第5話 参観日と生放送、同時進行

 最悪の知らせは、たいていメモ紙サイズで届く。朝の職員室に入ってすぐ、掲示板の片隅に押しピンで留められた白い紙。端が少しめくれて、風で小刻みに震えている。そこに、簡潔すぎる文字。


 参観日:金曜16:00~


 同時に、ポケットのスマホが震えた。画面には、もっと簡潔に、もっと逃げ道を塞ぐ文字。


 《金曜16:00 大型コラボ生配信。絶対落とせないやつ》


 送信者はユメ。ハートのスタンプが一つだけ跳ねている。跳ねているけど、心臓のほうは跳ねやしない。固まる。


 「被った」


 職員室の奥から、灰色の声が飛んできた。教頭の鵤。灰色のスーツに、灰色のネクタイ。声まで灰色に聞こえるのは、俺の偏見か。


 「家庭の都合は勤務に優先しません」


 正しい。正しいけれど、正しいというだけで、どこか遠い。俺は掲示の紙をもう一度見た。達筆でも下手でもない、テンプレートのような文字。あまりに普通で、あまりに効く。


 その日の午前中は、授業の板書をしながら、頭の中でずっと段取りを組んでいた。二兎を追ったら、一兎も得ず。わかっている。でも、追えるだけ追ってみたい。追うのが仕事のときもある。教師も、夫も、父も、たぶんそういう局面がある。


 作戦。黒板の隅に小さく書いて、袖でさっと拭き取った。


 ①参観日用に、授業冒頭で“見るだけでわかる国語”を用意する。

 ②配信用には、機材を極限まで自動化し、音声ミキサーを“ワンボタン化”。

③不足分を“仲間”で補う。


 仲間? 俺にそんなもの――と言いかけて、立ち止まる。いる。情報室の鍵を開ける雨宮先生。編集の犬飼タクミ。配信の相棒であるユメ。そして双子。頼っていいと決めた瞬間に、世界の地図が一枚増える。


 昼休み、タクミを廊下で捕まえた。彼はいつもの猫背で、いつものように何かを指でいじっている。見えないコントローラーを握っているみたいに。


 「犬飼、助けて」

 「出だしから直球っすね先生。何からっすか」

 「参観日と配信、同時進行。学校の放送室で回線をつないで、音は事前にプリセット、画面切り替えは自動。最初の“開始”だけ……」

 「押すやつ?」

 「押すやつ」

 「押す女神はいます?」

 「家に二人、女神がいる」

 「強い」

 タクミの口角が上がる。上がった口角は、だいたい成功の前触れだ。


 午後、雨宮先生に放送室の鍵を借りる。雨宮先生は保健体育。笑うと豪快で、怒っても豪快で、だいたい頼もしい。


 「放送室? いいよ。二重予約とか怖いから、予定表にでっかく書いておきな」

 「ありがとうございます。参観日の俺のクラス、ちょっと手伝ってもらえますか」

 「いいよ。倒れたら保健室に引きずり込むから」

 「倒れません」

 「先生って、だいたいそう言うんだよね」


 放課後。教室に残って、黒板の前に立つ。白い粉を指に少し付け、字の大きさを試す。参観日の保護者の視線は、黒板の文字の濃さにも容赦ない。遠くの席からでも読めるように、太く、でもうるさくなく。書くのは三行だけ。簡単な言葉で、読むと変わる言葉。


 いっしょに 読むから すきになる


 板書した瞬間は子どもっぽく見える。けれど、声にしたら変わる。変わるはずだ。言葉は、人が触ると温度がつく。


 次は放送室。タクミが機材バッグを抱えてスタスタ入ってくる。面倒そうな顔で、嬉しそうだ。


 「音、どこから入れるっすか」

 「ここ。ユメのミキサーからラインで。最初にプリセット、二番に“起動”、三番に“非常用静音”」

 「非常用静音って響き、なんかカッコいいっすね」

 「やることは、黙るだけだ」

 「それ、俺得意っす」


 笑いながら、ケーブルを確認し、ボタンに色を割り振る。緑は安全。赤は発火。青は待機。色がつくと、急に世界が整理される。人間の脳は、色が好きだ。好きなものに頼るのは悪くない。配信ソフトのタイマーを設定し、自動スタートのチェックを入れて、テストの「開始」を押す。画面の左上に“LIVE”の赤い表示が灯り、数秒後、テストの背景がつつましく動き始める。音は、メーターの緑が小さく呼吸するだけ。よし。


