第14話 告白:私はあなたを選んだ

 夜の始まりは、いつもライトの熱から来る。点灯した瞬間、部屋の四角が少しだけ浅くなって、空気が温度ごと前に寄ってくる。配信部屋の壁紙は落ち着いた青で、画面越しには白に見える。テーブルの上、ミキサーは点滅のリズムを整えて、マイクのポップガードには双子の落書きで描かれた小さな王冠が貼ってある。「パパ先生の王さままいく」。どんな肩書だよと心の中で突っ込みを入れながら、俺はケーブルを一本ずつ指でなぞっていく。触ってみて、そこに電気が流れているのが分かる気がする。音を運ぶ道は、触るほど安心する。


 リコとラコは、もう寝た。歯みがきの歌を二回で寝落ち。ベッドの端に置いたスタンプ台からインクの匂いがかすかに残っていて、家じゅうの空気に甘い影を落としている。リビングの時計は、秒針が素直に進む夜だ。逆回転の気配はない。ユメはモニタ前の椅子に腰かけ、首の後ろで髪をまとめ、声帯の奥を軽く温めるために低い音を一つ出した。ドの低いやつ。声が部屋の角に当たって、ちゃんと返ってくる。調子はいい。


 「タイトル、出すね」


 「うん」


 画面に現れたのは、大きな白い字。


 《運営に感謝する夜》


 運営、という言葉は、裏方の手と同じで、見えなくていいはずのものだ。でも、今夜はそれを表に出す。いつもの明るいサムネより、少し落ち着いた色。いつもの笑顔より、光が二段階ほど柔らかい。


 カウントダウンの無音が終わり、最初の音が走る。チャットが一気に立ち上がり、「こんばんは」の湖が広がる。名前の横にハート、星、定期コメント。俺はミキサーのフェーダーをほんの指幅だけ押し上げ、BGMの底を低く調整した。声が沈まず、浮きすぎない位置。ここだ、というところに音を置けると、呼吸が楽になる。


 「こんばんは、ユメです。今夜は、ね。わたしのわがままに、少しだけつきあってほしい」


 「わがまま」という一語に、視線が集まるのが分かる。チャットの流れが、少しだけ細くなり、耳が画面の奥へ近づく。いい始まり方だ。ユメは笑って、片方の口角だけ上げる。


 「タイトルは『運営に感謝する夜』。いつも裏で支えてくれる人に、言葉でありがとうを言う回にしたいの。大人になると、“ありがとう”って面と向かって言いにくくなるから」


 『えらい』『神回の予感』『うちの運営は俺』『運営=ママ』チャットが軽く弾む。ユメはそれを受け止めながら、少し目線を落として過去の方角を見た。


 「わたしがデビューしたばかりのころ、正直、下手だった。トークも、ゲームも、歌も、カメラの位置も、どこ見てしゃべればいいかも分からなくて。コメント欄の温度に、心が引っ張られちゃう夜があって。ある夜ね、配信が荒れて、わたし、すごく泣いた。画面を閉じたあと、机に額をつけて、泣いた。やめよう、って思った。やめたら楽だよ、って心の奥のひとが言った」


 俺は手を止めず、でも目だけは彼女を見ていた。ユメの声の芯が、今日は低い。低い声は、嘘を切り離す。


 「そのとき、コメント欄に、一つだけ残ってた言葉があった。全部流れて消えちゃうのに、なぜかそれだけは、そこに残ってた」


 チャットが一瞬、すっと細くなる。俺はコーヒーの蓋を閉め、フェーダーの手をいっそう軽くした。


 「“夢は売れても、心は売らないで”」


 ぜんぶの音が、その言葉に吸い込まれたみたいに感じた。喉の奥がきゅっとなって、手がカップの持ち手から離れる。金属の蓋が指先でからんと鳴り、すぐに静かになる。俺は、息の出方を確認して、それから頭の中で時間を一度巻き戻した。高校の夜。ひとり、机にスマホが照らす円の中にいて、打ち込んだ言葉。漢字にしたら固い気がして、わざとひらがなにした「こころ」。指の腹が汗ばんで、送信したあと、肩の力が抜けた夜。あの夜の窓の向こうの、青白い街灯まで、急に戻ってきた。


