第15話 学年集会、爆発寸前
翌朝の校舎は、普段よりも騒がしかった。廊下の端から端まで、同じ単語が反響している。「スマホ」「没収」「強化」。紙の掲示物は一夜にして増えて、赤いスタンプの上からさらに赤ペンで注意が重ねられている。重ねられた赤は、だいたい怒りの層数だ。
ホームルーム開始の五分前、学年主任が顔を出して言った。「全員、今から体育館」。声が固い。固い声は、だいたい良いことを言わない。廊下は靴音で一杯になり、階段の踊り場で「マジ?」とか「終わった」とか、小さい言葉が集まって濁流になる。
体育館の床は、磨きすぎていて匂いがする。スピーカーからのハウリングが一度だけ短く鳴って、天井に吸い込まれて消えた。壇上には長机が三つ。中央に校長、右に教頭・鵤、左に学年主任。机の前には書類の山。山の形には、性格が出る。校長の前はきれいな山、鵤の前は階段みたいな積み方、主任の前は崩れかけを手で押さえてる感じ。
学年主任がマイクを持ち上げ、手順どおりに始める。「では、学年集会を始めます。本日は“スマートフォン持ち込みに関する校内規定の見直し”について……」
体育館の空気が、みるみる乾く。喉が砂場になる。最初の数分は静かだった。静かなのは、まだ状況を飲み込み中だからだ。けれど、「強化」「没収」「違反は反省文」「二回目は保護者呼び出し」「朝は箱で回収」という単語が重なるにつれて、体育館の奥のほう、最後列から低いブーイングが芽を出した。芽は早い。列から列へ、音が芽吹く。やがて、広がる。
「配信活動が趣味の子もいるんだぞ!」
声を張ったのは、うちのタクミだった。背筋が伸びている。声は通る。続けざまに別の列から。
「俺たちの“居場所”を取り上げるな!」
拍手も混じる。体育館は広いのに、狭くなる。鵤が眉をひとつ跳ね上げ、マイクに手を伸ばした。
「静粛に!」
体育館の壁が、その一言で冷たくなる。冷たい壁は反響がよく、怒鳴り声は二重になる。二重に聞こえると、余計に刺さる。刺さると、人は逆に声を上げたくなる。悪循環の始まりだ。
俺は、手を挙げる代わりに、壇上の横に置いてあったサブマイクを取りに走った。走りながら、いったん息を止める。息を止めると、言葉は短くなる。短い言葉は、爆発のときに効く。
「ストップ!」
体育館の空気が、音で押し返されたみたいに止まる。反響が天井に居残って、ゆっくり帰ってくる。俺はマイクの先を一度だけ下に向け、呼吸を整えてから続けた。
「文句があるなら、質問に変えろ!」
「は?」
近くの列から素直すぎる声。いい、その「は?」が欲しかった。俺は続ける。
「いまから“質問タイム”。五分。俺が受ける。大きい声で言ってくれ。文句じゃなくて、質問で。文句は、相手を決める。質問は、問題を決める」
体育館にざわつきが走る。ルールを提示すると、暴れるエネルギーの半分は、行き場を見つける。基礎反射だ。最初に手を挙げたのは、意外にも女子の列からだった。髪を後ろで結んだ子が、まっすぐ声を飛ばす。
「先生、なんで学校ってスマホ禁止なんですか!」
「簡単だ。大人が使い方わかってないから」
笑いが起きる。笑いは油だ。俺は油を差して、ハンドルを回す。
「じゃあ、どうすれば?」
別の列から。声が次々とジャンプする。俺は短く、しかし具体的に返す。
「先生も生徒も、練習すればいい。ルールは“上から”じゃなく“横で作る”。現場で使ってる人間が、使い方を設計する。失敗したら直す。その“直す席”に、生徒が座る」
「天野、何を勝手なことを!」
鵤の声が飛ぶ。俺はマイクを少しだけ離して、壇上に向き直った。逃げずに向き直るのは、喧嘩じゃなく会話に戻すための角度だ。