 「先生」

 「ん」

 「もしこれ、参観日が押して、誰も押せなかったら、どうするっすか」

 「押す」

 「押すって」

 「押せる人が、押す。押せる場所で」

 タクミは少しだけ目を細め、それから頷く。

 「じゃ、念のため、一個隠しボタン仕込んどきます」


 彼が機材の背面に小さなスイッチを貼り付ける。シールの上に細い字で“わざとらない用”と書いてあった。こういう字は、世界を救う。


 帰宅。玄関を開けると、双子が凄まじいスピードで足に絡み、同時に転び、同時に笑い、同時に立ち上がる。つづくのは、同時の質問。


 「パパ、ボタン押す?」

 「押したい。けど先生だから、明日は教室」

 「じゃあ、わたしたちが押す」

 「……頼んだ」

 「やくそく」

 小さな指が二本、俺の指と絡む。指切りするには本数が足りないけれど、気持ちは十分だ。


 夜、食卓で作戦会議。ユメはエプロンを外し、パソコンをテーブルの端に置く。


 「コラボは黄金の時間に入るから、最初の五分が勝負。音が安定して、挨拶が綺麗で、場が整っていること。そこさえ押さえたら、あとは私が回す」

 「ありがとう。ミキサーはワンボタン。双子が押す」

 「双子が押す」

 「押す」

 隣で当の双子がうなずく。会議に参加している顔だ。会議室に持ち込みたい。


 「天野先生」

 ユメが急に真面目な顔をする。配信者の真剣は、静かな真剣だ。

 「二兎を追う、っていい言葉じゃないと思ってた。でも、今日は、二兎が同じ方向に走ってる。参観日も、配信も、観てるのは“ことば”でしょ」

 「うん」

 「だったら、同時進行で、いい」

 「いいの?」

 「いい。うちの運営は優秀だから」

 運営=俺。ぞくっとした。褒め言葉が一番効く部位を、ちゃんと刺してくる。


 当日。昼の鐘が鳴る少し前に、教室で最終チェック。黒板の文字を少し太くして、窓のカーテンの角度を変える。後方の保護者にも光が反射しないように。机の列を半歩ずつずらして、前に人の背中がかぶらないように。手は忙しいのに、頭は静かだ。段取りがぴったりはまるとき、人はおどろくほど落ち着く。


 「先生、それなんすか」

 タクミが機材バッグを肩にかけて入ってきた。肩紐の跡がくっきり残っている。

 「参観日用の見せ場。“見るだけでわかる国語”」

 「タイトルつけるの上手いっすね」

 「うそ。いま考えた」

 「現場強い」

 「それ、放送室に運んで。タイマー仕込んだら、雨宮先生」


 呼ぶ前に、雨宮先生が顔を出す。ジャージ姿。肩にホイッスル。


 「はいよ。倒れたら保健室に引きずり込むから」

 「だから倒れません」

 「倒れないやつほど倒れるんだよ」

 「縁起でもない」


 鵤が廊下を通る。目が少しだけ鋭い。参観日は、管理職も緊張する。大人が大人を見に来る日だ。俺は会釈で済ませ、黒板の前に立つ。深呼吸。息は入る。出る。入る。出る。練習はしていない。けど、準備はした。


 十五時五十八分。放送室。タクミが画面を確認し、雨宮先生が腕を組んで見守り、タイマーがカウントダウンを始める。家では、ユメがマイクの前で笑い、双子がベビーサークルの中でソワソワしている。耳の奥で、それぞれの場所の空気の音が重なり、薄い合奏になる。二つの世界が、同じ針で時間を刺している。


 十六時。チャイム。保護者が教室の後方にずらりと並ぶ。靴音がそろう。俺は深呼吸をひとつ足し、前を向いた。


 「今日は、国語の授業です」


 声は、思っていたより落ち着いていた。鏡の自分より、声の自分が大人だ。


 「でも、読むのは、あなたたちです」


 教室に小さなざわめき。笑う人、顔を見合わせる人。子どもたちの背筋が、ほんの少し伸びるのが見える。背筋は、言葉でも伸びる。


 「三行の詩を用意しました。子どもたちの声で、言葉は変わる。保護者の方も、どうぞ」


 黒板を指さす。チョークの白が、午後の光の中でやわらかく光る。最初は子どもから。前列から順番に、立って、一息で読む。


 「いっしょに 読むから すきになる」


 声はまだ幼く、まだ頼りない。でも、頼りなさは、ひとの耳に届く。二人目、三人目。だんだん、リレーのバトンの渡し方がうまくなる。後ろの席に行くころには、クラスの呼吸がそろう。保護者の間に、笑顔がひとつ、またひとつ増える。中にはスマホで撮る人もいるが、いい。撮ることで、残ることもある。撮る表情に、もう笑みが滲んでいる。


 「後ろの方も、お願いします」


 保護者の列がざわっと波打つ。押しつけない声で、押す。最初の母親が半歩前に出て、読み、隣の父親が照れながら続き、その隣の祖母らしき人がゆっくりと、丁寧に言葉を置く。言葉は置き方で意味が変わる。置くたびに、黒板の白が濃くなる気がした。


 十六時七分。ポケットのスマホが震えた。短い通知。


 《LIVE開始》


 双子、やってくれた。どこにいても、心臓の位置は同じだと知る。胸の真ん中が、少し熱い。


 輪読は続く。隣のクラスの参観のざわめきが廊下から漏れてくる。ここはここで、小さな島の空気。島は、島だけで世界になる。読み終わった子が椅子に座りながら、口元を押さえて笑っている。笑いを押さえようとして笑っている。押さえきれないのは、いいことだ。


 「では、今日の言葉」


 照明を少し落とし、プロジェクターをつける。ホワイトボードに一枚だけスライド。大きな字。一緒に読む。読むと、整う。


 言葉は、誰かと一緒に読むと、大切になる


 誰かの喉が鳴る音がした。前の列の女子が、そっと涙をぬぐう。彼女の母親も、同じ仕草をする。親子は、仕草が似る。似る仕草で、違う涙を拭う。


 拍手。大きくはない。でも、柔らかい音。柔らかい音は、壁で反射せずに、空に吸い込まれる。吸い込まれて、どこかの耳に小さく残る。


 質問の時間。保護者からいくつか。板書の工夫とか、家庭学習の進め方とか。俺は、なるべく短く、なるべく実用的に返す。長い正論より、短い具体。そのあいだにも、胸のポケットの中のスマホが時々震える。《安定》《コメントいい》《スパチャ走ってる》タクミからの短文。雨宮先生から《押し済》。短文は、現場の味だ。


 十六時四十五分。参観が終わる。見送りの挨拶をして、保護者と生徒が廊下へ流れていく。俺は教室の隅に一瞬だけ残り、黒板の三行に手を当てる。チョークの粉が指に付く。その指で、頬を軽く叩いた。生きてる確認。生きてる。


 廊下に出る。鵤が遠くでこちらを見た。目が少しだけ和らいでいる。数学の笠松先生が親指を立てて、すぐ引っ込める。あの人の親指は、ほとんど奇跡に近い。受け取って、走る。


 十七時。配信部屋。扉を開ける前から、音が漏れ聞こえる。ユメの声。笑って、切り返して、うなずいて、持ち上げる。俺は息を切らして入る。ユメがウィンク。


 「おかえり、先生。間に合ったよ」


 モニターにはコメントの海。色とりどりのアイコンが泡みたいに弾ける。ミキサーのメーターは安定して、緑の呼吸が健康的だ。机の端には、双子の手形のスタンプ。こいつら、押したあと記念に押したな。


 『今日のBGM、学校っぽい』

 『ユメ様、声があったかい』

 『運営、優秀』

 『今日の運営神』

 『運営に米と肉を』


 運営=俺。米と肉は、有難い。


 「きょうはね」


 ユメがふいに、少しだけいつもよりゆっくり話す。ゆっくりでも、置いていかない速度。


 「ある人が、“言葉は一緒に読むと大切になる”って教えてくれました」


 胸の中のどこかが、音のする場所を見つける。


 「だから、いま、みんなで読みます」


 画面にテロップ。黒地に白で、三行だけ。


 いっしょに

 読むから

 すきになる


 コメント欄が、一瞬で同じ言葉に染まった。個性の強い名前が、同じ文で並ぶ。大文字、小文字、句読点の有無、顔文字の癖。それぞれが違う声で、同じことを言う。


 『いっしょに 読むから すきになる』

 『いっしょに 読むから すきになる』

 『一緒に読むから好きになる』


 ベビーサークルの向こうで、双子の声が重なった。壁の向こうなのに、ちゃんと届く。


 「すきになる!」


 その瞬間、教室と配信が一本の線で結ばれた気がした。俺の黒板の粉が、画面の光になって跳ね返る。画面の光が、教室の空気に戻って温度を足す。二つの針が、同じ時刻を指す。指すだけでない。押す。前へ。


