第2話 パパは新任、先生は新米
炊飯器が、台所の片隅でこつこつ息をしていた。白い湯気がふたの隙間から細く立ちのぼり、鼻の奥をやわらかくくすぐる。米の甘い香りは、腹の底をまっすぐ叩く。目が覚めた。目が覚めると、もう温かいものがある世界だという事実だけで、いったん心がほぐれるのが腹立たしい。
ユメがエプロンの紐を結び直しながら振り返る。髪は低めの位置でゆるくまとめられていて、頬は少し赤い。忙しい台所の熱の色だ。
「朝ごはん、あと五分」
この家の時間割は、いつもその一言で動き出す。リビングのテーブルの下では、双子が鉛筆を握って何かを書いている。紙は保育園でもらったプリントの裏。書いているのは、宿題ごっこ。まだ字らしい字には届かない丸と棒の群れを、二人は真剣に並べている。
「パパ、字ヘタ」
「ヘタすぎ」
顔を寄せ合って笑う。俺が寝ぼけ眼でのぞき込むと、紙に描かれた丸と棒のあいだに、やけにリアルなひげ面の顔が混ざっていた。俺だ。容赦がない。
「先生に見せたら怒られるやつだな、これは」
「先生は優しいから怒らないもん」
「優しい先生しかいないもん」
リコとラコの声はよく響く。机の下から飛び出してきて俺の足に絡みつく。朝の体温は手足の先に残っていて、触れられると笑いが出る。俺は抱き上げ、くるりと回して、床に下ろす。片方がふらついて、もう片方を支える。支えられたほうが「ありがと」と言う。支えたほうが「どういたしまして」と胸を張る。朝が、ちゃんと朝をやっている。
「ほら、手、洗って」
ユメに言われて洗面所へ。鏡の中の俺は、まだ夢から抜け切れていない顔をしていた。寝癖が素直に立っている。顔を洗って、髪を手ぐしで押さえ、歯を磨く。磨きながら、頭のどこかが思う。幸せ? いや、これ夢だから。絶対。
それでも、夢の歯磨き粉はちゃんとミントの味がして、口の中がひんやりする。ほっぺたを指でつつけば、指の腹が柔らかい。夢は手触りを持つ。ずるい。
食卓に座ると、椀に湯気の白が溜まっている。味噌汁の表面に浮いたねぎが、ゆらゆら揺れる。焼き魚の皮がきれいに割れている。卵焼きには小さな焦げ目。ユメは台所から一歩ずつものを運び、座って、手を合わせた。
「いただきます」
双子が真似をして、俺もつられて手を合わせる。箸を持つと、ラコがじっと俺の手元を見て、首を傾げた。
「パパ、箸の持ちかた、ヘタ」
「そこまで堂々と言わなくても」
「ヘタだけど、かっこいい」
「それはどうだ」
笑いながら、米を口に運ぶ。熱が舌に乗って、喉に降りる。うまい。毎朝、同じことを言ってしまうのは反則だと思うけれど、言わずにいられない。夢のくせに、うまい。夢のわりに、うまい。
「今日、先生?」
リコが卵焼きを箸で突きながら聞く。問いかけの形がまるい。
「今日も先生」
「先生ってなにするの?」
「えーと、出席取って、黒板に字を書いて、怒られて、謝って」
「最後」
「最後のは違うね」
ユメが笑う。笑うと、目尻の小さなくぼみがふくらむ。配信で見慣れた笑い方なのに、家で見るそれは少し違って見える。柔らかさが一枚多い。いったい何枚重ねているんだこの人は、とつっこみたくなるが、つっこめないのは、そこが気持ちよさの原因だからだ。
玄関で靴ひもを結んでいると、背中に軽い衝撃。双子が同時に突撃してきた。体重がちょうどいい角度でかかって、膝が笑う。
「いってらっしゃい、先生」
「帰ってきたら、宿題見てね」
「宿題って何」
「字、ヘタって書くやつ」
全然よくない宿題の内容に、ユメが遠くから笑いながら注意を飛ばす。
「それは宿題じゃないでしょ。帰ってきたら“ただいま”って言う練習にしなさい」
「ただいまの練習」
「ただいまのれんしゅう」
双子は満足げにうなずく。俺は扉を開け、振り返って、手を振った。彼女も手を振る。ごく当たり前の朝の身振りが、胸の内側を確実に温めていくのが、いつまでたっても慣れない。慣れたくない。夢なら、なおさら。
学校へ着くと、世界は途端に乾く。玄関のタイルの冷たさ、掲示物の色あせ、階段の手すりの塗装がところどころ剥げている感じ。職員室のドアを開けると、コーヒーの匂いと紙の匂いが混じって鼻に刺さる。誰かが肩を回し、誰かが咳払いをし、誰かが笑っている。笑いは、たいてい疲れの上に乗っている。
「おはようございます」
