第10話 いじめのDMは既読スルーを破る

 夜。いつもより少し早くベッドに入ったはずなのに、目だけが覚めていた。配信を終えたユメが台所で片づける水音が遠くにして、双子は並んで寝相の悪い星座を作っている。静かな家の真ん中で、俺のスマホだけが青い顔をして震えた。

 《おまえのクラス、ミオのせいで終わってる》

 《先生もグルなんだろ?》

 《正義ぶるな 薄っぺらい》

 短い息のような文が、間を空けず刺さってくる。匿名アカウント。アイコンは、どこから拾ってきたのか分からない風景写真。顔がないのに、息だけ荒い。スクロールするほど胸が冷える。指先は冷たいのに、耳の奥だけが熱い。既読のマークがつくたびに、向こうが勝った顔をしている気がする。顔なんてどこにもないのに、だ。

 返信欄の点滅するカーソルを見て、指が止まる。言葉をぶつけるのは簡単だ。簡単だけど、簡単さはだいたい失敗の友だちだ。ため息を一つ、飲み込んだ。ユメがリビングの戸を少し開けて、顔だけ出す。

 「先生、歯磨き忘れてる」

 「今から行く」

 「顔に“戦うか逃げるか”って書いてる」

 「読める?」

 「読める。逃げるな、でも殴るな。今日はそれで」

 殴らない。逃げない。真ん中の道を探す。スマホを伏せて、洗面所で冷たい水をひと口。鏡に写る自分は、教師の顔と高校生の顔の境目で迷っていた。迷っていい。迷ってから、決めればいい。

 翌朝。教室に入ると、ミオが笑っていた。けど、笑いが固い。輪郭が切り紙みたいに硬い。

 「先生、今日も大丈夫。もう慣れた」

 その言葉がいちばん危ない。慣れたは、感覚の麻痺に似ている。痛みを拾わなくなる代わりに、何も楽しくなくなっていく。俺は出欠を取りながら、教室の空気の継ぎ目を確かめる。うわべのざわざわと、机の下の沈黙。両方、ある。

 放課後、情報室。タクミがいつもの椅子で、いつものようにイヤホンを片耳だけ。俺は扉を閉めて、率直に切り出す。

 「タクミ。いじめDMの追跡って、できる?」

 「できなくはないけど、法に触れる。先生、それやる気?」

 「やらない。殴ったら終わりだ。……違う手を考えたい。DMを“消す”んじゃなくて、“塗り替える”」

 タクミが眉だけで笑う。「ペンキ塗り替え?」

 「そう。上から、別の色で。見たくなる色で」

 ホワイトボードにキャップをカチッとする音。俺は三文字、太く書いた。

 《褒め切り抜き》

 「授業でやる。三十秒で、隣のやつの“いいところ”を言葉にする。それを撮る。編集で最短の光にする。投稿は“校内限定”。でも、見た人が勝手に外へ運ぶ形にする。“勝手に”は、強い」

 「バズらせる気、満々じゃないすか」

 「正しくバズれば、誰も傷つかない。むしろ救う。やれるか」

 「やる。先生、ソースある?」

 「ある。文化祭で残した素材と、あの屋台のカード。あと、君の手」

 「それ、いちばん貴重」

 タクミの目の奥に、作業前の静かな火が灯る。俺たちはその場で最短のワークフローを決めた。撮影はスマホで十分。フレームは肩から上を外して、顔は映さない。手、筆圧、靴の先。声はそのまま。ただし固有名詞や悪ふざけは即カット。テロップは太文字禁止、細い線で、読みがゆっくり追いつける速度。音は薄いリズムと、黒板消しの粉の音。投稿先は校内ポータル。外には誰かが勝手に。

 翌日、ホームルームの冒頭で、俺は黒板の前に立った。チョークで一行。

 《今日の国語:隣を三十秒で褒める》

 「は?」

 「だっさ」

 「先生、どうした」

 「期末の点数、捨てた?」

 ざわめきは想定内。笑いは空気の油だ。油を引いてから、火をつける。

 「今日の課題。隣の人の“いいとこ”を、三十秒で書け。それを動画にする。編集は犬飼。発表は、俺。投稿先は、校内」

 「誰得」

 「先生得」

 笑いが一段落したところで、タクミが前に出る。スマホを横向き、編集アプリを立ち上げ、外付けマイクのスイッチを入れる。動きが速いのに、雑じゃない。見ていて気持ちがいい速さだ。

