獣討伐だ」
「そんな! 見殺しにするんですか!」
男が絶叫する。レオンは目を伏せたが、すぐに顔を上げた。
「そうだ、君たちを護衛している余裕はない」
冷たい声だった。だが、手綱を握る拳は震えていた。
「出発する!」
号令と共に、部隊は再び前進を始めた。避難民たちの嗚咽と、子供の泣き声を背に受けながら。
しばらく進んでいると、周囲が明るくなり始めた。ようやく日の出かと、兵士たちの気がゆるみかけたその時、木々の隙間に赤い光が垣間見えた。街道の両側にある森の奥から、微かな唸り声が聞こえる。
「警戒しろ!」
ガルドや兵士たちが武器を構えた。
その瞬間だった。
横の茂みから、鈍い光を放つ何かが飛び出してきた。
「魔獣だ!」
それは以前遭遇した狼型の魔獣に似ていたが、全くの別物だった。全身の毛が炎のように逆立ち、その先端から火の粉が舞っている。目は真っ赤に燃え上がり、口からは蒸気が立ちのぼっていた。見ているだけでもその熱気が伝わってくる。
「馬車を中心に円陣を組め! 救護班は何が起ころうと馬車で待機!」
レオンが声を張り上げ、剣の柄に手をかけた。
ガルルルルッ!
跳躍した魔獣が軽々と兵士たちを飛び越え、馬車へと迫ってくる。速い。その動きは、以前とは比較にならないほど速かった。だがその牙が届く前に、レオンによって頭と胴体が分断され地面へとそのまま落下した。
獣の死骸から火の粉と蒸気が舞い上がり、近くにいた兵士は口を押さえて後ずさった。
「来るぞ!」
エドワードが大槌を構えた。
次の瞬間、森の奥から魔獣たちが飛び出した。十、二十、いや三十を超える炎狼が部隊を取り囲む。最前列で盾を構える兵士たちの震えが、こちらにも伝わってくる。
「うおおおお!」
カイルとガルドが雄叫びを上げながら、一番近くにいた魔獣に切りかかった。二人掛かりで魔獣を仕留めたが、すぐに別の魔獣がその隙を突いて飛びかかってくる。後方にいた兵士が槍で首を突き刺したが、魔獣はなお噛みつこうとしていた。
「くそっ!」「しぶとい奴らだ!」
陣形の一角が崩れ始める。若い兵士が魔獣に組み伏せられ、悲鳴を上げた。
「た、助けて!」
エドワードの投げた槍が魔獣を貫き、若い兵士を救った。だが、その隙をついて二体の魔獣が円陣を突破した。
火を纏った巨体が、真っ直ぐミリアと俺のいる馬車に向かってくる。
「まずい!」
俺は咄嗟に立ち上がり、武器も何も持っていないことも忘れて、ミリアの前に飛び出した。
魔獣が跳躍した。真っ赤に燃えさかる牙と爪が、目前に迫る。
——死ぬ。
その瞬間、横から銀色の閃光が走った。二体の魔獣が真横に吹き飛び、地面に転がった。レオンが、片手で大剣を振り抜いた姿勢のまま立っていた。
「無事か?」
「は、はい!」
だが、安堵したのも束の間だった。さらに多くの魔獣が陣形を突破していた。
「散開するな! 陣形を保て!」
レオンが叫ぶが、混戦状態で指示を聞く余裕のある者はわずかだった。レオンは舌打ちして、魔獣が密集している場所へと駆け出した。
その時、俺の目に一匹の魔獣が映った。他の個体より一回り小さいが、その分素早い。兵士たちの間を縫うように走り、真っ直ぐこちらへ向かってきている。
今度は、レオンも他の兵士も手が離せない。俺がやるしかない。
その魔獣の唸り声だけがはっきりと聞こえた。じぐざぐと走りながら、その目だけはこちらを向いているのがはっきりと分かった。舞い上がった火の粉が風に乗って、馬車へと届く。
「ハルト、下がって!」
ミリアが叫ぶ。だが、下がる場所などどこにもない。後ろにはミリアがいるのだ。
「くそっ」
叫びながら馬車を飛び降り、落ちていた短剣を拾いあげた。
炎。反射的に短剣を突き出した。
ガキン!
牙と刃がぶつかり合う。短剣が手から弾かれ、地面に転がる。
「しまった!」
魔獣が再び跳躍する。今度こそ終わりだった。
だが、その時。
体が、勝手に動いた。
山で培った経験か、それとも奪取したスキルの影響か。体が自然に横へ転がり、魔獣の爪をかわしていた。同時に、地面に落ちていた兵士の剣を拾い上げていた。
魔獣が振り向く。その一瞬の隙に、剣を振り下ろす。
「はあああ!」
渾身の一撃が、魔獣の首筋に食い込む。
だが、浅い。
魔獣が怒りの咆哮を上げる。傷口から炎が噴き出し、俺の頬を焼いた。
「っ!」
思わず後退る。魔獣がその隙を見逃すはずがなかった。低い姿勢から、一気に飛びかかってくる。もう、避けられない——
ドスッ!
鈍い音と共に、魔獣の動きが止まった。その脇腹から、槍が突き出ている。
「大丈夫か!」
槍を握っていたのは、近くで戦っていた兵士だった。おそらくカイルの部下の一人だ。
「あ、ありがとう……」
「礼はいい! くそっ、はやく馬車に戻れ!」
兵士の視線の先を見ると、さらなる魔獣の群れが現れていた。それに気づいた兵士たちが、動きを止めた。唸り声でも足音でもなく、静寂が兵士たちの恐怖心を駆り立てていく。
だがその時、戦場にてただ一人、黒い鎧を纏う男が動いた。
青白い光を纏った大剣が、新たな群れへと振り抜かれる。眩い光が扇状に広がり、その軌道上にいた魔獣たちは一瞬にして両断され地に伏した。
残った魔獣たちが、怯んだように後退る。そして、森の奥へと逃げていった。兵士たちがその後を追おうとしたが、
「追うな! 深追いは禁物だ」
レオンがかすれた声で制止した。
魔獣の死骸から立ち上る火の粉が、夜明け前の薄暗い空に舞い上がっている。
「負傷者は?」
「軽傷が十三名! 重傷者はいません!」
副隊長の報告に、全員が安堵の息をついた。
「ミリア、治療を頼む」
「はい!」
ミリアが負傷した兵士たちの元へ駆けていく。俺も慌てて後を追った。彼女の背中を見ながら、ふと思った。
これは、前哨戦ですらないのだと。本体はまだ遥か先にいる。
東の空がわずかに白み始めていた。だが、西の空は相変わらず不気味な赤色に染まっていた。焦げ臭い風が吹き、頬を撫でていく。その風は、まるで地獄から吹いてくるかのように熱かった。
「出発するぞ」
何時になく小さなレオンの号令で、部隊は再び前進を始めた。赤く染まった空に向かって、俺たちは進んでいく。
零れ落ちる汗を拭うこともできず、熱に浮かされたように足だけを動かして。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます