第9話 進路指導と夢の値札
進路面談週間は、学校の空気からまず色を奪った。廊下に並んだパイプ椅子の列が、同じ角度で斜めに置かれていて、プリントの束は白い壁みたいに積み上がる。面談室の薄いパーティションは音を通し、ため息だけが隣室へ滑っていく。掲示板の表には統計、裏には本音。数字の羅列は便利だ。便利だけど、未来に値札を貼るみたいで息苦しい。
午前の後半、犬飼タクミの番が来た。面談室の入口で一度だけ深呼吸して、彼は椅子に腰を下ろす。手の中にはクリアファイル。中身の紙は角が揃っていて、でも端っこに小さな折り目がある。人差し指で直そうとして、やめた。
「犬飼、お前の第一志望は」
教頭の鵤が、面談用のテンプレートに目を落としたまま訊く。声は平板だが、眼の奥はちゃんと見ている人の眼だ。
「映像。専門。……できれば、現場入って経験積みたい」
短い言葉。短いけれど、芯がある。タクミの口元は、言い終わった瞬間に乾き、舌が上唇を一度だけ撫でる。緊張の音がした。
「不確実だ。まずは学科のある大学を」
鵤の言葉は刃ではなく、規格だった。規格に合うか合わないかを判定するための物差し。そこに、彼の善意の限界も宿る。
タクミの肩が、落ちる。落ちる前に、俺は口を開いた。
「教頭。彼には、“もう走っている”実績がある。学校内での広報動画、編集の主担当です。本人は現場で学びたいと言ってますが、ただの勢いではありません。基礎的な構成力、納期意識、あります」
「記録は?」
「提出済みの編集ログ、持参しています」
タクミが慌ててファイルを差し出す。鵤は受け取り、数ページめくってから視線を上げた。沈黙。沈黙の底が浅い日と深い日がある。今日の沈黙は、意外に浅い。
「……学外での活動は?」
来た。俺は、そこで一つ、賭けに出る。正面から、足を置く。
「それについては、放課後、ご相談したい案件があります」
タクミの横顔がこちらを向き、わずかに目が丸くなる。鵤は「午後に」とだけ言って、その面談を打ち切った。時間は時間だ。時間を守ることも、学校の仕事だ。
続いてミオ。椅子に座ると、背中の位置を何度も直してから、顔を上げた。
「福祉に関心がある。進学して、学びたい。でも、家のことが……」
そこで言葉が薄くなる。消えそうになる前に、俺が足場を置く。
「家のことも“進路”の一部だ。無理に分けたり、切り離したりしない。プランを一緒に作ろう。進学先のサポート体制、通学距離、奨学金、家のケアの分担――表に出せるだけ出して、組み合わせを調整する。それ、全部“進路”だ」
ミオは少しだけ目を丸くして、それから、ふっと息を吐いた。胸の下のどこかが、ほどける音がした。
「……お願いします」
面談室の薄いパーティションごしに、隣の部屋の笑い声が一瞬だけ漏れてはすぐ消えた。進路は、たいてい静かな声で話すものだ。静かな声を拾うには、耳の角度を変える練習がいる。
放課後。俺はタクミを呼び出した。階段の踊り場、下駄箱の上に放っておかれたバスケットボールが、陽を浴びている。
「仕事を一本、やってみないか」
「仕事?」
「学校の外の大人に、編集をお願いされた。宣材のミニ動画。ギャラは小さい。でも“正式な仕事”」
タクミの喉仏が一度だけ上下する。
「だ、誰の?」
「身内」
言いながら、言葉の角を丸めた。身内=妻=超人気Vtuberの公式チーム、という爆弾は飲み込む。ワンクッションない爆弾は、だいたい事故る。
「条件は二つ。現場でのやりとりを全部記録すること。メール、チャット、メモ。あと、クレジットは“犬飼タクミ(学生)”で出すこと。匿名はしない」
タクミが固まったあと、ゆっくりと笑う。笑い方が、普段より慎重だ。
「先生、反則級のパス出してきた」
「お前が走ってたから、出したくなった」
「……走ります」
決めたときの顔だ。やる前の顔ではなく、やるって言った顔。これを二、三度見られたら、教師は一週間くらい頑張れる。
家に戻って、ユメに相談する。夕飯のスープから湯気が上がる。湯気は思考にいい。湯気があると、言葉が柔らかくなる。
「学生に正規案件、出して大丈夫?」
「内容が安全で、納期が現実的ならOK。指示はわたしじゃなく、運営“モブ長”から正式に出す。契約、ギャラ、納品形態、修正の回数。プロトコル通り。学校側に提出できる形に整える」
「モブ長、動いてくれる?」
ユメのスマホが震え、“はい”のスタンプが跳ねた。あの謎の“モブ長”の正体が現実側の“誰か”だという疑惑は、心の引き出しに置いたままにする。いまはただ、タクミの走路を作りたい。走っている足の前に、石ころを一個でも減らしたい。
翌日。面談室の午後枠。タクミは緊張した顔で資料を置いた。紙の端は昨夜よりさらにきれいに揃っている。表紙には「動画案件・進行案」。フォントが意外とダサい。そこも、よい。
「先生、これ、今回の案件のディレクション案。構成、尺、素材リスト、BGM候補、リスクと保険。あと、スケジュール」
「いい。構成の骨が立ってる。……教頭、これ、見てください」
鵤は眉間に皺を寄せ、資料をめくる。表の上に、彼の人差し指が置かれる。置かれた指は爪が短い。短い爪の人は、だいたい我慢強い。
「クライアントは? どの程度の露出?」
「学外の活動です。校名は出ません。労働時間と対価を記録し、反省をレポートにまとめます。健康管理は本人と家庭で。提出書式、学校の“社会連携活動”に合わせます」
俺は淡々と、しかし目を逸らさずに言う。言葉は正面で受け止める。横から入れると、余計な空気が入るから。
鵤はしばらく黙り――そして頷いた。
「条件付きで認める。学業に支障を出さぬこと。健康を損なわぬこと。成果と課題を提出すること」
タクミが小さくガッツポーズを作った。拳は胸の前で小さく。音は出さない。音を出さないガッツポーズは、強い。
仕事は、想像以上に“普通”で、そして“難しい”ことばかりだった。最初のメール。件名の付け方。名乗りの書き方。敬称。データの受け渡し。ファイル名のルール。バージョン管理。第三者チェック。書いてしまえば簡単だが、やるのは簡単ではない。簡単ではないことを、簡単だと錯覚させるのが“普通”という魔法だ。
夜、タクミからチャットが飛ぶ。
《先生、尺が足りません》
《足りないのは素材? 構成?》
《構成。BGMの尺とも合わない》
《じゃあ、間を作る。息づかい、手元、視線。音は残して、画を足す。声の手前に小さな呼吸を入れると、尺が整って、意味が濃くなる》
《やってみます》
数十分後。
《間、効きました。手元のクローズアップ、助かります。あと、最後の一文の余韻、二拍残すの、好き》
《好き、は正義》
《了解》
深夜、最終データが届く。ユメの運営経由で、返ってきたのは“採用”の一言と、短い追伸。
《採用。クレジット:Video Edit 犬飼タクミ(学生)》
タクミに通話をつなぐと、スピーカー越しでも声が震えていた。
「俺、今日、初めて“稼いだ”。お金、振り込まれる。俺の編集で」
「おめでとう」
「値札、貼れたっす。夢に」
その言葉は、思っていたより静かに胸に落ちた。静かに落ちて、胸の底で広がる。広がりながら、いくつかの自分の古い言葉を押し出す。「夢に値札は似合わない」とか、「金を絡めると、好きが汚れる」とか。押し出される言葉は、古い友達みたいに、すこし名残惜しい。それでも、今日のタクミの震えた声のほうが、今は正しい。
面談最終日。昼過ぎの静けさの中で、ミオが椅子に座り、生活ノートを出す。ノートの紙は、すでに何度もめくられた手触りがある。
「福祉、行きたい。家のことも、続ける。だから、学べる場所、探した。通える範囲、提携のある施設、見学日……まとめた」
ノートの最後に、小さな付箋が貼ってある。薄い黄色に、細い字。
《先生、“ありがとうの屋台”またやりたい》
「やろう。あれは、進路だ」
「進路?」
「“誰かのいい部分を見つけて言葉にする”って、仕事だ。お礼を見つけて、言える形にする。職種名で言えばいろいろあるけど、本質はそれだ」
ミオは長い前髪の奥で、微笑んだ。微笑んだ顔は、前髪が邪魔で少ししか見えないのに、十分だった。
夕方の廊下は、今日も細長い音がよく通る。教室からは掃除のモップの擦れる音、職員室からはプリンターの唸り、グラウンドからは笛。ふと、鵤とすれ違った。彼は足を止めないが、短くひとこと。
「犬飼、やったな」
「はい」
「“学生”のうちに、学生の仕事を、学生の名で」
「はい」
言葉が、今日は少し柔らかい。柔らかい正論は飲み込みやすい。
夜。帰宅すると、ユメが温かい紅茶を出してくれる。湯気の向こうで、配信用の画面に短いクレジットが表示されている。黒地に白文字。
Video Edit 犬飼タクミ(学生)
「きょうの配信、最後にクレジット出したよ。コメント欄、拍手だらけ」
「ありがとう」
「先生の進路指導、いいね」
「値札、って嫌いだったけど。……夢に値札がつく瞬間は、悪くない。札がついたら、雑に扱われるんじゃないかって怖かった。でも、値札って、同意の札だ。“この価値でお願いします”“承知しました”の札。約束の札」
