第3話
前日と同じように大樹の洞で寝ていた俺は、全身に焼けるような疼きを感じて目を覚ました。外はすでに明るく、穴から差し込む光が眩しかった。
「はら、へった……。のど、かわいた……」
体は運動直後のように熱っぽいが、全く力が入らない。昨日のゴブリンとの初戦闘から這う這うの体でここまで戻ってきたが、手持ちの食料も水もないためそのまま寝るしかなかったのだ。そのせいで軽い脱水か低血糖、もしくはその両方になってしまったらしい。
上半身を起こすことすら難しく、仰向けの状態のまま時間だけが過ぎていく。今日がいっそ雨だったらここで寝たまま雨水を飲むのに、などというどうでもいいことを考えながら何もない空間をぼんやり見つめていると、昨日ゴブリンに捕まれた右腕がズキッと痛んだ。
昨日はたかがゴブリン一体相手に死ぬか生きるかの大激闘だった。木にぶつかるというラッキーがなければ地に伏せることになったのは俺の方だっただろう。強いスキルが手に入って浮かれていたが、今まで何の武道も経験してこなかった人間ではそれを活かせるはずもない。俺は、ここで生き残っていけるのだろうか。俺はいったいどうすれば。
右腕のあざを無意識にがりがりと掻きむしり、その痛みで昨日やり残したことがあったことを思い出した。
「そうだ、昨日ゴブリンからスキルを取ったんだった」
血の匂いで他のモンスターが集まってきてはたまらないとろくに確認もせずにここまで戻ってきたので、まだステータスを確認していなかった。もしかしたら昨日の戦いを経てかなり強くなっているかもしれない。そうだったらいいなという願望を込めながらステータスと呟いた。
【名前】ハルト
【種族】ヒューマン
【種族レベル】2
【生命力】23/34
【魔力】18/18
【スキル】奪取、脚力強化Lv.2
「脚力強化か……、確かに足速かったからな」
脳裏に生死をかけた鬼ごっこの記憶が鮮やかに蘇ってきた。
どんなに必死に逃げても付かず離れず一定の距離で聞こえ続ける足音。追いかけられている間のわき腹の痛み、どんなに息を吸い込んでも治まらない息苦しさ。そして、最後に感じた地獄のような口臭と背中にしたたる涎のおぞましい感触。
思い出すたびに動悸が激しくなり、胸に手を当てながらぎゅっと目をつむった。
大丈夫、俺は勝ったんだ、もう終わってる、大丈夫だ、大体昨日は涎なんか付かなかった。一晩たってより悪い風に記憶が変化しちゃってるだけだ。こういう時は落ち着くまで呼吸に集中。大丈夫、大丈夫だ。
自分で自分の胸を叩きながら、深く息を吸い込んでゆっくりと吐いていく。元々嫌なことをずっと考えてしまう人間で、不眠症にまでなっていたのでこういう対応は慣れたものだった。
数分間そうしていると落ち着いてきたので、またステータス画面を見る。
「レベルが二になったのか。魔力がすごい上がってるな。魔法使いタイプなのかな、まあ魔法使えないんだけど。体力は前いくつだっけ? あんまり覚えてないけど大して変わってないかな。まあ、脚力強化が手に入ったんだからゴブリンに会っても逃げるくらいはできるか」
逃げられる、死ぬことはない、と自分に何度も言い聞かせる。ゴブリンが怖いからと言ってずっとここで引き籠っているわけにはいかない。水を探しに行かなければどの道ここで死んでしまうのだ。ここには死以外の可能性はないが、外に行けば生き残れる可能性がある。行くしかない。怖くてたまらないが、それ以上に水が飲みたくてたまらなかった。
震える足を何度も叩き、壁に寄りかかりながらゆっくりと起き上がる。一晩寝たにも関わらず、フルマラソンを走った直後のように全身がだるかった。穴の縁を掴む手は小刻みに震えていたが、無視して外へと踏み出した。
脚力強化を得たはずなのに足は重く、一歩進むごとによろめきそうになってしまう。スキルを得る前の方がまだ脚力があったな、と樹に寄りかかりながら苦笑した。
「ステータスやスキルがあっても、体の状態が優先されるんだな……。こんなとこだけ現実仕様かよ、だる」
全身の倦怠感を精神力でねじ伏せながら、森の中をゆっくり歩いていく。大樹の周囲一帯は整備された山のように木がまばらで、陽ざしが適度に入ってくるので心地良い。ただその分下草がたくさん生えていて歩きづらかった。
普通であれば木が無数に生えて鬱蒼と茂り日差しはあまり入ってこないはずだが、大樹が日差しを遮っているから周囲の樹が成長できずに枯れてしまうのだろうか。いや、その割に明るいか。
そんなどうでもいいことを考えて、喉の渇きや体の不調から目をそらす。本音を言えば今すぐにでも水を樽一杯飲んで、分厚いステーキを一キロ食べて、キングサイズのふわふわ高級ベッドでおぼれるほど寝たい。だが、ないものはないし、そんなことをずっと考えてしまうと心が簡単に折れてしまうことは想像に難くなかった。いやでも本当に喉が渇いた。
頭を振って余計な思考を振り払うと、また足を前に進めた。
まだ生えたばかりのような柔らかそうな下草を見つける度に口に運びながら歩き続ける。そして、ふと顔を上げると、日はすでに傾き葉の隙間から見える空はオレンジ色に染まり始めていた。周囲を見ると下草や低木が少なく、大樹の周りとは明らかに環境が違っていた。丸みを帯びている大き目の石も散見され、昨日探索した一帯よりかは水の可能性があるように思えた。
