第17話 父と先生の線引き

 朝は甘かった。冷蔵庫の奥から取り出されたプリンの表面みたいに、つやつやしていて、すぐに指の跡がつく種類の甘さだ。


 「ラコのプリン食べた!」

 「リコが先に取った!」


 キッチンの前で双子が向かい合い、スプーンを十字に組んで小競り合いをしていた。片方は涙目、片方は強がり顔。どっちも正しく、どっちもまだまだ子ども。俺は二人のあいだに手を差し入れて、スプーンの交差をほどく。


 「先生、どうする?」

 リコが首をかしげる。昨日から家の中で、俺の呼び名が揺れている。パパだったり、先生だったり、たまに“運営”だったりする。家族は肩書をすぐ混ぜる。混ぜると味が出るのはカレーだけだぞ、と思いながら、俺は言い返した。


 「父親としては……どうする?」

 「ふたりとも悪い、って言う?」

 「先生としては?」

 「プリンの前にルールを作る」

 「るーる?」

 「先に『半分こ宣言』。宣言なしで勝手に食べたら、次回のプリン券は一日遅れ」


 双子が顔を見合わせる。さっきまで戦っていた二人組が、共同戦線を張るときの目をした。こういうときだけ、チームワークがいい。


 「せんげん、する」

 「する」

 「よし。じゃあ、今日は父親モードで裁定。スプーン交換して、同時に一口ずつ。合図は『いただきます』で」


 ふたりは素直にうなずき、息を合わせるようにスプーンを差し込んだ。表面のカラメルが小さく揺れ、甘い匂いが鼻に届く。ふたりが満面で振り向いたので、俺は胸の中で小さくガッツポーズを作る。とりあえず、今朝の平和は守れた。


 「先生モード、オフ」

 背中からユメの声。湯気の立つみそ汁のお椀を持って、エプロン姿で立っている。

 「オフにできたら苦労しない」

 「仕事と家庭の境目、もうぐちゃぐちゃだね」

 「夢だからな」

 「夢じゃなくても、人間そうでしょ」


 不意に真顔で言われて、何も言い返せなかった。たしかに、現実だってみんな混ぜて生きてる。家の顔、学校の顔、ネットの顔。きれいに箱にしまって取り替えられるなら、誰も悩まない。


 朝食が終わると、双子はランドセルに似た“保育園バッグ”を背負って踊り場まで全力疾走していった。見送る手を振るとき、リコが振り返って言う。


 「きょうのパパ、どっち?」

 「両方だよ」

 「りょうほう?」

 「父さんで、先生」

 「ずるい」

 「ずるいのが大人」


 ユメがクスクス笑って肩をつつく。「自分で言ったね」


     ◇


 学校に着いた途端、逆方向の悩みが始まった。俺が家庭ノリを持ち込みすぎたらしい。職員室での「おはようございます」が自然に「いってらっしゃい」になるし、教室で「席に着け」が気づけば「お皿は片付けてね」に変わる。


 「先生〜今日の宿題、代わりにやって〜」

 チャイム明けの教室で、前列の男子が机に顔を埋めたまま声を伸ばす。

 「それはお母さんでも無理」

 「えー、じゃあ父さんポジで」

 「お前ら、俺にどんなイメージ持ってんだ」


 笑いが起きる。笑わせるのは嫌いじゃない。空気がほぐれるから。ただ、ほぐれすぎると、やるべきことが立ち上がれなくなる。


 最初の国語。配ったプリントの問題文に、「読点の打ち方」がある。俺は黒板にため息を一個書いて、チョークで軽く叩く。


 「締めるぞ」

 「えー」

 「父さんポジから先生ポジに、いま切り替えた」

 「どこにスイッチあるんすか」

 「ここ」

 心臓の位置を指でつつく。タクミが笑って、机を二回だけトントンと叩く。あれは「了解」のノックだ。そういう小さなサインが増えたのは、ここ数週間の収穫だ。


 だが、甘えもまた増えている。授業の途中でスマホを机の中でそっとスライドさせるやつ、提出期限を「すみません、家のことで」で柔らかく押し出すやつ。もちろん本当に家の事情がある子もいる。それはわかっている。けれど、全員に無条件で優しいと、優しさは空気みたいに軽くなる。空気は必要だけど、空気は持ち上げられない。


 休み時間、ミオが教卓の前に立った。生活ノートを胸に抱えて、まっすぐこちらを見る。

 「先生、なんか最近、優しすぎる」

 真顔。刺さる刺さる。俺は背中を伸ばしたまま、正面で受ける。

 「優しすぎる?」

 「“怒らない先生”って、最初はいいけど、そのうち誰も本気出さなくなるよ」

 ぐさり。刃は薄いのに、切れ味がいい。ミオの言葉は、余計な装飾がない。


 「……ありがとな」

 「怒っても、嫌いにならないから」

 そう言って去るミオの後ろ姿が、やけに頼もしかった。背中に言葉の背骨が一本、通っている。


 よし、切り替える。切り替えるにも、やり方がいる。怒鳴るのは簡単だ。でも、怒鳴り声は耳に一回しか届かない。静かな強さで押す方法を、今から作らないと。


     ◇


 四時間目、国語の後半。俺は黒板の中央に四角を描いた。わざと歪ませず、きれいな四角。四角の中に、ゆっくり字を書く。


 《約束ボックス》


 教室のざわつきが一段、小さくなる。四角は安心する形だ。枠があると、息を整えやすい。


 「ここに、クラスの約束を一つずつ入れる。先生の命令じゃない。お前らの“未来の楽さ”のために、今のめんどくささを選ぶ箱だ」

 「めんどくささ?」

 「人間、楽な方に滑る。滑り台は気持ちいい。でも、ずっと滑ってると同じ場所を往復するだけだ」


 笑いが起きる。良い。笑ったあとに真面目なことを言うと、意外と届く。


 「第一案。“遅刻の理由は、面白くても三回まで”」

 「なんすかそれ」

 「今週すでに、『鳩が道をふさいだ』『家のトースターが火を噴いた』『夢の中で先生に引き留められた』が出た。発想の豊かさは認めるが、四回目からは救済措置を減らす。具体的には“昼休み五分掃除”。五分は短い。でも、短いことを積むのが一番堅い」

 「ぐうの音が出ないルール……」

 「出ないから採用だ。第二案。“机上スマホは、表向きにしておく”。通知が見えるように。コソコソしない。見られて困る使い方を、そもそもしない」

 「それ、怖い」

 「怖いのは最初だけ。透明は楽だ」


 俺は板書の端に小さく「透明は楽」と書いて、自分でちょっと照れた。言葉を貼ると、その言葉に自分も縛られる。それでいい。縛っておけば、あとで助かる。


 「最後。先生から。“叱るのは、未来に連れて行くため”。これを先生の約束に入れる」

 「未来に?」

 「叱って、いま目の前の楽を奪うのは、先の楽を増やすため。叱られてるあいだは気分が悪い。あとで楽になる。……だから、叱られてる時間を、うまく使え」


 教室が静かになった。静けさが、嫌な静けさじゃない。集中前の静けさ。俺はチョークを置き、手を叩いた。


 「じゃ、さっそく試す。さっきスマホを机の下で滑らせてたやつ、手を挙げろ」

 しん、としたあと、前の列で一人がそっと挙手した。肩をすぼめて、目はこっちを見ている。逃げてない目だ。


 「堂々としてて良い。五分掃除。今日の昼休み、先生といっしょ。掃除しながら、なんで滑らせたか話せ」

 「……はい」

 「よし。じゃ、授業続行」


 そのまま本文の読みへ。今日は短い詩を選んでいた。「叱られる日の空はやけに高い」という一行が出てきたとき、前列の彼が小さく笑った。笑えるなら、まだ余裕がある。余裕があるうちに、直す。