ユメがテーブル越しに手を伸ばし、俺の指を軽く握る。握られたところから、言葉の熱が移る。
「じゃあ、先生自身の夢にも、そろそろ値札を」
「俺の?」
「“やめない”って、タダじゃ続かない。時間と体力を使う。だから、約束して。家と学校、どっちも“予算”を決めること」
「予算」
「うん。寝る時間、食べる時間、笑う時間。削らない予算。いちばん先に口座から引き落とすやつ。残ったら、じゃなくて、先にあげる」
「家計簿、つけるか」
「つけよう」
廊下から双子が転がり込む。片方は靴下を片足だけ履き、もう片方は頭にタオルを巻いている。統一感ゼロ。
「よさんってなに?」
「“たいせつなものに先に時間をあげる”ってこと」
「たいせつ?」
「きみたち」
それだけで、双子は満足そうにうなずいた。説明は短くていい。短い説明のほうが、信じやすいときがある。
食卓の皿を片づけ、ソファに腰を下ろす。ユメが配信の準備をし、俺はミキサーにプリセットを流し込む。双子は「はいしんログ」に今日の欄を作り、シールを選ぶ。今日のシールは星。星は、夜に似合う。画面の隅に流れるコメントの小川に、見慣れたアイコンが混じる。昼間の“うさぎ”の人のものに似ている。似ているだけかもしれない。でも、いい。似ているだけでも、距離は縮まる。
配信の最後、ユメがクレジットを読み上げた。
「本日の編集、犬飼タクミさん。学生さんです」
コメント欄が、どっと沸く。拍手の絵文字に混じって、短い言葉。
「はじめて稼いだお金って、ずっと覚えてるよ」
「学生のクレジット、最高」
「“学生”って名札、いちばん強い」
配信が終わる。ライトが落ち、部屋の色が元に戻る。ユメは息をひとつ吐き、俺も同じタイミングで息を吐く。吐く息の音が同じ。同じだと、安心する。
寝室に入る前、壁の時計が一瞬だけ逆回転した。何度目かの、あの奇妙な挙動。慣れた、と言えば嘘になる。驚きが小さくなったのは確かだ。
――ああ、これだ。
“やめない”を選ぶチャンスの合図。引き返す前に、一瞬だけブレーキを踏める時間。止まったように見せて、前へ進む助走。
俺は時計に向かって、指でちいさく丸を作った。双子が保育園で覚えてきた「OK」のしるし。子ども言葉で言うと、魔法の印。
「OK、続行」
寝室の灯りを落とす。暗闇の中で、今日の面談室の薄い壁が頭に浮かぶ。薄い壁は、音を通し、ため息を通す。それでも、中で交わされた小さな約束は、外に漏れない。明日、黒板に書く言葉を考える。短い言葉で、少し背筋が伸びるやつ。書き出しの一画は、上へ。短く、迷わず、すっと。
翌朝。教室に入ると、犬飼が早めに来ていた。目の下にうっすらクマ。だけど、顔色は悪くない。机に置かれたスマホの画面には、昨夜のクレジットのスクリーンショット。
「先生、うちの親父が、珍しく“いいじゃん”って」
「いいじゃん」
「“稼いだ”って言ったら、“飯食いにいくか”って」
「行け。高いとこ行け。タンがやわらかいとこ」
「そんなに?」
「夢に最初の値札がついた日だ。やわらかいタンを食う権利がある」
タクミは笑って、少しだけうつむいた。照れ隠しのうつむき。うつむいた顔に、もう昨日までの不安の角は少し見えなくなっている。
ホームルーム。黒板に新しい言葉を貼る。今週の名言。
《できることから始める。できないことは、できるように分ける》
ミオが席からそれを見て、ノートに小さく書き写す。付箋の端が少し曲がっている。曲がった端を、指で直す。指の動きが丁寧だ。丁寧な指は、だいたい人を助ける。
休み時間。職員室の端で、鵤が短く言う。
「“予算”の話、いいな」
「え?」
「昨夜、家で子どもにしてみた。寝る時間、先に取る。宿題の前に。親もいっしょに。……案外、効く」
「それはよかったです」
「“やめない”は、計画だ。根性論だけで走るな」
「はい」
鵤の言葉は、今日も正論で、今日は少しだけあたたかかった。正論があたたかい日は、珍しい。珍しいから、よく覚える。
放課後、昇降口。靴箱の上に、タクミのメモが一枚置かれていた。雑な字で、短く。
《先生、タン、やわらかかったっす》
その一文で、今日は十分だった。十分の上に、ほんの少し、余白が残る。余白は、明日のための場所だ。俺はメモをポケットに入れ、外に出る。空は高い。雲は薄い。風は向かい風でも、走れる。走りながら、もう一回だけ指で丸を作る。
OK、続行。
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