しかし、周りにこれだけ木があるというのに角の取れた石が地面や落ち葉に覆われず露出しているということは、定期的に水か何かで地表面が洗い流されているということだ。
それがただの集中豪雨程度であればいいのだが、異世界だから何が起こるかわからない。山から噴火のように大量に水が噴き出してくるのかもしれないし、頂上に住むドラゴンがアクアブレスを撃っているのかもしれない。
食事をした後げっぷをする感覚でアクアブレスを撃つドラゴンを想像して、ふふっと笑った。そして、その顔のまま地面に倒れこんだ。
もう限界だった。
体の下には岩がたくさんあり痛かったが、熱を帯びた体が冷やされて気持ちよかった。
「噴水でもドラゴンのげっぷでも、なんでもいいから、水、ふってこないかなー……。今なら溺死したとしても、喜べるのに……」
体に全く力が入らず指先すら動かせない。体を構成している細胞全てからエネルギーと水分がなくなってしまったと感覚で理解できた。
水が飲みたい。
死んでもいいからこの渇きだけは何とかしてほしい。この衝動を口にしようとするも喉が渇きすぎてはりついていて、言葉が出てこなかった。鯉のように口をぱくぱくとさせて、そして川底に戻る時のようにゆっくりと口を閉じた。
水を、水をくれ。
歩いている間たびたび感じていた吐き気がぶり返してくる。それに耐えられるだけの精神力が残っていなかったため思い切り体が吐こうとするが、胃には何もなくただ涙だけが一粒零れ落ちた。
そして、気を失った。
右手の甲にピリピリとした痛みを感じて目を覚ました。
辺りは暗くなっていてよくは見えなかったが、右手に半透明の何かが覆いかぶさっていることはわかった。
水だ。
いや、違う。スライムだ。ゴブリンと並んで最弱とされているモンスターがそこにいた。ゲルの中央で海ほたるのような青白い光が明滅している。きっとあれが物語でよく出てくる魔核と言われる部位なのだろう。
飲めるか?
いや、だめだ。あれはモンスターであって、水でも食料でもないのだ。どんな菌をもっているかわからないし、何よりあれが想像通りのスライムなら動植物を溶かせるだけの消化液を体内に持っているはずだ。飲み込んだとしても逆に体内から溶かされて死んでしまうだろう。
それでも。
それでも、あれを口に入れたいという欲求を抑え込むことができない。ただのスライムであるはずなのに、日本にいたら絶対に口にしないはずなのに、とんでもなく美味そうに思えてしまう。
「……ッ」
右手の痛みが先ほどよりも大きくなってきて、とっさに振り払おうとしたが思っていたよりも重く腕が上がらなかった。どうにかしてスライムを体から離せないか必死で考えるも、たった一つのばかげた方法しか思いつかない。
そうだ。これは仕方のないことなんだ。
このままでは指先から手首、肘、肩と喰われ、最終的には全身を喰いつくされてしまうだろう。だから、仕方のないことなんだ。
今の状態では振り払うことはできない。討伐する力も残ってない。だから、仕方ない。
――逆に喰うしかないんだ。
焦点の定まらない瞳を見開きながら右手まで顔を近づける。喉をごくりと鳴らす。自然と鼓動が早まるがそんなことに気づく余裕すらなかった。
そして、スライムにかぶりついた。
一口目はただの無味無臭のゼリーだった。片栗粉を水に溶かしてそのまま煮詰めたような何の味もないぶよぶよとした物体だった。口内を溶かされている感覚もなく、このままなら問題なく食えると確信した。
だが、一口かじられて自分が襲われていることに気づいたのだろう。二口目からは口がぴりぴりと痛み始め、半分食べたころには口と喉が焼けるように痛かった。
それでも口は止まらなかった。
この森に迷い込んで二日間も飲まず食わずで生き抜いたのだ。多少痛みがあろうと、食べたことで死ぬことになろうと、今この目の前にあるスライムがごちそうであることは間違いがなかった。
涙が止まらなかった。
美味しいからなのか、それとも痛いからなのか自分でもどちらかわからないが、涙がこぼれ続けるのを止められないままひたすら貪り続ける。
スライムを食べる前までは乾燥で喉がはりつきそうだったが、今度は溶かされて物理的に喉が塞がりそうだった。それでも、どれだけ口や喉、腹が痛くなってもただひたすら喰い続け、最後は薄っすら光る核ごと噛み砕いて飲み込んだ。
ただその代償は大きかった。
「……ァァァアア……!」
口も喉も腹も全てが焼けるように熱い。いやもはや焼けているのではないかと錯覚するほどとてつもない痛みが体中を絶えず駆け巡り、血を何度吐いてもその痛みが和らぐことはなかった。腹と喉を押さえながらのた打ち回り、石に何度も擦った体には無数の傷が付いていた。
……そうだ、スキルだ。スライムが持っていたスキルをくれ!
藁にもすがる思いでスライムが持っていたスキルを取得し、痛みをやり過ごすため体を赤子のように丸める。うめきながら目をぎゅっとつぶる。
薄れゆく意識の中で、どんなに傷ついても手を放そうとしなかったゴブリンの顔が見えた気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます