第4話 動画編集なら任せろ
朝いちばんの職員室は、目に見えない埃でできている。コピー機が腹の底でうなり、ホチキスの針がカチカチ鳴り、紙の角で指先の皮がすこしずつ削れていく。俺はA3用紙をひたすら二つに折り、さらに二つに折り、文化祭のパンフレットの原型をつくっていた。折っても折っても終わらない。紙の山は、雪崩の手前でいつまでも踏みとどまっている。
「天野先生、その束もお願いします」
「はい」
自動的に返事が出る自分が怖い。心の中では「俺、まだ高校生だぞ」と叫んでいるのに、口は完全に社会人。高校生としての俺は、教室の隅で勝手に寝袋に包まっている。
そのとき、開きっぱなしのドアから教頭の鵤が入ってきた。灰色のスーツ、灰色のネクタイ、灰色の靴。灰色の人。コピー機の前で紙を折る俺の横で、事務机の上にバインダーを置き、短く言い放つ。
「広報動画、今年は見送りますから」
見送る。便利な言い方だ。やらないことに響きがついて、ちょっとだけいいことに見える。やらない、の布を、見送る、でやさしく包んで、誰にも怒られない形でゴミ箱に捨てる。俺の背中がぞわっとした。ゼロは楽だ。でも、ゼロはさびしい。何も起きないってことは、何も残らないってことだ。
「ですが、去年は反応が良かったと」
学年主任が様子をうかがうような声を出す。鵤はぴしゃりと切った。
「昨今は不祥事の火種にもなり得ます。安全第一。紙のパンフで十分」
安全第一。たしかに正しい。でも、正しいだけって、ときどき一番つまらない。
「……先生」
背中から、ためらいと覚悟が同居した声が落ちてきた。振り向くと、犬飼タクミが立っていた。前髪で半分隠れた目、肩のラインが落ちているパーカー、胸のところで指をこまかく動かしている“注意されがち”な手。いつも机に顔を伏せて、何やってんだか不明のまま時間を溶かしているタイプだ。
「なにが」
「俺、できます」
「なにを」
「編集。パソコン、ちょっと自信あるんで。文化祭、動画、作れます」
言った瞬間、彼の目の奥で光がカチッと点った。見間違いじゃない。電気が入るときの音がした。俺はつい口をゆがめてしまう。
「授業中に切り抜き編集してたの、お前だったのか」
「すんません」
「謝るな」
言ってから、自分で笑った。謝るところじゃない。むしろ感謝したい。
「頼む。学校のための“公式コラボ”だ。俺が監督、お前が編集。主演は――」
ちょっとだけ考えて、答えはすぐ出た。
「主演は、学校だ」
言いながら、背中のぞわぞわが、うっすら熱に変わるのを感じた。ゼロに火をつけるのは怖い。けど、火の明かりはやっぱり見たい。
「教頭先生」
俺はコピー用紙の束を平らに叩いて、口を開いた。
「責任は僕が持ちます。校内撮影で、顔が出るものは事前に許可を取る。外部に出すのは最終チェック後。長さは二分以内。テーマは“朝”と“手”。危険は避けます。だから、やらせてください」
自分でも思ってなかったくらいスラスラ出た。鵤は目を細め、短く息を吐く。秒針の音が二回鳴ったあと、彼は予定外の言葉を出した。
「……校内限定で。配布は教職員判断。期限は今週末」
「ありがとうございます」
折っていた紙の山が、今だけ少し低く見えた。俺は両手をパンパン叩いて、タクミのほうを向く。
「いくぞ、犬飼」
「っす」
放課後。情報室の鍵を借りて、機材庫から古いカメラを引っ張り出す。説明書は黄ばんで、バッテリーの持ちは信用できず、ズームは元気がない。でも、目をあわせればちゃんと返事をする、素直なやつだ。タクミが机上に三脚を立て、カメラの画面をのぞく。指先は細くて速い。彼はレンズの前で小さく手を振り、ピントを合わせる。
「構図、どうします」
