第5話
深夜の静寂を破る鐘の音が、駐屯地全体に響き渡った。
夢うつつの中で聞こえてきたその音は、最初は遠い記憶の中の学校のチャイムのようにも思えた。だが次第に大きくなり、緊迫感を帯びたその響きが現実のものだと理解した瞬間、シーツを蹴飛ばして跳ね起きた。
階下から大勢が走り回っているような振動が伝わってくる。普段なら静寂に包まれているはずのこの時間に、一体何が起こっているのだろうか。耳を澄ますと兵士たちの叫び声のようなものも聞こえるような気がした。
「なんなんだ」
呟きながら鉄格子に手をかけて外を見つめる。松明らしき明かりが時折、中庭に面した窓に映り込んでいる。光と闇が目まぐるしく入れ替わり、いつもの穏やかな駐屯地とはまるで別の場所のようだった。心臓の鼓動が鼓膜を激しく揺らしている。
その時、監禁部屋の扉が勢いよく開いた。
「緊急事態だ、来い!」
険しい顔のレオンが立っていた。いつもの鎧姿ではなく、急いで身につけたのだろう、胸当てと篭手だけの簡易装備だった。その表情は今まで見たことがないほど切迫していた。
「えっ?」
「説明は後だ。今すぐ来い」
レオンに急かされるまま部屋を出る。部屋の外は、蟻の巣をつついたような騒ぎになっていた。無数の兵士たちが、廊下を慌しく走り回っている。誰もがただならぬ空気を纏っており、レオンやハルトの存在など気にも留めずに横を通り過ぎていく。
何が起こったのだろう。
駐屯地全体が動員されるような事態とはいったい何なのだろう。うちの部隊は、辺境伯からの依頼で外縁部の哨戒任務をするのではなかったのか。それとも、それすら後回しにせざるを得ないほどの緊急事態ということだろうか。
レオンの背中を必死で追いかけていると、途中でエリナが合流した。普段の落ち着いた様子とは打って変わって、乱れた髪もそのままに大量の書類を抱えていた。眼鏡の奥の瞳が、いつになく鋭く光っている。
「隊長、準備できました」
「ご苦労。すぐに始める」
他よりも一回り大きな扉を開けて中に入ると、レオンが普段使用している黒い鎧や大剣が目に入った。レオンの私室だろうか。机の上には何に使われるかもわからない道具が青白い光を放っていた。
壁には大きな地図が貼られ、その上に赤い印がいくつも付けられていた。それを指差しながら話していた副隊長が、部屋に入ったレオンに気づいて背筋を正した。中央に置かれた長いテーブルの周囲に集まっていたメンバーも、すぐさま振り向いて頭を下げた。エドワードやガルド、カイル、ミリアなど第三中隊の主要メンバーだった。
「エリナ、状況説明を」
レオンの声が部屋に響く。
「はい」エリナが地図の前に立った。「四時間前、フェルミナ領の外縁部にて大規模な魔力反応が観測されました」
彼女の指先が、地図上に刺された真っ赤な旗を指した。
「現地からの報告によると、火炎系統の魔王種が顕現した模様です。空気中に舞う火の粉には、魔獣に火属性を付与し活性化させる効果があると見られ、強化された魔獣により被害が拡大中です」
魔王種。
その言葉を聞いた瞬間、ハルトの背筋に冷たいものが走った。山で様々なモンスターと戦ってきたが、レオンの戦っていた魔獣ですら全く別次元の存在だった。それすら超えるという災害級の脅威とはいったいどれほど強いのだろうか。
「被害状況は?」
「すでに近隣の村々は全て燃え尽き、住民約八百の安否は不明ですが、逃げ延びた住民は今のところ確認されていません」
エリナの声は冷静だったが、その手はわずかに震えていた。八百名。そんな大勢の命がこのわずかな間に、まるごと消え去ったのか。
「さらに問題なのは、魔王種の進行方向です」
エリナの指が地図上を移動する。
「現在の軌道を維持した場合、最終的にフェルミナの城下町に向かう可能性が高いと思われます。住民約一万が危険にさらされることになります」
部屋が静寂に包まれた。一万人。想像もつかない数字だった。
「それだけではありません」別の兵士が口を開いた。「アルバリテとの国境付近でこのような事態が発生したのは、偶然ではないと思われます」
「どういうことだ?」レオンが眉をひそめる。
「隊長もお聞きになったはずでは。アルバリテ側からの侵入者の話を」