声をかけると、何人かがこちらを見る。名札を探す目。新入りに向ける目。俺は机に座り、出席簿を手に取り、呼吸を整える。
出席簿。表紙にクラス名。指で角をなぞるだけで、胃のあたりがきゅっとなる。やるべきことが、文字で書いてあるだけで怖いのは、昔から変わらない。
一年三組。扉を開けると、空気が一瞬でこちらの温度を測ってくる。視線の矢が横から縦から飛んで、頭皮の表面に刺さる。黒板の前に立つと、背中が無防備な気がして、妙に落ち着かない。
「出席を取ります」
最初の名前を呼ぶ。呼ばれた本人が何も言わない。隣の友達がニヤニヤしている。俺は二度呼ぶ。反応しない。三度目に、後ろの子が「はい」と言って手を上げる。違う。誰が誰だ。出席表の顔写真は小さくて、しかも笑っていない。
「ちょっと、返事して」
「はーい」
やけに元気よく返事するのは、名前を呼んでいない子。全体の笑いが、机の天板を伝って広がる。俺の声は、さっきより細くなる。
黒板に日付を書こうとして、手が止まる。漢字の一画目が、二画目の途中で迷子になり、三画目がくねる。気を取り直して、科目名を書いた瞬間、後ろのほうで「字、キモい」という囁き。囁きの高さが妙に耳に残る。俺は深呼吸をして、書き直す。少しだけ背筋が伸びた。
「では、教科書の」
「先生、どこ」
「何ページか言ってないよ」
突っ込みは正しい。正しい突っ込みは、ときとして刃物のように切れる。俺はページを示し、顔を上げる。顔を上げると、窓際の二人は外を見ていて、前列の子は机の下に何かを落としたふりをし、中央の一列は前を見ている。見ているけれど、見ているふりの空気が強い。言葉の端が、舌の上で固まる。
午前の山をどうにか越えて、昼。廊下の空気は冷たくて、胃にやさしい。階段の踊り場に立って、ほんの少しだけ目を閉じる。目を閉じると、朝の米の匂いがべったりよみがえってきて、笑いそうになる。そこへ、すすり泣きが割り込んできた。音に気づいた瞬間、笑いはどこかへ隠れた。
廊下の端。掲示板の陰に、黒髪の女の子が背中を丸めて座っている。制服の袖が細く見える。手の中で、折りたたまれたプリントがぐしゃぐしゃに潰れていた。握っては離し、離しては握り、角がしなしなになっている。
「どうした」
気づけば声が出ていた。声をかけるのは怖くない。むしろ、その後が怖い。
「……別に」
返ってくる声は薄いが、芯がある。涙は出ているけれど、目はしっかりしている。俺は一歩近づいて、手すりにもたれた。彼女は顔を上げない。俺は何か言わなければいけない気がして、口を開く。けど、何も出てこない。
教師って、こういうとき何をすればいいんだ。教科書には載っていない。職員室でも誰も教えてくれない。いや、教えてもらっているのに、俺が受け取り方を知らないだけかもしれない。頭の中の引き出しを片っ端から開けてみる。でも、入っているのは箸の持ち方の注意と、黒板に字を書く角度くらいだ。
「プリント、ぐしゃぐしゃだな」
ようやく出てきたのが、見たまんまの感想だった。自分でも情けなくなる。女の子は少しだけ肩をすくめる。
「風で飛んだ」
「飛ぶよな、こういうの」
「飛ぶ」
それ以上の言葉が見つからない。二人で並んで、壁のポスターの端が風でめくれるのを見る。給食の献立表。今週の献立は、きれいな字で書かれていて、味噌汁の横に小さなイラストがある。誰が描いたんだろう。こんな平和なものに、よく泣き声が混じる。
「授業、戻れるか」
「……戻れない」
「戻れないか」
俺の返事はそのまんまの積み木みたいだ。積み方が下手だと崩れる。崩れる音はしないのに、崩れているのがわかる。俺はプリントの角を指先でそっと整えた。勝手に手が動いた。彼女は少しだけこちらを見る。目が赤い。
「無理に戻らなくてもいい」
俺はやっと、少しだけ教師らしいことを言えた気がした。らしいのかどうかは、正直わからない。けど、口から出たのは本音だ。
「ここで、深呼吸しよう」
「深呼吸」
彼女は小さく繰り返した。吸って、吐いて。手の中の紙が、呼吸に合わせて膨らんだり薄くなったりする。俺も合わせる。吸って、吐いて。目を閉じる。目を閉じると、今度は夜のライトの色が浮かぶ。配信のときに使う、白い輪っかの光。
彼女の肩が、ほんの少しだけ下がった。泣き声は、静かになるときに一段落ちる。落ちたところに、空気が流れてくる。