「まずは朝。昇降口の光、黒板消しの粉が陽に舞うやつ。靴箱の金属の冷たさ、体育館の床の木目。人の手を中心に撮ろう。掃除する手、楽器を押さえる手、白衣のボタンを留める手、プリントを配る手」
言葉にしているうちに、目が勝手に探し始める。今まで景色だったものの中に、理由が見えてくる。理由はだいたい、誰かの手だ。
「BGM、どうします」
タクミの目がモニターから一瞬だけこちらへ動く。興味が光っている。
「用意がある。著作権的に完璧なやつ」
放課後の校舎を歩く。のぼる夕日が窓から廊下に差し込んで、埃が金色の線になる。黒板を消すモップの動きに合わせて、タクミがカメラをスライドさせる。体育館の扉を少し開けると、バドミントンの羽が宙に止まる瞬間が撮れた。吹奏楽の練習室では、クラリネットの指がメトロノームより早く動く。理科室では白衣の袖がホチキスをカチンと鳴らし、保健室では絆創膏の片方が空中でひらひらする。
「学校って、こう映るんすね」
モニターの小さな画面を一緒に覗きながら、タクミが独り言みたいに言う。
「俺も知らなかった。……きれいだな」
誰かがきれいにしてくれているから、きれいに映る。撮りながら、簡単な事実に何度もぶつかる。きれいの裏には、手がある。
「先生」
タクミがカメラを抱えたまま、少し声を低くする。
「俺、これで食いたいんすよ。動画で、ちゃんと」
わざわざ見せないようにしている照れの上に、ほんとの本音が顔を出していた。俺はためらわずに言った。
「食えるよ。食うってさ、誰かの役に立つってことだろ。いま、お前の編集で“学校”が助かってる。だったら、いける」
タクミは耳の後ろをかいた。ヘッドホンの跡がついている場所だ。
「先生、そういう言い方、ズルいっす」
「知ってる。でも、言いたい」
夕暮れ。撮影を終え、タクミと別れて帰路につく。家の玄関を開ける前から、カレーの匂いがしていた。匂いだけで米がほしくなるのは、人間に対するルール違反ではないか。
「おかえり、先生」
エプロン姿のユメが顔を出す。髪を高めの位置でまとめ、頬に少しだけ粉がついている。双子はソファの背もたれの上に乗って、飛び降りるタイミングを見計らっている。危ないから、と言ったところで聞きやしない。だからこっちが先に手を用意しておく。
「ちょっと相談」
カレーを盛りながら、ユメに切り出す。
「文化祭の広報。校内限定で動画出すことになった。BGM、限定のを、学校広報で使わせてください」
ユメはわざと腕を組み、うーん、と悩むふりをして、目だけ笑う。
「条件は一つ。完成したら、わたしにも見せて」
「もちろん」
「パパ、へんしゅーってなに」
「魔法だよ」
「まほう!」
双子が同時に跳ねる。手を出して受け止めると、体重が俺の胸に心地よく落ちてくる。魔法は、落とすんじゃなくて、落ちてくるほうだ。
夜。双子が寝息に変わると、リビングの片隅で机を挟んでタクミとチャットを開く。画面の向こうでも彼はすぐわかる。打つ速度が速いのに、誤字が異様に少ない。映像のファイルが行き来するたび、机の上のペンが一回転する。
《先生、黒板消しのとこ、いい粉出てるっすね》
《表現がヘタな誤解を生むぞ》
《すんません。じゃあ“きれいな粉”で》
《もっと危ない》
笑いながら、編集の細かいところを詰める。テロップのフォントは角が丸すぎると甘くなる。トランジションは早すぎると安っぽくなる。カットの呼吸は、観ている人の瞬きと合っていると気持ちいい。言語化しづらい部分を、しつこく言語化していく。整えすぎず、荒くしすぎず。呼吸を合わせる。映像にも呼吸はある。
《先生、ここ、ちょい長いっす》
《じゃあ、息継ぎの表情で切る》
《了解。はい、神》
《神はやめろ。せいぜい地区の氏子》