「勝手に怒ってるのは、そっちじゃないですか」
体育館の空気が、ふっと引いた。吸い込む音がそろう。危ない。危ないからこそ、続きの言葉を軽くする。
「俺は怒ってない。困ってる。だから“練習”って言ってる」
「練習?」
質疑の列から、誰かがオウム返しする。いい、合図だ。俺は指を一本立てる。
「“朝の回収箱”は練習として必要かもしれない。でも“配信や創作を学びと接続する窓口”は必要だ。たとえば“昼休み十五分だけ編集OK”のブースを設けて、『やっていいこと・やっちゃダメなこと・報告先』を掲示。違反は“没収”じゃなく“リテラシーノート三枚提出”。“罰”じゃなく“学び直し”。どうだ」
列の真ん中で、タクミが手を挙げて立ち上がる。「先生、それ、俺やれる。編集ブースの管理。チェックリスト作って運用する」
「言い出したからには、責任取れよ」
「取る。先生が“監督”なら、俺“副監督”で」
笑いが広がる。笑いの勢いが、今度は前に出る力へと変わっていく。俺はもう一歩、踏み込んだ。
「いじめにスマホが使われる? その通り。でも権利は道具を止めることじゃなくて、使い方をつくることだ。学校は“止める”を覚える場所じゃない。“止め方”と同じくらい“始め方”を学ぶ場所だろ」
拍手が、波みたいに起きた。波は、だいたい三波まで行く。二波目の終わり、俺はマイクを持ったまま、鵤のほうへ半歩だけ近づいた。距離を詰めるのは、敵対のためじゃない。声を小さくできる距離にするためだ。
「教頭。五分、俺にください。五分終わったら、教頭の“五分”を聞きます。交渉じゃない。練習です」
鵤は数秒だけ黙って、それから短くうなずいた。うなずき方に、ほんの一ミリ、苦笑が混じる。混じるということは、俺の勝ちではない。会話の続行が取れただけだ。
「次」
俺が促すと、列の中央からミオが立った。生活ノートを胸に抱えている。
「“家での介護がある生徒”のスマホは、連絡の命綱です。没収の運用を“個別”にしてください。提出物の期限も、ケースごとに“交渉”を。わたし、意見書、書きます。署名集めます」
ざわめきが止み、拍手が一点から広がる。拍手の質が変わるときは、体育館が狭くなる。狭くなるのは、近くなるということだ。鵤がマイクを握り直し、喉を鳴らす。
「……検討しよう」
短い。けれど、重い。鵤の「検討」は、だいたい実行前の言葉だ。実行しないときは、「再考」と言うから。
「次」
「“推し活ルール”の掲示、全学年でやりたい!」
別のクラスの男子が叫ぶ。女子の列からも、「“匿名で人を傷つけない”の文言を、校則に入れて」と声。俺はそれぞれに短く頷き、メモに落とすふりをして記憶に刻む。ふりをしてるだけでも、相手の声は立つ。
「五分」
鵤の声。約束の時間だ。俺はマイクを持ったまま、壇上に向き直り、一礼した。
「以上です。次は、教頭の五分です」
鵤は少しだけ大きく息を吸い、言葉を整える。「スマートフォンは、危険も利便も併せ持つ。我々大人は、危険に敏感になりすぎ、利便を見ないふりをしてきた。見直しは、危険を避けるためだけでなく、利便を教育に取り込むためでもある。……“横で作る”という言葉を借りるなら、生徒会と代表者、教員数名、保護者数名の“スマホ運用委員会”を設置する。月一で見直す。意見書を歓迎する」
体育館の空気が、目に見えない位置でうねった。うねって、拍手になった。拍手のなかでタクミが高く手を振り、ミオがノートを掲げる。俺はマイクを一度切ってから、またオンにした。