「そうだ。奴らの仕業だ」
カイルが机を叩いて副隊長を睨みつけた。「あなたがあの時、伝令の話をまともに聞いて、すぐに対処していれば、こんなことにはならなかったのでは!」
アルバリテ王国。隣国でありながら、常にここエルステリア帝国と緊張関係にある国らしい。ハルトですら最近その名前をよく耳にしていた。
「いや、あの時はまさかこんな事態になるとは」
顔を顰めた副隊長になおも言い募ろうとしたカイルの肩を、レオンが押さえつけた。
「規則を遵守しただけの副隊長には何の落ち度もない。それに魔王種の発生は自然現象だ」
「いや、でも」
「不可能ではないと思われます」エリナが平坦な声で話し始めた。
「魔王種は、負の感情と魔力の集積。人為的に恐怖や憎悪を煽り、特定の場所に核となる魔力を集中させられれば」
「まさか、意図的に魔王種を発生させたというのか?」
ガルドが信じられないといった様子で呟く。
「理論的には可能なはずです」エリナが地図から振り返る。「ただし、入念な準備と多くの犠牲が必要です。数百人、場合によっては数千人の人々を恐怖に陥れなければなりませんから。そして……この技術を確立させるために犠牲となった人々はその数十倍はいるでしょうね」
「そんな、まさか」
ミリアが青ざめた顔で呟く。
「アルバリテならやりかねん」カイルが吐き捨てるように言った。「奴らは以前から汚い手ばかり使ってきた。民間人の体内に爆弾を仕込んだりな。それくらい平気でやる連中だ」
部屋の空気がさらに重くなった。政治的な対立が、ついに災害を生み出すまでに至ったということなのか。陽翔には難しい事情は分からなかったが、それでも事態の深刻さは理解できた。
「まあ、もし彼らの仕業であればの話です。自然発生の方が可能性としては高い。それ以外の事件も起こりうると思っていた方がいいでしょう」
「我々はどうするんだ?」
これまで静かに聞いていたエドワードが口を開いた。
「駐屯地指令からの指示で、基本方針は決まっている」レオンが地図を見つめながら答えた。「我々第三は、魔王種の軌道上にて強化魔獣の討伐を行う。後方で避難誘導を行っているフェルミナ領の兵士たちや民間人の防波堤となる重要な役目だ」
「魔獣だけですか? 魔王種の討伐は?」
思わず尋ねたハルトに全員から視線が向けられた。レオンは目を瞑った後、口を開いた。
「魔王種を相手に正面から戦えるのは、帝都の精鋭部隊だけだ。我々のような地方駐屯軍では歯が立たない」
レオンの言葉に、陽翔は意外な気持ちを覚えた。あのレオンでさえ敵わない相手がいるということか。山で出会った時、圧倒的な力の差を見せつけられたが、その彼ですら太刀打ちができないと諦めるほどの存在なのか。
「おいハルト、なめんじゃねえぞ。隊長が力不足なわけじゃない。俺たちが弱いせいで太刀打ちできねえってだけだ。魔王種ってのは一人でやり合う相手じゃねえからな。一人だけ強くても意味ないんだよ」
ガルドは悔しそうに頭を掻きながらそう言った。
「いや、私も力不足だよ」
レオンの視線がミリアに向けられた。「危険な場所になるが、ミリア、お前の治療スキルを欠くことはできない。前線に来てもらうぞ」
「はい」ミリアがしっかりと頷く。
その後、レオンの視線がこちらにも向けられた。
「ハルト、お前もだ」
「えっ?」
「エリナから魔力量が多いと聞いている。ミリアの補助を頼む」
思いがけない言葉だった。目を見開いて、勢いよく何度も頷いた。
「分かりました」
声が上ずってしまったが、そんなことは気にならなかった。
「では、出発準備にかかれ。一時間後に出発する」
レオンの号令で、部屋の全員が一斉に動き出した。陽翔も立ち上がろうとした時、ミリアが近づいてきた。
「よろしくお願いします、ハルト」
彼女の表情は緊張していたが、同時に決意に満ちていた。初めて対等な仲間として扱われている実感があった。
「こちらこそ」
ミリアが小さく微笑む。だが、その笑顔の奥に、わずかな不安の影が見えた気がした。
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