 「三、二、一、スタート!」

 最初はふざけていた。ふざけるのは、怖さの裏返しだ。ふざけて、鎧の音を消す。

 「〇〇の絵、上手い」

 「体育の後半、いつもペース上げる」

「消しゴム貸してくれた」

 「掃除のとき、こぼした牛乳ふいてた。だまって」

 「遅刻、減った」

 「昨日、泣いてる低学年にティッシュ渡してた」

 短い言葉が積もる。積もるほど、教室の空気の床が上がる感覚がした。誰かのいいところは、言われた本人のためでもあるけど、言った自分のためでもある。言った人の声色が半音明るくなる。そういうの、国語の教科書には書いてないが、国語の授業で扱うべきことだ。

 ミオは黙っていた。ノートにペンの先で小さく点を打つだけ。俺は黒板消しを置いて、教室の前に立つ。視線がまとまる。

 「じゃあ、俺が言う番だな」

 空気が止まる。タクミがカメラをこちらに向ける。レンズは何も言わないが、正直だ。

 「如月ミオ。遅刻ゼロ日目。弟を送り出してから学校に来てる。誰も知らない努力が、いちばんすげぇ。授業中に寝そうになるのは、かっこ悪くない。来てるから、だ。机の下で指をぎゅっと握ってるの、知ってる。握ってる指は、弱さじゃなくて、続けるためのハンドルだ」

 沈黙のあと、拍手が湧いた。誰かが真っ先に叩いたわけじゃない。ばらばらに始まって、だんだんそろっていった。ミオの肩の線がふっと落ちる。落ちて、定位置に戻る。彼女は何も言わなかったが、目尻の色が変わった。変わる、で十分だ。

 その日、休み時間と放課後を使って、俺たちはクラス全員分の“褒め切り抜き”を撮った。短く、間違えたら撮り直し。悪ふざけは容赦なく没。最後に全員で自分の分を見て、承認の丸印。拒否権は当然、ある。丸が並ぶ。並ばない丸は、無理に並べない。

 情報室にこもって、タクミが編集を始める。指先が走り、波形が跳ね、テロップが紙飛行機みたいに滑る。俺は横で、チェックリストに一つずつ丸をつけた。プライバシーに配慮したか。名前は出ていないか。映り込みはないか。悪口が紛れていないか。音量は耳に優しいか。誰かひとりが恥をかかないか。誰かひとりだけが得をしすぎないか。

 「先生、完成。サムネは“手”。顔じゃなくて、手。書いてる手」

 「いい」

 “校内限定”でアップする。小さなサーバーの小さなフォルダに、小さな灯りがともる。その灯りは、壁をすり抜ける。すり抜ける方法は、俺が教えたわけじゃない。けれど、教えたのも同じだ。見たい人は見つける。見せたい人は運ぶ。

 コメントが、あっという間に埋まった。

 『これ、学校でやれ』

 『泣いた』

 『おれもクラスメイト褒めたい』

 『こういう先生に会いたかった』

 『わたしもやる、褒め切り抜き』

 DMはいまだに届く。けれど、今度は違う。

 《天野先生、マジかっけー》

 《うちの学校でもやって》

 《ミオさん、元気?》

 《これ見て、弟にありがとう言えた》

 嫌な声は“雑音”じゃなくなった。ノイズの向こうに人がいるって分かる。向こうも、こっちも、人だ。人だと分かると、言葉の速度が少し落ちる。落ちた速度で、意味が届く。

 放課後。ミオがノートを持って、職員室のドアの影から出てきた。ノートの端に、付箋が一枚。ささやく声。

 「先生。……ありがとうは、言葉にしないと、たまる」

 「そうだな」

 「たまると、腐る」

 「たまに、肥やしになる」

 「今日は、肥やし」

 付箋には、小さな字で「弟、今日は自分で靴下を裏返さずに履いた」と書いてあった。いいニュースは、小さくて、具体的で、生活に近い。

 夜。家に帰ると、ユメは鍋のふたを少しずらして、湯気だけを逃がしていた。蒸気の向こうで、モニタには“褒め切り抜き”のダッシュボード。再生数や反応の数字は、今日は見ない。数字はあとでいい。大事なのは、コメントに埋もれた短いありがとうだ。

 「先生、やったね」

「やった。……殴らずに済んだ」

 「殴らないで勝つの、好き」

 「負けるときもあるけど」

 「負けてない。今日の勝ち方は、長く効く」

 配信が始まる。ユメはオープニングを短くして、すぐに本題に入った。画面の向こうの海が、ざわっと寄ってくる。

 「匿名の声って、ほんとは“伝えたい”の裏返しなんだよ。だからね、もし怖くなったら――褒めちゃえ。いちばん近い人からでいい。“今日のいいところ”を三つ。長文いらない。短くていい」