「おまえら、今日、全員“練習中”合格だ」
笑いが爆ぜた。笑いは大きく、でも、今日の笑いは荒れていない。荒れない笑いは、体育館の天井の鉄骨まで届く。届いて、戻ってくる。
「やったー!」「先生サイコー!」
声を浴びながら、俺は深呼吸をひとつ。肺に入る空気が、今朝より少しだけ軽い。軽い空気は、足を前に出しやすい。
◇
集会が終わって、波が廊下に溢れ、教室へと帰っていく。俺が黒板の拭き跡を手の甲でついっと触っていると、タクミが駆け寄ってきた。
「先生、やばいっす」
「何が」
「さっきの“質問に変えろ”のとこ、ショートにしたら、バズってます」
「出したのかよ」
「“出していい?”って聞く前に出した。すまん。でも、映ってるのはマイクと手だけ。顔なし。声は……まあ、声は出てる」
タクミがスマホを差し出す。画面の向こうで、体育館の俺の声が反響する。テロップが良い。短くて、嘘がない。「文句→質問」「上から→横で作る」「練習中合格」。再生数の数字が、目に見える速度で増える。右下のハートが、雨の粒みたいに積もる。コメント欄の上位に踊るタグ。
《#やめたいをやめない先生》
「おい、タグ」
「勝手に付いた。フォロワーが勝手に付けて、勝手に広がった」
「うちの学校名は?」
「出してない。制服も映ってない。体育館の床がピカピカすぎるってツッコミは入ってるけど」
「それは否めない」
「先生、人気者っすね」
「いや、俺の顔映ってないし」
「でも、声はバレてますよ」
「どっちにしろ、ユメに怒られる」
後ろの列から、わざとらしいひそひそ声。「奥さん、ユメさんっすよね?」
「違う!」
反射で否定した俺を見て、教室が爆笑に包まれた。背中にぽんぽんと叩かれて、「先生、声がもう隠せてない」と言われる。隠す気があるのか、俺。ないのかもしれない。
ミオが机の上に肘をついて、わずかに笑って言う。「先生、怒られたら、わたしが“推し活ルール”を盾にします」
「頼もしい」
「編集ブース、ほんとにやろうね」
「やる。やって、毎週、改善する」
「横で作る、ってやつ」
「そう。横で座る。横に並ぶ」
言いながら、教室の窓の外を見る。渡り廊下を、鵤がゆっくり歩いていく。携帯の画面を見ながら、眉を少し上げる。やがてこちらに気づいて、遠くから軽く指を上げた。OKの合図かどうかはわからない。けれど、止めろ、ではない。
◇
夕方、俺は動画のコメント欄を追いながら、教室に残っていた。机の並びは、日中の熱をまだほんの少しだけ持っている。窓の外でサッカー部が声を張っている。張った声の端が、教室の壁に当たって丸くなる。スマホの通知は止まらない。いいね、共有、保存、引用。なかに一つだけ、やけに短いコメントがあった。
『質問に変えろ、救われた』
たったそれだけ。名前のない、顔のない、小さい言葉。小さいけれど、芯があった。芯に触れると、手のひらが温かくなる。俺は返信欄を開きかけて、閉じた。返す言葉は配信でまとめて言おう。言葉は、まとめて言うときと、すぐに返すときの二種類がある。今日は前者だ。
帰り際、廊下の掲示板に、白い紙が一枚、すでに貼られていた。ミオの字だ。
《“横で作る”委員会 賛同者募集。匿名可。毎週金曜昼、教室後方にて意見箱回収》
紙の下に、誰かが小さく落書きしている。たぶんタクミの字。
《#やめたいをやめない先生 動画リンク↑(手書きのQR)》
手書きの四角の密度が妙に均一で笑ってしまう。スキャンしてみると、ちゃんと読み取れた。器用なやつだ。
◇