ノリは軽く、目は真剣。音楽データを乗せると、映像がすっと背筋を伸ばす。ユメのオリジナルのピアノは、静かに始まって、ほんの少しだけ広がって、最後にちょっとだけ笑う。学校という生き物に似合う音だ。
午前二時を回るころ、タイムラインの上の青い棒が最後まで走り切った。保存。書き出し。プログレスバーが一歩進んでは立ち止まり、また歩く。スムーズに行かないところに、妙な愛着が湧く。青い棒が右端に触れた瞬間、タクミのメッセージが届く。
《先生》
《ん》
《これ、胸のとこ、あったかいっす》
《だろ》
《だす》
短文なのに、全部わかる。画面の向こうで誰かが息を呑む瞬間まで見える気がする。俺の胸のとこも、同じ場所が温かい。
翌日。昼休みの終わりに、職員室の古いテレビの前へ。リモコンは電池のふたがガムテープで留めてある。鵤も主任も、教科の先生も、何人かが集まった。偶然装っているけど、皆気になっているのがわかる。俺はカタカタ震える指でHDMIを差し替え、再生ボタンを押す。
静かなピアノ。校舎の外壁に朝日が当たって、窓の縁が一本線を引く。昇降口で靴を履き替える手。靴ひもを結ぶ指。黒板消しを叩くと、粉が光る。一瞬、空中に雪が降る。体育館の床の木目の上で、ボールの影が転がる。保健室で絆創膏が空気をはらむ。家庭科室の菜箸が卵をつかみ、理科室のフラスコが水滴を吐く。吹奏楽の指揮者の手首が、合図だけで音をそろえる。
最後のカットは、昇降口から見た空。音が消えて、校章が小さく浮かぶ。二分にも満たない。なのに、息を吸って吐くみたいに、場の空気が入れ替わったのがわかった。
再生が終わっても、誰もすぐには喋らなかった。テレビの表面に映る自分たちの顔が、すこし整って見えたのは、気のせいじゃない。
「いいじゃないか」
静けさを破ったのは、いつも厳しい数学の笠松先生だった。眉間のしわは深いのに、声は柔らかい。この人の柔らかいは、すごく希少だ。
「今年、広報、やろう」
鵤は口を開きかけ、閉じた。数字に換算できない“納得”が、場の空気をゆっくり押し出す。現場の空気は、理屈に勝つ。そういうときだけ、学校が好きだ。
「犬飼くん、放課後、正式に手伝ってください」
学年主任が言い、鵤が短く付け加える。
「責任者は……天野先生。監督、続けてください」
肩が勝手に伸びた。伸びるって、気持ちいい。責任の重さは、背筋の伸びと同じ方向にかかるとき、ちょうどよくなる。
放課後。教室を回って追加カットを撮る。配膳台から湯気が立ち、図書室で本の背を指がなぞり、視聴覚室で暗幕がスルッと落ちる。野球部の守備練習で土が飛ぶ瞬間にシャッターを切ると、画面の中で砂粒が星みたいに輝いた。タクミは笑わない種類の笑顔で画面を見つめ、首だけで小さく頷く。
家に帰ると、ユメがテーブルにノートパソコンを置いて待っていた。双子は布団の山に埋まり、枕だけ浮いている。俺は再生ボタンを押す。ユメは最初の音で姿勢を正し、途中で目を細め、終わりで笑って、涙をハンカチでぬぐった。
「学校って、きれいなんだね」
「きれいに見える瞬間がある、のかもしれない」
「そう見えるように、誰かが頑張ってるから、だよ」
彼女はそう言って、俺の肩にもたれた。髪が首筋をくすぐる。俺は肩に力を入れないよう気をつける。力を入れると、もたれにくい。もたれやすい肩でいたい。
「先生」
ユメが顔を上げる。配信者の顔じゃない、家の顔。
「明日の夜、これ、配信で流していい?」
「校内限定って話なんだけど」
「校内限定の“感想”なら言えるでしょ。きれいだった、って」
「それは言える」
双子が布団の洞窟から顔を出す。
「パパ、きょうのまほう、もういっかい」
「明日、もっとすごいの見せる」
「もっとすごい?」
「うん。学校の朝が始まる瞬間」