 コラボのゲストが笑い、ユメが拾い、場があたたかいまま流れていく。タクミからチャット。《運営、今日ギア三段階上がってます》《さっきの一斉読み上げ、切り抜き確定》《先生、ちょい泣いてません?》泣いてない。たぶん、泣いてない。涙腺の門番が頑張っている音がするだけだ。


 配信が中盤に入る。最初の山は越えた。俺は椅子に深く座り、ミキサーのボタンに指を置いたまま、画面の隅でユメの横顔を見た。画面の向こうに向けている横顔。何千の目に向ける顔。その角度が、ほんの少しだけ家の角度に近い。近いと、安心する。安心は、仕事の精度を上げる。


 「では、ここで今日のスーパーチャット、まとめてお礼します」


 ユメが名前をひとつずつ呼び、丁寧に礼を言う。チャット欄がもう一度明るくなる。俺はタイミングを見て、音をほんの少しだけ上げる。声が一段階近くなる。近くなりすぎないように、すぐ戻す。音の距離感は、人の距離感だ。


 終盤。コラボ相手が笑いながら「今日のテーマ、いいですね」と言い、ユメが「ね」と短く返す。短い相槌に、全部が入っている。


 配信が終わると、ライトが一つずつ落ちる。部屋の色が元の柔らかさに戻る。ユメは椅子にもたれ、俺の方へ身体を傾ける。


「二兎を追って、二兎とったね」



 「ギリギリだった」

 「ギリギリで勝つの、好きでしょ」

 「……まあ、嫌いじゃない」


 隣の部屋で双子が「すきになる」をまだ口の中で転がしている。口の中で言葉を転がせるのは、子どもの特権だ。大人も、たまにはやったほうがいい。


 風呂上がり。ユメが髪をタオルで拭きながら、ふと思い出したように言う。


 「参観日、どうだった?」

 「こっちも、泣いた人がいた」

 「誰?」

 「俺じゃない」

 「知ってる」


 ソファに二人で沈む。壁の時計を見る。秒針が、今日に限って、やけに滑らかに進む。止まりそうな“間”が、一度も来ない。来そうで来ない。滑らかに、ちゃんと進む。世界が、今日の俺たちを少しだけ褒めている。よくやった、の手前。いいぞ、その調子。そういう声の速度だ。


 「先生」

 ユメが目を閉じたまま、声だけこちらへ寄こす。

 「ことばって、だいたい誰かのものだね」

 「うん」

 「でも、いっしょに読むと、みんなのものになる」

 「そうだな」

 「今日、それがはっきりわかった」


 返事をしながら、昼間の黒板を思い出す。白い粉で汚れた指。輪読で少し照れた声。掲示のメモ紙。放送室の小さなスイッチ。ベビーサークルの中の二つの指。全部が一本の線でつながって、夜のここまで続いている。


 「明日も?」

 「明日も」

 「明日も“言葉”?」

 「たぶん“言葉”」

 「よかった」


 部屋の電気を落とす。ベッドに入り、天井の角を見て、目を閉じる。目を閉じる前の、最後の映像は、保護者席の最後列で一人だけ立って読んだ父親の顔だった。声は少し高く、言葉が少し速かったけど、最後の「すきになる」が、妙にやさしかった。


 やめないやめない。心の中で唱える。今日の二兎は、うまく走ってくれた。明日の兎は、どっちに走るだろう。どっちに走っても、追う。追いながら、誰かの手を借りる。借りながら、誰かの言葉を借りる。借りたものは、返す。返すときは、少しだけ自分の色を足して返す。


 秒針の音が遠ざかって、代わりに炊飯器の小さな呼吸が近づいてくる気がした。気がしただけかもしれない。けれど、そうだとしても、いい。明日も、米は炊ける。明日も、詩は三行でいい。三行の真ん中で、誰かの声が笑えばいい。そう思いながら、眠りに落ちた。

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