第8話 小さな抵抗
ノアは息ひとつ乱さず、手元の薄型端末を見据えた。
画面上では、ECLIPSE関連施設の複雑な構造データと、赤く光るセキュリティ網が、まるで精密に設計された迷宮のように
光の波紋が端末の薄いフレームを淡く染め、冷たくも美しい情報の海が、彼の掌で静かに揺れている。
彼の指先は、無音のピアノを弾くかのように素早く、正確に動き、複数のセキュリティ回線の脆弱な部分を同時に解析していく。
「制御棟の監視は二十秒間の間隔……その隙に進入。警備ルート、変更なし」
淡々と、しかし確信を持って呟きながら、端末を閉じた。理論と感情の境界線を、自らの意思で切り離していく。
頭の中では、任務を完遂するためのシミュレーションが何度も再生され、そのたびに微細な危険性や余計な思考が削ぎ落とされていった。
手首の通信デバイスに指を触れ、微かに圧をかけると、低く鋭い電子音が冷えた空気をわずかに震わせた。起動確認。通信遮断テスト。暗号コード送信――すべて異常なし。
完璧に整った準備。それはノアにとって、乱れた世界の中で唯一、確かな秩序と安心を与える儀式のようなものだった。
窓の外では、街が灰色の膜に包まれ、遠くの高層ビルの輪郭がぼんやりと滲んでいる。
その不気味な静けさが、これからノアが引き起こす嵐を予感させるようだった。
腰のホルスターに小型の銃をカチリと収め、靴紐をきつく、二重に結び直す。
ノアの心拍は、戦闘に適した一定のリズムを刻んでいた。この張り詰めた静寂の先に、命令と危険と、そして彼自身の答えがある。
通信端末の通知ランプが、一瞬だけ儚く光った。差出人は表示されない。
しかし、ノアの瞳はその波長を即座に見抜く――あの男からだ。
イザナ。
ノアは小さく鼻を鳴らし、端末をゆっくりと伏せる。画面に映る文字も、あえて目に入れずに。返事をしないという、些細な抵抗。
それは無垢な拒絶ではなく、あえて挑発する遊び心だった。
(あんまり焦らすなよ、退屈するだろ)
心の中でそう呟きながら、ノアは背筋をぴんと伸ばす。冷たい空気の中で、彼は支配者の監視をくすぐるかのように軽く、しかし確実に反抗していた。
けれど、遠く離れた拠点の奥、誰も立ち入れぬ監視室で、イザナはすでにすべてを見通していた。
巨大なモニターに映る、夜の冷気に染まったノアの凛とした後ろ姿。
肩の微かな張り、指先の緊張、息づかいの揺らぎまで――すべてが鮮明に映し出されている。
イザナの唇に、淡く、しかし意味深な笑みが浮かぶ。それは満足と執着、哀愁と独占欲が交錯した表情であり、同時に危険な光を放つ。
まるで闇の中で一つの宝石を手中に収めたかのように、彼の全身からは、触れられぬものへの渇望と、絶対に逃がさぬ覚悟が滲み出ていた。
――遠くで遊ぶ仔猫を、虎が静かに見守るように。
それは甘く、冷たく、しかし決して揺るがない二人だけの世界の縮図だった。
「期待してるぞ、ノア。……お前が、ちゃんと俺の元へ戻ってくることを」
その声音には、失われた過去への哀しみと、現在における絶対的な執着が混ざっている。
イザナは指先で、コンソールを数回操作した。その動作は、ノアの通信網に見えない周波数の干渉を仕掛け、わずかな「監視の糸」を、彼の意識の全く及ばない場所で繋いでいった。
イザナにとって、この任務は単なる試練ではない。これはノアを自身の運命に組み込むための確信の儀式だ。
ノアが世界のどこへ逃げようと、その足跡の上には、必ずイザナという影が落ちる。
そして、ノアはまだ知らない。
今、自由な意思で選んだと思っているこの道の先にあるのは、国家の真実ではなく、イザナが極めて巧妙に編み上げた運命の檻であることを。
夜は完全に沈み込んでいた。街は、自然の光を全て奪われ、人工の光だけが冷たい命を持つ世界へと変貌している。
ノアは、裏通りの人影のない歩道を、水面に漂う木の葉のように静かに進む。
足音ひとつ、呼吸ひとつ。
彼の全身の筋肉は、全ての動作を、音として世界に残さないように厳しく制御されていた。耳には、任務前の沈黙が張りついている。
それは自身の鼓動すら遠ざける、研ぎ澄まされた集中の証。世界の雑音が砕けて遠のいていく。この瞬間、ノアの存在は「個」ではなく、命令を実行するための「機能」に完璧に切り替わっていた。
標的の施設は、街の南端にひっそりと佇む輸送会社の倉庫。
外からはただの古びたレンガ造りに見えるが、その表面の静けさは
壁の奥に張り巡らされた監視センサーは、夜の闇に隠れる目のように輝き、まるで倉庫自体が生きているかのような圧迫感を放つ。
ノアは路地の角で足を止め、静かに息を整えた。腕の小型端末に触れる指先は、無駄のない動きでタップを打つ。
スクリーンに走る青白い光の線が、周囲の微細な電磁波を浮かび上がらせ、建物の中のすべての監視網が、彼の視界に幾何学的な模様として重なった。
一瞬の沈黙。
夜風に混じる古い鉄の匂い、遠くで鳥の鳴く声、道路を転がる空き缶の小さな音――すべてがノアの感覚に収束し、彼の頭脳のプログラムが瞬時に反応する。
そして、彼の指先が微かに震え、電源が落ちる。倉庫中の赤く光る監視カメラの点が、まるで息を止めたかのように沈黙した。
路地の闇が、再び冷たく、しかし確かな安全を纏ってノアを包み込む。
「二十秒」
唇を動かさずに呟く。
足元の影が、地を滑るように長く伸び、彼の身体を完全な闇へと溶かした。
裏手の非常階段を上り、錆びた金属の扉の鍵穴に小型の解錠装置を差し込む。電子的な機械音も立てず、錠がフッと外れた瞬間、ノアは隙間から細身の体を滑り込ませた。
内部は無人のはずなのに、空気が「見られている」と皮膚の表面で告げていた。
機械油と焦げた回路の匂いが漂い、壁の古いLEDライトが不規則に明滅している。その断続的な光が、ノアの冷えた横顔を照らした。
彼の瞳は冷えた鋼のようで、恐怖の色は一片もない。だが、微かな違和感が、彼の皮膚の下で脈を打っていた。
(誰か、いる……?)
ノアの指が、無意識に腰のホルスターへ滑る。小型の銃の銃口がわずかに持ち上がり、闇の中を射抜くように固定される。
しかし、その視線の先には何もなかった。ただ、奥のデータモニターの反射に、一瞬だけ「誰か」の輪郭が映り込んだ気がした。
それは錯覚のはずだ。彼はそう理性で判断し、一度深く呼吸を整えた。
ノアは知らない。
自分が今、命がけで踏み込んだのは、敵の拠点ではない。
それは、イザナが自らの執着を試すために張り巡らせた「試験場」の中心だった。
次の瞬間、非常灯の光がノアの頭上で全て消え去り、絶対的な暗闇が音を吸い込む。
その静寂の中で、ノアは息を止めた。
世界が凍りついたように感じたのは、錯覚ではなかった。
その闇の中には、ノアの存在を焼き付ける、ひとりの男の「視線」が確かに存在していた。
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