第18話 修学旅行、予算ゼロ

 「今年の修学旅行、中止です」


 会議室の空気は、紙のように薄くなって破れた。教頭・鵤の一言は短くて、短いくせに腹にたまる。窓から差す光は明るいのに、みんなの顔色は一段暗く見えた。


 理由:予算不足。ホワイトボードには、それだけ。黒い太字は、言い訳も夢も入る余地をくれない。


 「うそだろ……」

 「一生に一回なんだぞ!」

 「写真、どこで撮るんですか。背景、黒板?」


 あちこちの椅子が同時にきしんだ。タクミが机を叩き、ミオは唇を噛む。叩いた音はすぐ静まったが、噛んだ跡は消えない。誰も暴れない。誰も泣かない。でも、諦めた顔だけは見たくなかった。


 俺は手を挙げて立った。自分でも驚くくらい、声はまっすぐ出た。


 「中止じゃない。“形を変える”だけだ」


 何人かの目がこちらを向く。教頭の眉が、ほんの少しだけ上がった。


 「どうやって?」

 「俺たちで、“校内一泊二日の修学旅行”を作る!」


 会議室にざわめきが走り、次の瞬間に笑いが混ざった。タクミが即答する。


 「予算ゼロで?」

 「そう。金じゃなくて“発想”で行く」

 「天野先生、それYouTuberっすよ」

 「Vtuberの旦那です」

 「強い」


 笑いが一段深くなる。重さが少しだけ浮く。


 教頭が組んだ腕を解き、ゆっくり言う。「安全面、規律面、保護者対応。すべて条件を満たすなら、企画書を受け取ろう」

 「受け取る、ってことは……」

 「“検討”だ。だが、ゼロをひっくり返してみろ。教師は、ゼロから字を教えられる仕事だ」


 たまにこの人は詩人だ。詩人は、許可の言い方が遠回しだ。つまり、やってみろってことだ。俺はうなずいた。


     ◇


 放課後、黒板をまっさらにして“旅の設計図会議”が始まった。クラスの机を前に寄せ、ペンと付箋を山ほど配る。しょっぱなからタクミが手を挙げた。


 「タイトル、先に決めよ。“#ゼロ円旅行で行けた場所”」

 「強い」

 「タグありきで動くの、現代っぽい」

 「お前ら、言い方が完全に制作チーム」


 俺はチョークを持つ手を一度振ってから、板書する。


 ・教室を「京都」にする→美術部に襖絵を依頼。和紙は新聞紙の裏を漂白で代用、遠目ならいける。

 ・廊下を「伏見稲荷」にする→折り紙で鳥居を何百枚も作って吊るす。赤は生徒会の紙予算でどうにか。

・理科室を「プラネタリウム」にする→暗幕+懐中電灯+穴あき黒画用紙。

 ・体育館は「旅館」。家庭科部が布団を並べ、保健室が睡眠チェック。

 ・給食室は「旅の食堂」。メニューは“ほぼ京都風”。お揚げの色が濃かったら、それはそれで“ご当地”。

 ・全員のスマホで“旅のドキュメンタリー”を撮る。編集チーフ:犬飼タクミ。


 「先生、弟にも見せたい」

 ミオの声が小さく届いた。

 「リモート参加OK。全員が行ける修学旅行にする」

 「先生、それ泣くやつ」

 「泣かせる気はない。笑わせる。笑って泣くなら、しゃあない」


 雨宮先生が顔を出す。「保護者への案内文、私が叩き台を書く。修学旅行の目的、“自分たちで旅を作る学び”を前に」

 「助かります」

 「あなた、全部抱えると倒れるわよ」

 「抱えません。配る。……ほら、配るぞ」


 役割表を回す。美術部、放送部、家庭科部、図書委員、保健委員。生徒会はトラブル対応窓口。避難経路と消灯時間は学校基準を厳守。SNS発信は“顔出しなし”“本名なし”“位置情報なし”。ユメ運営ルールも追加で。


 「ユメ運営?」

 「プロの運営ルール、だ」


 タクミがにやつく。「BGM、どうする」

 「著作権的に清く正しい“ユメのオリジナル”。未公開のやつを、一本、借りられるかもしれない」

 「家に強いコネあるんだな」

 「たまたまだ」


 黒板の端に書く。“予算:ゼロ”。その右に、“熱量:∞”。∞は子どもっぽい。でも、旅に必要なのは、だいたい子どもっぽさだ。


     ◇


 一日目、午後。廊下の天井から赤い折り紙の鳥居がずらりと吊られ、教室の入り口には“京”の一文字。誰かの筆がやたら上手い。入ると、黒板が襖になっていて、白い紙に墨の山水。美術部の手際はガチでプロだ。机の上には抹茶風の粉。実際は青汁を少し混ぜた砂糖らしい。味は……試さなくていい。