 『だれだ』『泣いた』『ユメの原点』『そのコメント書いた人、名乗り出て』『リアル彼氏?』『既婚者設定やめろ』『泣いてまうやろ』


 チャットの温度が早口になり、同時に泣き虫になる。ユメは少し笑って、遠くを見るように言う。


 「その一言で、わたしは救われた。なんで救われたかっていうと……わたし、“売れる”って言葉は好きだけど、“売る”って言葉は、ちょっと怖かったから。“売る”って言うと、わたしの中の大事な何かまで商品にされちゃう気がして。でも、そのコメントが、“夢は売っても、こころまで売らなくていい”って、具体的に言ってくれた。言葉で、大丈夫を作ってくれた」


 吸い込む息の音が、マイクに乗らないように気をつけるのは、けっこう難しい。でも今、俺の呼吸は驚くほど静かだった。静かだからこそ、胸の鼓動がはっきり分かる。


 「だから、もしもう一度言えるなら、言いたい。“ありがとう”って」


 チャットがばちばちに沸き、画面の右側が白くなる。『誰?』『ガチ』『恋?』『運営泣いてるだろ』。タイピングの音がこの部屋まで聞こえる気がする。ユメは一拍だけ空白を置いて、手を伸ばした。モニタの端、配信を切るアイコンに触れ、俺に目で合図。俺は頷き、フェーダーを下げる。配信の音が静かになり、視聴者の世界が、いったん向こう側に戻っていく。カメラのランプが赤から黒へ。静けさが、ほんものになる。


 ユメが椅子から立ち上がる。ライトが彼女の髪の表面で薄くはぜて、すぐに消える。顔はさっきより、ずっと近い。配信の笑顔を脱いだ顔だ。


 「ソラくん。……あのコメント、あなたでしょ」


 思っていたのに、言われると、喉が素直に動かない。喉の前にある見えない扉が、ゆっくり開いていく感覚。


 「なんで、わかった」


 「“心は売らない”の“心”だけ、漢字じゃなくてひらがなだった」


 俺は笑った。笑いながら、涙腺がぐらっと揺れた。ひらがなのことを覚えているなんて、ずるい。ずるいけど、うれしい。


 「あれ、俺だよ。高校のとき。コンビニで肉まん待ちながら、親指で打った」


 「コンビニ?」


 「蒸気の前で指がべたついて、変換ミスしまくって、でも“こころ”だけ、ひらがなのままにした」


 「知ってる。だって、わたし、その夜の画面、まだ覚えてるもん」


 ユメはモニタの電源を落として、部屋の光を一段階暗くした。ライトの熱が少し下がる。部屋の音が、家の音に戻る。


 「わたし、この夢を選んだの。あなたにもう一度“ありがとう”を言うために」


 夢、という単語が、今夜はやけに現実味を持って響いた。夢と現実が、手の甲同士で触れ合うみたいに、境目を失っていく。俺は笑って、でも目の奥はじんと熱い。


「ありがとう、は、俺のセリフだよ。毎日、助かってる」



 「それも知ってる。でも、先に言わせて。ずっと言いたかったんだ」


 ユメは平らな呼吸のまま、声だけを震わせた。震えは弱さじゃない。震えは、言葉の芯が露出した音だ。逃げようがないから、相手にも逃げ道を作る。


 「だから、この世界は、あなたが“やめたい”って言えないまま止まった夢。わたしは、その中に来た“お礼の人”。言い方が、ずるい?」


 ずるい。ずるいし、優しい。俺は天井の端を見て、笑って、首を振った。


 「ずるい。でも、ずるいのは、たいてい正しい」


 「うれしくない?」


 「うれしいけど、悲しい」


 「うん、私も」


 どっちも、だ。片方だけを選べるのは、簡単で、薄い。両方抱えて立つのは、不器用で、厚い。俺たちは笑いながら、同時に泣いた。泣くときの笑いは、顔の筋肉の使い方を頭が忘れて、勝手に混ざる。