双子は「はじまり」と口にして、気に入ったのか、もう一回「はじまり」と言って、それから眠りに落ちた。はじまりは、言うだけで眠くなる。終わりは、言うだけで目が覚める。人間はそういうふうにできている気がする。
夜更け。家の時計の秒針が、いつもよりゆっくりに見える。見えるだけ。実際の速さは同じ。俺はベッドに入り、天井の角を見つめる。今日の角は、いつもより丸い。丸い角なんてないのに、丸く見えるのは、こっちのせいだ。
翌朝。校門の前で三脚を立てていると、タクミが走ってきた。
「先生、顔、やる気出てます」
「お前もな」
朝日が昇降口のガラスを抜けて、靴箱の中に道を作る。道の上を、まだ眠そうな靴音が歩いていく。カメラはその靴音を撮れないけれど、画面は知っている。靴音がある、ということを。
午前の授業を終え、昼休み。ミオが廊下で手を振った。生活ノートの表紙に、薄くシールが増えている。昨日、俺が書いた返事の下に、ひとこと。
「今日の朝、祖母が“おいしい”って言った」
プリントの山はまだ机の上で高い。でも、山の横に小分けの皿が並びはじめている。やっと食べられる形になってきた。
午後。最後の書き出しを済ませ、USBに入れ、職員室に走る。笠松先生が数学準備室から顔を出し、鵤はスケジュール表の前で腕を組み、主任は赤ペンを置いた。
「完成しました」
言い終わる前に、胸のどこかが先に鳴っていた。自分の鳴き声に驚くくらい、素直な音だった。
試写二回目。今度は生徒会の役員もいる。再生。静かなピアノ。朝の光。手、手、手。最後に空。終わった瞬間、誰かが小さく拍手した。拍手は一人から始まり、連鎖して、廊下のほうにまで届いた気がした。
「これ、当日も流そう」
生徒会長が言い、笠松先生がうなずき、鵤は「校内限定」であることを三度確認し、それでも口元に小さな笑みが浮かんだ。笑うと、この人、意外と若く見える。
「犬飼」
俺はタクミの肩を軽く叩く。
「今日から正式に“編集”だ。名札にそう書いていい」
「書いたら、生活指導に怒られるっす」
「じゃあ心の名札に」
タクミは笑って、ただ一言。
「先生、ありがとう」
家に帰ると、ユメが動画をもう一度流し、今度は泣かずに最後まで笑って観た。配信前の準備をしながら、彼女は小声で言う。
「きれいに映るって、ただ偶然じゃないんだね」
「だれかが、きれいにするからだ」
「その“だれか”に、名前がなくても」
「うん。だから撮る」
双子は今日も布団から顔を出し、「はじまり」をもう一回言った。言って、すぐに寝た。寝るための呪文としては最強だ。
静かな夜。壁の時計の秒針が、一瞬だけ止まったように見えた。止まって、また動く。その短い“間”が、まるで世界が少しだけ俺たちを褒めたみたいに感じられた。よくやった、までいかない。いいぞ、その調子、くらいのやつ。たぶん気のせい。気のせいでもいい。気のせいの背中は、じゅうぶんに温かい。
布団に入り、目を閉じる。映像のカットが、瞼の裏にもう一回流れる。靴ひも、粉、木目、菜箸、絆創膏、指揮の手、空。空の青にピアノの最後の音が溶ける。やめないやめない、と心の中で唱える。唱えた言葉が、今日の編集の最後のカットの上にふっとかぶさる。明日の朝、また録る。明日も学校は始まる。秒針は、もう止まらないふりで、ちゃんと進む。
次の日の朝。炊飯器が小さく息をし、ユメが「あと五分」と言い、双子が「はじまり」と言い、俺は玄関で靴ひもを結ぶ。外は明るい。学校までの道の上に、今日の素材がこぼれている。拾えば、映像になる。拾わなくても、生活になる。どっちも残る。どっちも主演。俺たちの主演は、今日も“学校”だ。そして、舞台袖で小さく手を振るのは、俺たちの手だ。
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