夜。家。玄関を開けると、味噌と生姜の匂い。ユメがキッチンで鍋の湯気に顔をしかめている。その横で双子が、小皿にちぎった海苔を山にしている。山の上に、さらに海苔を積む。海苔は山にはならないのに、山にしようとする。その根性が好きだ。
「先生、バズってるじゃん」
ユメがスマホをひらひらさせる。俺の声が流れる。「文句を質問に」。部屋のスピーカーで聞く自分の声は、いつもより落ち着いているように聞こえる。多分、錯覚だ。
「バレた?」
「世界中のリスナーが“この声、ユメの旦那じゃね?”って言ってる」
「やっぱり!」
「でもね」
ユメは笑った。笑顔に、茶色い湯気が揺れる。
「みんな、“最高の夫婦”って言ってくれてる」
「最高の、は、盛りすぎでは」
「盛るのは配信の基本」
ユメが近づいて、スマホの画面を俺の胸にぽんと当てる。画面には、見慣れた“こころ”のひらがながあった。あの時のコメントをスクショした画像を、誰かが引用している。「今日のユメの旦那、ここまで回収」。無茶を言う。
「私ね、あの日のコメントをくれた人と、同じ夢を見られて幸せだよ」
言われた瞬間、胸の奥がゆっくり熱くなる。温度の上がり方が、電子レンジじゃなくて鍋。じわじわ温まって、真ん中から広がる。ユメは鍋の蓋を少しずらして、俺の肩に額を乗せた。額の重みは、いつもと同じ。いつもと同じは、最高のご褒美だ。
双子が布団から顔だけ出す。「パパ、きょうのせんせい、さいこう!」
「だろ?」
「でも、うるさかった」
「それは体育館の反響だ」
「はんきょう?」
「山で叫んだら、山が返事するやつ」
「やま、しつれいします」
よくわからないけど礼儀正しいのがおもしろくて、三人で笑う。笑って、風呂に入って、歯を磨いて、リビングの灯りを落とす。壁の時計は、すんなり進む。すんなり進む時計は、見ていて安心する。逆回転の気配はない。代わりに、秒針の音が、しっかり部屋の四隅に届く。届く音は、未来の方向を指す。
寝室に入る前、俺はスマホをひらいて、あのショートのコメント欄をもう一度だけ見た。新しいコメントが増えている。
『うちの学校でもやって』
『質問に変える、明日から使う』
『先生、ありがとう』
ありがとう、という単語は、見慣れたはずなのに、毎回、違う。違うから、毎回、効く。俺は返信欄を開いて、短く打った。
『練習中、合格』
送信。送信のボタンは、小さいのに大きい。押す指に、昼の体育館が戻る。戻ってきて、すぐに現在に溶ける。
ベッドに入る。ユメの寝息が、最初は深くて、やがて浅くなる。双子の寝言は、意味がないのに意味がある。意味のない言葉が、今日の意味を薄めて、眠りやすくする。天井を見上げ、耳を澄ます。
――時計は、もう、逆回転しない。
そう思うと、少しだけ寂しくもあった。寂しいのは、終わりではなく、始まりの手前だからだ。逆回転が“やめない”の合図だったなら、いまは合図なしで進める段階に来た、ということ。合図なしで進めるのは、練習がひと段落した証拠だ。
世界は、ちゃんと前に進み始めている。体育館で起きたことが、動画になって、誰かの明日に届く。届いた明日が、また誰かの今日になる。今日の俺が、明日の俺にタグを一つ渡す。
《#やめたいをやめない先生》
タグは軽い。軽いけれど、持ち歩ける。持ち歩くのは、恥ずかしい。恥ずかしいけれど、悪くない。恥ずかしさのぶんだけ、熱が出る。熱は、動力になる。
目を閉じる前に、声に出さず、口の形だけで言った。
「OK、続行」
胸の中で、返事があった。どん、どん、と二拍。それだけあれば、明日はじゅうぶんだ。
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