     ◇


 昼休み、黒板の前。俺とさっきの彼は雑巾で前面を交互に拭いた。窓の外は曇りで、光が柔らかい。拭くたびにチョーク粉が水に溶け、小さな川が走る。


 「先生」

 「ん」

 「俺、家で弟見てるんすよ。昼も。スマホ、連絡用で。……でも、つい通知が来ると、見ちゃう」

 「“つい”は、強い。勝てないときは、リングを変える」

 「リング?」

 「通知の設定。優先だけ残して、残りは切る。俺も配信のときは、音声トラブルの通知以外、全部切る」

 「先生、運営だもんな」

 「家でも学校でも、だいたい運営だ」

 俺が笑うと、彼も笑った。笑いながら、雑巾を絞る手が握力テストみたいに強くて、頼もしい。


 掃除が終わる頃、ミオが廊下から顔を覗かせた。

 「“約束ボックス”、クラスで回しとく」

 「助かる」

 「あと、さっきの詩、黒板の端に写メ貼っていい?」

 「いい。叱られる日の空、撮っとけ」


 ミオが親指を立てる。俺は思わず同じ仕草を返して、相互理解の合図みたいに笑い合った。


     ◇


 放課後。保健室のドアを開けると、雨宮先生が冷蔵庫から保冷ジェルを取り出していた。青い袋を振って、俺に寄こす。


「額」



 「そんなに暑そうですか」

 「あなたは怒ると、体温が少し上がる。優しいときより、いい顔」

 「褒めてます?」

 「もちろん」

 椅子に座ると、ひやりとした冷たさが額に吸い付いた。頭の中の熱が、少しずつ下がっていく。


 「怒るの、苦手なんすよ。怒鳴るのは簡単だけど」

 「怒鳴るのは“放出”。叱るのは“共有”。似ているようで違う」

 「共有」

 「“あなたのやりたいことを、私は知っている。それに合わせて叱っている”。そう伝わると、叱りは効く」

 「……難しい」

 「練習中でいいの。あなたは練習が似合う」


 雨宮は微笑んで、窓の外を見た。グラウンドの土埃が、夕方の光で金色に見える。金色の土なんてないのに、そう見えるだけで元気が出るから不思議だ。


     ◇


 夜。風呂上がりのユメが、いつものマグカップでコーヒーを差し出してくる。湯気の向こうの目が、少しだけ探るみたいに細い。


 「今日の“父さん”は合格?」

 「不合格。優しすぎた」

 「じゃあ明日は?」

「怒ってみる」

 「怒るの苦手なくせに」

 「怒るって、好きだからできることなんだろ」

 ユメが目を丸くして笑った。

 「それ、告白?」

 「授業中だ」

 「はいはい、先生モードね」


 ソファに並んで座る。リビングのテーブルの縁に、ユメが白いテープを貼った。細いマスキングテープ。ペンで小さく文字を書く。


 「ここからこっち、“家庭”。ここからそっち、“仕事”。線引きの練習」

 「練習?」

 「うん。“線引き”って言葉は堅いけど、線は動いていいんだよ。動かすために、まず一本引いとくの」


 線は、すぐに意味を持った。双子がやってきて、線の向こう側で跳ねたり、こっち側で座ったりする。線を越えるたびに、気持ちのスイッチの位置がわかる。父親モードで抱き上げて、先生モードで寝る前の絵本を読む。絵本の読み聞かせに宿題の確認を混ぜない。混ぜそうになると、ユメが指でテープをちょん、と弾いて合図する。


 「怒るの、見てた」

 「どこで」

 「あなたの眉尻。昼のライブ編集みたいに、ほんの少しだけ角度が変わって、声の帯域が低くなった」

 「専門用語で家族を分析するな」

 「ふふ。でも、いい怒りだった。終わったあと、ちゃんと笑ってた」


 笑ってたか。そうか。ミオも笑ってくれたし、昼に掃除した彼も笑ってた。怒りを終わらせるのは、だいたい笑いだ。怒り続けるのは簡単だが、終わらせるには技術がいる。技術は、練習でしか身につかない。