 放送部のアナウンスが流れる。「ただいまより、お客様は旅館へご案内いたします。廊下は右側通行でお願いいたします」

 体育館のドアを開けると、布団が整然と並んでいた。家庭科部が角をピシッと立て、保健委員が枕の高さを確認している。照明を落とすと、畳でもないのに畳の匂いがする気がした。


 「先生、これ、完全に“来てる”」

 タクミがカメラを肩にのせて、ファインダーを覗く。レンズの先では、同級生がいつもより少しだけ上手に笑っている。旅行カメラの魔法。写されると、自分の表情に責任を持とうとするから不思議だ。


 理科室のプラネタリウムは予想外に良かった。黒画用紙に開けた穴から、懐中電灯の光が天井に散る。誰かが理科準備室から持ってきたスピーカーで、宇宙っぽい環境音が流れている。イスに座ると、本当に夜になった気がした。


 「先生、これ、弟に見せる」

 ミオがスマホを掲げ、切り替えボタンでカメラを自分に向ける。画面の中の弟くんが、口をあけて空を見上げていた。向こうの天井は白いままだ。それでも、同じ星を見ている気になれる。


 「ねえ、これが旅館だよ!」

 体育館に戻ると、ミオはそのまま弟くんに布団の波を見せた。画面の向こうで笑った瞬間、俺の目尻も熱くなって、慌てて咳払いで誤魔化す。


 給食室の“旅の食堂”は、見事に“ほぼ京都”。きつねうどんのお揚げがちょっと濃い目なのは、まあ、地元アレンジ。紙の札には「おおきに」と書いてある。厨房の前で「おおきに」を言うと、白衣の調理員さんが笑って「ほんまかいな」と返してくれた。ここだけ関西弁の精度がやたら高い。


 夕方。夕焼けは校舎にも来る。窓ガラスにオレンジが乗ると、ここが「いつもの学校」から少しだけ離れる。ホームルームの時間、俺は黒板に一枚の紙を貼った。修学旅行の目的、ふつうならガイドブックの一ページ目に書いてあるやつだ。


 《自分たちで旅を作る。誰かの旅にも連れていく》


 「先生、連れていく?」

 「うん。行けなかった子、家の都合で参加できなかった子、遠くにいる親、卒業した先輩。映像で、言葉で、連れていける」

 タクミがうなずく。「そんで、ハッシュタグで連れてくる。“#ゼロ円旅行で行けた場所”。全国から、“うちの学校でもやりたい”の声、拾う」


 俺は言葉の熱が上がり過ぎないよう、冷やしにかかる。「ただし、安全第一。消灯時間厳守。スマホは二十三時以降、旅館フロント、つまり体育館入り口に預ける」

 「えー」

 「修学旅行“っぽさ”は守る。枠があるから、旅は楽しい」


 夜。体育館の照明が落ち、ランタンのやわらかい光だけになる。誰かの笑い声と、誰かの内緒話。布団からはみ出た足の先。ふだんは見せない横顔。先生たちも雑魚寝。俺は見回りついでに、端の布団に腰を下ろし、耳を澄ます。遠くの方で、ミオの声が小さく弾んだ。


 「ね、聞こえる? これが、旅館の夜だよ」

 スマホ越しの弟くんが、鼻で笑うみたいに息を鳴らした。


 「先生」

 近くの布団からタクミの声。顔だけ出して、手でカメラの真似をする。

 「いまの音、撮れてる?」

 「撮れてる。記憶に」

 「編集、間に合わないっす」

 「なら、編集なしで行こう。記憶に保存だ」


 体育館の天井に、小さな風が走った気がした。換気扇の風かもしれない。でも、旅の夜には、だいたい物語の風が吹く。誰かの小声の間を縫って、布団の海をすべっていく風だ。


     ◇


 翌朝、起き抜けの顔のまま校庭に集合。空はやけに機嫌がいい。雲が薄くて、どの方向にも行けそうに見える。放送部のドローンがプロペラ音を刻んで浮かび上がる。安全確認、風速チェック、許可書のコピー。全部、昨日のうちに済ませた。


 「最終カット、行きまーす! 三、二、一――」

 タクミの声が響き、全員で叫ぶ。

 「修学旅行、最高ーっ!!」


 その瞬間、風が校舎の角から回り込み、桜の花びらみたいな紙吹雪が舞った。生徒会が夜なべして作った「何色でもない紙吹雪」。色がないのに、色が見えるのは、たぶん脳の方が勝手に足している。足せるくらい、心が元気ってことだ。


 ドローンが大きく円を描いて上昇する。小さくなっていく体育館の屋根、校庭の列、腕を振る生徒たち。画角の端で、教頭が小さく手を上げていた。見間違いじゃない。あの人はたまに、こういう小さな手を上げる。


