第3話 稲荷神社

 長い夢を見ていたような感覚がわずかに残る。


 重たい体をゆっくりと起こして、テイッシュペーパーに手を伸ばした時だった。左手に握っている桜の花びらと茶褐色の糸のようなものに気がついた。

 俺はパソコンを立ち上げた。そして、忘れたものを取りに行くようにして、家を飛び出した。

 左手に拳を作り、うっすらと残る記憶の残骸を辿りながら、稲荷と関係のある神社へ向かった。

 夢の中の女性に会いたい。その一心で温かい風を切り分けながら、夢で見た場所へと足を動かした。


 夢と同じ場所。

 樹齢百年は裕に超えている木々が石段に沿って立ち並ぶ。「ここから先は神聖な場所だ」と言わんばかりの赤い鳥居が等間隔に存在する。

 石段に生えた深緑な苔。俺はその苔を見たことがある。この鳥居もこの樹木も見たことがある。霧がかる俺の記憶は晴れ出した。一段。そして、一段と足を進めるたびに色濃い記憶が蘇ってくる。


「——社殿を取り囲む桜の姿は壮観だった。」


 石段の最上段。大鳥居を抜けた先に広がる世界は、春そのものだった。

 独特な甘い蜜の香りを漂わせ、淡い桃色の花が宙を舞う。

 満開な姿は優美であるが、散る姿は儚く尊い。

 花が咲き散るまでの工程全てが、美しい。

 春風に煽られ、ゆらりゆらりと落ちてゆく桜の花びらを両手で受け止める。

 手のひらの中には、二枚の桜の花びらと一本の茶褐色な毛。

 俺は微笑んだ。


「やっと会えたね」


 お稲荷さんの前には、彼女がいた。

 夢の中で見た狐と同じ瞳をしている。身長は僕よりも随分低い。目の下にはホクロがある。顎の下にもホクロがある。彼女の顔には可愛らしいホクロがあった。そしてそれらを繋ぐと、まるで夜空に浮かぶ星座のように見えた。二人で見上げた夜空を思い出す。


「僕はあなたにずっと会いたかった」


 頬を伝う雫は温かい。


「私もあなたをずっと待っていました」


 彼女の言葉が聞こえる。彼女の表情が見える。彼女を側で感じることができる。

 桜が満開に咲く神社の境内、僕たちは互いの目を見つめあった。

 ひらりひらりと舞う桜の花びら。その花びらが僕の髪の上で静かに身を預けると、彼女は眩しい笑顔を僕に見せてくれた。

 僕は彼女を強く、そして優しく抱きしめた。二度と離れないように。二度と忘れないように。僕は彼女を全身で感じていた。


「絶対にアマネを離さない」


 お互いの顔が崩れてしまうほど、僕たちは泣いた。でも、胸が締め付けられるような苦しさを感じない。窮屈な場所からようやく抜け出すことができたような開放感がある。

 彼女の美しい黒髪にも桜の花びらがついた。僕はそっと優しく花びらをとってあげると、彼女の瞳と合った。

 俺は彼女を見つめ、彼女の唇に触れた。

 二人の間に流れる時間を邪魔するものは誰もいない。ゆっくりと流れる時を、春の温かさと共に感じていた。

 彼女を一人にさせない。日本中を彼女と一緒に巡りたい。日本の四季を毎年彼女と味わいたい。

 微笑みの顔を浮かべる二匹のお稲荷さんが僕たち二人を見ていた。


「僕はあなたを愛しています」


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夢で見た稲荷神社の彼女は、実在した。 ~もう一度、「君と過ごす四季」を求めて~ 清光悠然 @seikou-yuzen

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