 「ねえ先生」

 「ん」

 「今日の“線引き”、最後にテストしよう」

 ユメが立ち上がって、ソファとテーブルの間に紙袋を置いた。中には、プリンが二つ。朝の因縁。


 「どっちが父で、どっちが先生?」

 「先生は“半分こ宣言”を先に貼る。父は、二人の顔を見て、スプーンの角度を合わせる」

 「正解」

 「採点甘くない?」

 「採点は甘い方が、家は平和になる」


 ユメはプリンの上の紙を丁寧に剥がして、俺のスプーンに半分をのせた。俺はわざとらしく真面目な顔をしてから、スプーンを傾ける。甘さが舌に乗る。朝よりも、少しだけ静かな甘さだった。線を引いたあとに食べる甘さは、大人の味がする。


 双子が潜水艦みたいに布団から浮上して、顔だけ出す。

 「パパ、きょうはどっち?」

 「どっちも」

 「ずるい」

 「ずるいのが大人」

 「またいった!」


 笑い合って、布団を整える。寝室の灯りを落とす直前、ユメが俺のシャツの裾を引いた。


 「ねえ」

 「ん」

 「あなたが叱るとき、わたしも隣でうなずくね。ひとりで叱らないで」

 「助かる」

 「叱るって、ひとり分の覚悟で背負うには重たいから」


 ユメの言葉は、肩に乗ると軽い。軽いのに、背筋が伸びる。叱るときに誰かが隣でうなずいてくれるだけで、声の出し方が変わる。怒鳴らずに済む。


     ◇


 ベランダの外は寒い。夜の空気は、境目をくっきりさせる。家と外、光と闇、夢と現実。手すりに手を置いて深呼吸したとき、スマホが震えた。画面には、ミオからのメッセージ。


 〈今日の“約束ボックス”、五個集まった。明日貼る〉

 〈先生、怒っていいよ〉

 〈私、だいじょうぶだから〉


 短いのに、支えられる。俺は返事を打つ。


 〈ありがとう。怒るのは、未来に連れていくため〉

 〈明日、掃除五分。俺も〉


 送信。送信音が小さく鳴る。壁の時計の秒針が、またすんなり進む。逆回転の癖を探す指が、今夜は動かなかった。


 リビングに戻ると、ユメがマスキングテープの端を指で押さえ、そこに小さく文字を足していた。


 《見放さない限り、正解》


 細い字。強い意味。俺はその上からそっと指で押さえて、テープごと心のどこかに貼り付けた。


 教師も父親も、どっちも“見守る職業”。見守るって、何もしないことじゃない。目を離さないこと。声をかけること。叱ること。笑わせること。線を引いて、時々動かして、また引き直すこと。


 明日の授業の冒頭、黒板に書こう。大きく、ゆっくり。


 《叱る=未来に連れていく》


 書いたら、自分にも効く。効いた分だけ、誰かにも届く。


 寝室の灯りを落とす前、ユメが小声で言った。

 「今日の“先生”、合格」

 「父さんは?」

 「合格。ずるいけど」

 「ずるいのが大人」

 「それ、気に入ってるよね」

 「まあな」


 笑って、布団にもぐる。双子の寝息が、規則正しく重なっている。重なる呼吸の音は、線を消す音に似ている。線は消えても、覚えた切り替えは残る。明日の朝、またプリンが出てきたら、今度は最初に「半分こ宣言」を忘れないだろう。忘れても、また宣言すればいい。線は、引き直せる。


 目を閉じる前、声にならない声でつぶやく。


 「見放さない」


 それだけで、眠りは正解に寄ってくる。時計は今日も、気持ちよく前に進んでいた。

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