 解散のアナウンス。拍手が波になって広がる。誰かが泣いた声を、誰かが笑いで隠す。うまく隠せないから、いい。


     ◇


 後片付けは“旅の後”だ。楽しい時間を片付けるのは、けっこう好きだ。名残りが手に触れるから。体育館の布団を畳み、教室の襖を戻し、鳥居をひとつずつ外す。折り紙は、次の図工に回す。プラネタリウムの穴あき画用紙は、図書室の壁に貼った。星は昼にも見える。知ってるけど、いつも忘れる。


 「先生」

 ミオがスマホを掲げる。弟くんからのメッセージが来ていた。ひらがな多めの短い文。


 〈たび、いった。ありがと〉


 ミオの目じりが濡れ、俺の胸の奥が静かに鳴る。鳴った音は、耳じゃなくて背中で聴こえる。背骨の真ん中あたり。


 職員室に戻ると、教頭が企画書のコピーをぱらぱらめくっていた。顔はいつもの無表情だが、口元の力が抜けている。


 「事故ゼロ。睡眠時間、平均六時間。スマホは二十三時以降、回収完了」

 「はい」

 「保護者の感想、“参加できた気がした”が多数」

「はい」

 「……来年も、検討の余地ありだな」

 「ありがとうございます」

 「ただし次は、予算をゼロではなく、“ゼロに近い”にせよ。教師は、現実も教える立場だ」

 「わかりました」


 現実に“ちょっと”寄せる。それは、俺が最近覚えた歩き方だ。夢の真ん中で、現実の側に足を置く。どちらの足も、ちゃんと地面を踏む。


     ◇


 夜。家のリビング。ユメは配信の準備をしながら、俺の撮った映像をモニタに並べていた。サムネイルがタイルみたいに並び、笑顔のピースで壁ができる。


 「先生、やったね」

 「やった。編集は間に合わなかった」

 「“間に合わない”は、“いまを生きた”の証拠だから」

 「うまいこと言うな」

 「言葉のプロだから」


 配信が始まる。タイトルは『#ゼロ円旅行で行けた場所』。コメントが流れ始めて、すぐに流速が上がった。


 『こんな学校通いたい』

 『先生が青春してる』

 『顔出てないのに泣けるのずるい』

 『家から旅できた。ありがとう』


 ユメがウインクする。「この動画の監修は――“やめたいをやめない先生”です」

 俺はミキサーの前で、カメラに映らない位置で照れ笑いした。照れ笑いにも、役割がある。緊張をほどく役。


 コメント欄の隅で、見覚えのあるアイコンが小さく光る。モブ長――いや、教頭だ。短いメッセージ。


 〈監査継続。旅は良好。君は“帰れる”ことを、忘れないこと〉


 俺は親指だけ上げる。返事はしない。家では、言葉を減らす。減らす代わりに、隣に座る。ユメが肩を寄せてきた。ふたりの膝の上に、双子が交互に乗ってくる。


 「パパ、きょう、りょこう?」

 「りょこう、だった」

 「どこ、いった?」

 「学校」

 「ずるい」

 「ずるいのが大人」

 「また言った」


 笑いながら、俺は壁の時計を見上げる。秒針は、いつもより速く進んでいる気がした。もちろん気のせいだ。時計は嘘をつかない。つかないのに、進み方が軽く見える夜がある。たぶん、そういう夜のために旅はある。


 配信の終わり際、ユメがほんの少し真面目な声で言った。


 「お金がなくても、旅はできる。誰かと笑えば、行ったことのない場所に着く。配信も、学校も、家も。ね、先生」

 「はい」

 「だからみんなも、“やめたい”って思ったら、“やめない”に一歩だけ変えてみて。旅は一歩で始まるから」


 コメント欄に、また新しいタグが生まれた。


 『#やめない一歩』


 タクミからメッセージが飛んでくる。《先生、エンドロール、今からでも間に合います?》

 《無理》

 《ですよね。じゃ、口で言います。“撮影・編集:みんな”。監督:天野先生。BGM:白咲ユメ。提供:ゼロ円》

 《提供:青春、にしとけ》

 《語彙、勝てねえ》


 ユメが笑い、双子が欠伸を重ねる。窓の外には、学校の屋根のシルエット。そこは旅の出発点で、同時に帰り道でもある。


 俺は小さくうなずいて、目を閉じた。


 “やめたい”の向こうに、“やめない”がある。

 “中止”の向こうに、“形を変える”がある。

 “予算ゼロ”の向こうに、“発想∞”がある。


 旅は、これで終わりじゃない。明日の教室で、また出発する。いい準備と、いい仲間と、いい笑顔で。

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