 「じゃあさ、夢の中くらい、正直になろ」


 ユメが一歩近づく。足音はほとんどしない。距離に音はないけれど、距離には温度がある。温度が、頬に届く。


 「わたし、あなたが好き」


 その瞬間、部屋のどこかで、世界が小さく鳴った。金属に爪を当てたときの、かすかな音。俺の肩の力が落ち、背中の筋肉が笑う。笑う筋肉は、涙を認める筋肉だ。


 壁の時計が、ピタリと止まった。秒針の先の光が、ほんの線ほど揺れて、凍る。いつもなら、逆回転の合図が来るところだ。でも、今は、止まる。止まったまま、なにもしない。静寂が、音を消す。エアコンの低い唸りが遠くに退き、冷蔵庫の小さな振動も、靴箱の上の硬貨が触れ合う音も、全部、遠くへ。耳の中は、俺の心臓の音だけになった。どん。どん。どん。規則正しく、少し早い。


 俺は言葉を探す。手さぐりで、暗い引き出しに指を入れるみたいに。一番上にあるのは「ありがとう」。その下にあるのは「ごめん」。その隣にある「好き」は、思ったよりも、軽かった。軽いのは、落ちないようにできているからだ。落ちないようにできた言葉は、投げると戻ってくる。ブーメランみたいに。投げるのは怖いけど、戻ってくるなら、怖くない。


 「俺も」


 あまりにも短い。足りない。足りないから、息を吸って、増やす。増やすのは、飾ることじゃない。中身を足すことだ。


 「俺も、ユメが好きだ。夢だからとか、現実だからとか、そういうの、あとで考えてもいい? 今は、好きだって言わせて」


 ユメはうなずく。うなずく動作が、ゆっくりで、確かだ。それだけで、こっちの膝が勝手に力を抜く。


 「いいよ。今日の配信、タイトル通り“運営に感謝する夜”。運営って、表に出ない人のこと。でも、わたしの“運営”は、あなた。“やめたい”と“やめない”のミキサーのフェーダーを、毎日、いい位置に置いてくれた人」


 「俺、上手かった?」


 「うん。ときどき雑だったけど」


 「ばれたか」


 「ばれるよ。好きな人の雑は、かわいい」


 かわいい、という単語は、子どもに使われがちだけど、今日は大人に向けられた。向けられると、ちゃんと照れる。照れと一緒に、胸の奥が軽くなる。


 「ねえ、ソラくん」


 「なに」


 「起きても、忘れないで。忘れても、思い出して。“夢は売れても、こころは売らないで”。あなたが投げた言葉は、あなたに戻る。戻ってきた言葉を、ちゃんと受け取って」


 「受け取る」


 「うん。じゃあ、最後に、もうひとつだけ、わがまま」


 「なんでもどうぞ」


 ユメはほんの少しだけ、顔を近づけた。近づいた分だけ、瞳の中の俺が大きくなる。大きくなって、ピントが合う。会うと、逃げられない。逃げない。


 「今度、あなたから言って」


 「何を」


 「『わたし、あなたが好き』って。順番、変えよう」


 順番。順番は、世界の形を決める。順番が変わると、景色が変わる。同じ道でも、歩き出す足が右か左かで、見える店が違うみたいに。俺は喉の奥の扉を押し開け、息を取り込む。配信ではないのに、声の出し方に気をつける。言葉を置く位置を、ゆっくり選ぶ。


