第2章 交差する刃
第7話 感情の引き剥がし
外界のざらついた風や遠くの街の喧騒さえ遮断された、完全に密閉されたヴェルモアの空間。
壁や天井に反射する蛍光の冷たい光が、金属と電子機器の匂いをさらに際立たせる。
ノアは椅子に腰を下ろし、薄暗いスクリーンに浮かぶ無数の文字列を目で追う。指先は淡々と動くが、その動きのひとつひとつには、研ぎ澄まされた集中力と計算された精密さが宿っていた。
端末の画面には、昨夜イザナから甘い毒として渡された座標データが点滅している。
ただの数字列なのに、その奥には、ノアの使命と正体に絡みつく、巨大な罠が潜んでいる気配があった。彼のスパイの本能が、軽く舌打ちするように「危険だ」と警告を囁く。
その瞬間、部屋全体の照明が、ふっと息を吸い込むように明滅した。
ノアの瞳が、わずかに細まる。
システムの不調ではない。これは巧妙に仕組まれた電力操作――侵入の痕跡だ。
机上に置かれた個人通信端末が、誰も知るはずのない回線で、低く冷たい起動音を鳴らす。分析班のオペレーターたちの視線も、微かな緊張で静止したかのように凍りついた。
周囲の空気が、金属と電子機器の匂いとともに一瞬凍るような気配を帯びる。
画面に浮かび上がった発信元の名は、ただ一言――圧倒的な力を示すかのように。
《BOSS》
キーボードに置かれた指先が、一瞬、ぴたりと止まる。ノアは肺の底まで息を吸い込み、周囲の無機質な光と音をすべて切り離した。
表情からは、感情の一片も漏れない。静寂の中で、彼はゆっくりと応答ボタンに指を滑らせた。戦場は変わった――今、この冷たく密室めいた通話こそが、彼の戦場だった。
「……なんでしょうか」
通信機越しに届いた声は、低く、よく磨かれた金属のように滑らかだった。空気ではなく、電子の震えそのものがノアの鼓膜を撫でていく。
それは夜の闇を裂き、鋭利な氷の矢のように意識の深層を突き抜ける。
『ずいぶん早いな。まだ、昨夜の任務の余韻で休んでいるとばかり思っていた』
「任務中に受け取ったデータの整理をしています」
ノアの声は平静そのもの。
感情の壁は完璧だ。だが、彼の胸の奥では、昨夜の密室での会話の残響が警鐘のように小さく鳴り響いていた。
イザナは、短く、しかしノアの心を穿つような含みを込めて笑った。
『そうか。でも、ノア。俺が本当に見たいのは、その完璧にまとめられた報告書じゃない。理性の壁で隠された、お前の微かな心の揺れだ』
その言葉に、ノアは無意識に眉をピクリと動かす。スクリーン越しに伝わる声なのに、イザナの視線は、まるで部屋の空気を通して、ノアの心臓の鼓動を直接覗き込んでいるようだった。
『ノア。お前は俺を利用すると言ったな。いい宣告だ。……だが、忘れるな。俺もまた、お前を徹底的に利用する』
通信の最後、イザナの声が一段と低く、重く沈む。それは、逃れられない運命を刻む声だ。
『それが、俺たちの本質的な関係だ。――愛も、任務も、俺にとっては同じ価値を持つ』
通話がブツリと途切れる。瞬間、ヴェルモアの照明はまるで何事もなかったかのように、再び金属の光を帯びて整列する。
壁面のスクリーンに映る無数の文字列も、規則正しい流れを取り戻す。
だが、整然とした論理の宇宙に残されたのは、ノアの存在だけだった。
冷たく照らされる彼の影は、孤独と緊張の中でひそかに揺れ、耽美な孤高の緊張を放っていた。
分析班のオペレーターたちは、それぞれ端末に集中しながらも、ノアの微かな呼吸の変化や背筋の緊張を、無意識に察知している。
光と影に染まった部屋の空気は、彼らの冷静な視線によってさらに研ぎ澄まされ、ひとつの緊迫した瞬間を共有していた。
イザナの通信が途絶えた端末を、まるで毒物であるかのように、静かに伏せた。
薄闇の中、電子機器の微かな残光だけが、ノアの冷え切った頬を淡く照らす。
その冷たい光が、彼の視界から一瞬一瞬消えていくたびに、昨夜イザナから与えられた感情の熱も一緒に心から引き剥がされていくようだった。
「……愛も、任務も、か」
ノアの呟きは、誰にも届かない。
ただ、拠点の奥で低く回る巨大な機械音だけが、彼の心の軋みに微かに呼応したかのように、不協和音を鳴らし続けていた。
彼は知っていた。この「日常」こそが、イザナの最も危険な罠なのだと。
ヴェルモアでの緊張が、まだ胸に微かに残る。深夜、外の街の音も届かない自分の部屋に戻り、ノアは静かに立ち上がった。
夜の空気が窓の隙間から薄く差し込み、部屋の影を長く伸ばす。
澱みなく、無駄のない動作で壁面のロッカーを開く。内部には、秩序と規律を体現するかのように、銃器、通信機器、暗号化ツール、そして複数の偽装身分証が整然と並んでいた。
ノアの指先が、迷いなく、そして正確に動く。必要な装備だけを、重さを確かめるように選び取っていく。その動きは記憶を頼りにしているのではなく、まるで身体そのものが覚えた、神聖な儀式のようだ。
黒いレザーグローブをはめ、予備の銃が収められたホルスターを腰にカチリと固定する。
反射する金属音が、拠点の無機質な静寂に短く、鋭く響いた。その冷たい音こそが、ノアにとっての「スパイ」としての覚醒の合図だった。
彼は、部屋の隅の全身鏡の前に立った。
そこに映ったのは、ノア・ヴェルンという個人ではない。国家直属のスパイとしての、完全な自分だ。
昨夜までの内面の混乱も、イザナの言葉の残響も、理性の強固な仮面の奥深くに封じ込められた。外面だけが冷たく、完璧に整っていく。
感情という名の脆弱な要素は、再び彼の全てを覆う理性によって、完全に抑圧された。
デスクに残された一枚のメモ――イザナが示した、裏取引の座標――が、ノアの鋭い目に飛び込んできた。
それを指先でなぞりながら、わずかに目を細める。その瞳には、警戒と、情報への飢えだけが宿る。
「……ECLIPSEの資金ルート、ね。いいだろう。お前が望むように、深く潜行してやる」
彼は軽く息を吐き、防弾仕様の黒のコートを滑らかな動作で羽織った。
生地が肩に落ちる音が、妙に重く響く。まるで、これから彼が踏み込む世界の重力、すなわちイザナの支配の重みを、予言しているかのようだった。
出口に向かう途中、ノアの足取りが一瞬だけ止まる。
脳裏をかすめるのは、昨夜イザナが見せた、あの鋭い瞳の奥に宿っていた人間らしい哀しみの影。「俺の生きる意味だ」と言った声の痛々しいほどの熱が、今も胸の奥に微かな残り火として燻っていた。
だが、ノアはその記憶を強引に、奥底へと押し込める。
感情は任務の敵だ。
彼が信じるべきは、解析された情報と計算された確率だけ。それ以外はすべてノイズだ。
ドアロックをカチャリと解除し、外の冷気が一気に流れ込む。
拠点の廊下は無機質に伸び、その先には新たな任務の夜が、口を開けて待っていた。
ノアは、もう一度息を整えた。
スパイとしての戦場へ――そして、イザナという名の檻の外側で、再び自分という存在の真実を賭けるために。
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