 コメントが笑いと涙で溢れる。いつもより「分かった」「やってみる」の短い言葉が多い。短い「やる」は、長い説明より信じられる。画面の端に、あのうさぎのアイコンが流れた気がして、俺は目を細めた。今日、保護者会で話した人と、同じかもしれないし、違うかもしれない。どちらでも、いい。届けば、いい。

 俺の膝の上で、リコとラコが交互に頭を重ねて、眠る直前のもごもご声。

 「パパ、みんなほめた」

 「うん、俺もほめられた」

 それで、だいたい全部だ。ほめた。ほめられた。交互にやる。交互にやると、続く。続くと、強くなる。

 配信が終わり、ライトが落ちると、部屋の色が元に戻る。ユメは椅子にもたれて、息をひとつ。「今日の台本、半分飛ばした」と笑う。飛ばすべきときに飛ばせるのが、本番の強さだ。

 俺のスマホが、また震えた。心臓がひやりとする。画面を開く。新しいDM。

 《先生、前にきついこと言った。ごめん。たぶん俺、自分が褒められたこと無いから、嫉妬してた》

 長文じゃない。けれど、長い道のりを歩いたような言葉だ。俺は短く返す。

 《今日の君の“いいところ”を三つ、明日、自分に言ってから寝てくれ》

 既読がつく。すぐに返ってきた。

 《一つめ 今日はちゃんと眠い》

 《二つめ 今日、弟にムダに怒らなかった》

 《三つめ 今、ちゃんとごめんって言えた》

 いい。十分すぎる。俺はスマホを伏せて、息を吐く。吐いた息に、晩飯のスープの香りが混ざる。現実は、だいたいスープの匂いがする。

 風呂上がり。ユメが湯気の向こうで髪をタオルで拭きながら、ぽつり。

 「先生、今日の先生、主人公だった」

 「それ、言い過ぎ」

 「主人公って、毎回キラッキラじゃないよ。迷って、転んで、やり直す。その全部を、ちゃんと見せる。今日の先生は、それ」

 主人公、という単語はこそばゆい。けれど、胸の奥でちいさく鳴った。こそばゆさは、だいたい喜びの手ざわりに似ている。

 寝室に入る前、壁の時計が一瞬だけ逆回転した。何度目かの、あの奇妙な挙動。針はすぐに元の方向へ進み直し、秒の音を取り戻す。俺は時計に向かって、指でちいさく丸を作った。

 「OK、続行」

 翌朝。廊下で鵤とすれ違う。立ち止まらず、短く。

 「“褒め切り抜き”、苦情は来ていない」

 「よかったです」

 「お願いが一つ。次は、教員でもやれ」

 「教員?」

 「互いを三十秒で、だ。まず職員室で」

 思わず吹き出しそうになった。けれど、悪くない。大人がやると、子どもはやれる。大人が照れて笑うと、子どもは笑ってから真面目になる。

 教室のドアを開けると、タクミが早く来ていた。目の下の影は薄く、表情はよく晴れている。

 「先生、見る?」

 「何を」

 「“褒め切り抜き”の“褒め切り抜き”」

 「どういうこと」

 「視聴者が、自分のクラスでもやったって、三十秒の連投。編集いらないくらい、みんな上手い」

 画面には、いろんな学校の机、手、靴。言葉は短いのに、背景の生活が勝手に立ち上がる。見ているうちに、背筋が伸びる。伸びるけれど、力は入らない。正しい姿勢は、力が抜けている。

 ミオが席につき、ちらりと黒板の端を見る。今週の名言は、昨日から変わっていない。変わっていないのに、今日の字のほうが読みやすい気がする。テープの端を誰かが折り返して、めくりやすくしてあった。こういう手、いちばん効く。

 ホームルーム。出欠を取り終えて、俺は言う。

 「今日の国語、続き。三十秒、用意はいいか」

 返ってきた「いいよ」の声は、最初のときより軽い。軽さは、練習のご褒美だ。俺はチョークを握り、黒板の端にもう一度書く。短く、迷わず、すっと。

 《褒めるのはタダじゃない でも 安い》

 教室が笑い、笑いがおさまったところで、タクミがまた、三つ数える。

 「三、二、一、スタート」

 今日も、たぶん誰かが救われる。今日も、たぶん誰かが救う。どっちも、同じくらい大事だ。俺はレンズの向こうの誰かを想像しながら、教室の空気の温度を上げすぎないように、息を整える。息が合えば、言葉は届く。届けば、既読は、既読のままじゃ終わらない。返事が、くる。

 そして俺たちはまた、三十秒の短い光を集め始めた。光は、すぐ溜まる。光が溜まると、暗さの形が見える。見えれば、怖くない。怖さはゼロにならないけれど、ちゃんと持てる重さになる。その重さなら、教室で持てる。家でも持てる。俺も、持てる。

 今日も、続行。

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