 「……わたし」


 口に出した瞬間、少し笑いそうになる。自分の口から出る「わたし」は妙で、でも、妙だから、まともになる。まともになるまでの時間が、今日のために必要な時間だ。


 「わたし、あなたが好き」


 ユメの肩が、ほっと、落ちる。肩が落ちたときの、首筋のラインが好きだと、今、初めて自分で言葉にした。言葉にしたら、もっと好きになった。


 秒針は、まだ止まっている。止まっているのに、俺の心臓はちゃんと動く。動く音は、静けさの中で、思ったよりも大きい。大きいけど、うるさくない。うるさくない音は、体を安心させる。体が安心すると、頭がちゃんと働く。頭が働くと、選べる。


 この先、起きるのか、起きないのか。その選択の前に、俺はひとつだけ確かめる。起きてからも、やめない。やめたいが来たら、それは予告だ。予告に「受け取りました」と返事をする。返事をして、もう一歩。


 「先生」


 リビングのほうから、小さな声がした。双子のうち、どっちだろう。布団から顔だけ出す癖のあるほうだ。


 「パパ、まる、のこってる」


 ユメが笑う。笑って、目尻に涙の跡を残したまま、俺の手を取る。


 「押してあげよ」


 部屋の照明を少し明るくし、スタンプ台を持ってくる。台紙の真ん中に、空白が一つ。俺たちは並んで、そこに丸を押す。丸は簡単で、最強の形だ。線の始まりも終わりもなく、閉じているのに、閉じ込めない。


 紙の上に、インクの丸がくっきり生まれて、じんわりと滲む。滲むのは、生きてる証拠。完璧に乾いた線だけでできた世界は、息が詰まる。ちょっと滲むくらいが、ちょうどいい。


 丸を押した瞬間、時計の秒針が、わずかに震えた。動くか、動かないか。判定がつかないほどの揺れ。次の瞬間、世界が息を吐いたみたいに、音が戻ってくる。冷蔵庫、外の車、隣の家のテレビ。全部が、小さめの音量で帰ってきた。


 「……動いた?」


 「まだ、いい。まだ、今のままがいい」


 ユメの声は笑っていた。俺も笑った。笑って、丸に親指を重ねる。インクが指に移り、黒い輪が皮膚に描かれる。俺はその指で、空中に一度だけ、小さく書いた。


 再始動。


 声に出さず、でも、確かに言った。心臓が、それに合わせて打つ。秒針は、まだ少し迷っている。迷う秒針が、今日の俺には、やけに愛しい。迷っているのに、止まっていないから。


 「ソラくん」


 「ん?」


 「選んでくれて、ありがとう」


 「俺のほうこそ」


 「じゃあ、配信の続き、どうする?」


 「続けよう。まだ“ありがとう”言ってない相手がいる」


 「だれ?」


 「今日、ここまで見てくれてる人、全員。あと、未来の俺」


 「未来のソラくん?」


 「うん。“やめたい”が来たときの俺に、先に言っとく。“やめたい”は“やめない”の予告だぞ、って」


 ユメは笑い、椅子に戻る。カメラのランプが、赤に戻る。俺はフェーダーを上げ、BGMを、少しだけ明るくした。画面の向こうで、チャットの川が再び流れ出す。白い文字が、夜の水面に光る。


 『戻ってきた』『泣いたから目が腫れた』『運営さんありがとう』『うちもありがとうって言う』『こころは売らないでいこう』


 俺はミキサーの前で、指に残ったインクの丸を見た。丸は小さく、でもはっきりしていた。指を軽く握る。インクが手のひらにうつって、輪が二つになる。二つの輪が重なる場所が、ちいさく濃くなる。そこに、今夜の全部が集まって見えた。


 時計は、まだ少し迷いながら、ゆっくり、進み始める。間を置いて、一目盛り。また、間。また、一目盛り。急がない秒針に合わせて、俺は息を整える。整えた息で、マイクの前の彼女を支える。支えながら、同時に支えられているのを知る。


 これは夢か。夢だ。だけど、嘘じゃない。嘘じゃないものを、持っていけ。起きても、持っていけ。そう思いながら、俺は口の中で小さく言った。


 「OK、続行」

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