「ミオ」
彼女が自分の名前を言った。言ってから、少し照れくさそうな顔をした。
「ミオ?」
「名字じゃなくて、名前」
「ああ、ミオ」
呼んでみる。口の中で転がる音が、少し明るい。ミオは握っていたプリントをゆっくり伸ばし、膝の上に置いた。折り目は残ったままだけど、紙はもう震えていない。
「戻る」
「うん」
「戻るけど、遅れてく」
「遅れてけ」
俺は言葉の選び方が乱暴だと自覚しつつ、笑った。彼女も、ほんの少しだけ口元を上げる。戻っていく背中を見送り、俺はその場に残る。残って、手すりに額を軽くぶつけた。痛みは、思っていたより小さかった。自分で自分に突っ込みを入れるみたいに、注意の矢印が額に刺さる。教師って、ほんと何をすればいいんだ。
放課後。空は薄い色で、校舎の影は少し長い。職員室に戻る途中、廊下に落ちていた紙風船を拾う。押すと軽くへこみ、手を離すとゆっくり戻る。どこかの誰かの遊びの残り。机の上に置いてから、帰り支度をする。
玄関のドアを開けた瞬間、風船が二つ飛んできた。リコとラコが両手を広げ、満面の笑みで走ってくる。足音が、廊下にいいリズムを作る。
「パパ、今日ね、保育園で先生ごっこした」
「先生ごっこ。えらい」
「ラコが先生で、リコが生徒」
「逆もした」
自慢げに胸を張る。ふたりの風船は、俺が拾った紙風船とは比べものにならないくらい派手だった。空色と桃色に、星と魚の絵が描かれている。空色を持っているのがリコで、桃色を持っているのがラコ。見分け方は、だんだん確信に変わりつつある。
「先生、何したの」
「出席とった」
「おやつ配った」
いつの間にそんな高度なカリキュラムを。俺は笑ってしまい、靴を脱ぎながら頭を撫でる。撫でられたほうが「えっへん」と鳴き、撫でられてないほうが「ずるい」と両手を伸ばす。結果、両方撫でる。髪がさらさらしている。保育園の帰り道の風の匂いがする。
「パパも先生」
ラコが真顔で言う。俺は曖昧に笑うしかない。曖昧に笑いながら、たしかに胸の奥が少しだけ温かくなるのを、どうしても否定できない。俺にも先生できるのかもしれない――そんな考えが、一瞬だけ頭の中に灯る。灯って、消えない。残る。
夕方、配信の準備。ユメはメイクを直し、カメラの角度をチェックし、マイクの位置を少しだけ変える。俺はミキサーのつまみをなでるように触って、余計な音が入らないように調整する。音という見えない生き物がここにいて、手のひらで背中を撫でたらおとなしくなるような感覚。うまくいくと、緑の数字が落ち着く。うまくいかないと、揺れ続ける。今日はいい子だ。俺でもわかるくらい、いい子だ。
「今日のタイトル、何にしよっかな」
ユメが椅子に座りながら言う。俺は少し考えて、口から出た言葉に自分で驚く。
「やめない夜」
「いいじゃん」
彼女は嬉しそうに笑い、キーボードに指を走らせる。画面の片隅に、文字が灯る。やめない夜。目で追っていると、背中に視線を感じた。
「見てて」
「見てる」
「ううん、ちがう。ちゃんと見てて」
言い直すときの声は、少しだけ低い。頼られている重みが、そのまま音になる。俺は姿勢を正した。ちゃんと見る。配信が始まると、世界の密度が一段階上がる。彼女の声は軽やかで、でも軽いだけではない。笑いと真面目が、うまく混ざる薄さを知っている人の声。コメントが流れ出す。挨拶、喜び、報告、相談。言葉たちは、それぞれの場所で光って、ここに集まって、また散っていく。
俺は裏でコメントを拾い、必要なものを彼女の目に入る位置に飛ばす。どのコメントが今の流れに合うか、指先が勝手に選び出す。まるでこの仕事を前からしていたみたいに。指が、勝手に。
しばらくして、画面の流れが落ち着き、スパチャの読み上げに入る。彼女はひとつずつ名前を呼び、お礼を言い、時々軽口を返す。その合間に、ひとつの文が指に引っかかった。
『ユメちゃんの旦那さん、どんな人?』
旦那さんという単語が、モニターから飛び出して、額に貼りつく。貼りついたまま、心臓まで滑り落ちる。胸の内側がざわざわする。俺は思わず手を止め、画面の右端の彼女を見た。
ユメが、ほんの一瞬だけ目線をこちらに流した。すぐに画面の向こうへ戻す。口元の形が、ほんの少しだけ変わって、それから、いつもの調子で笑う。
「秘密だよ」
チャットがわっと騒ぐ。秘密、という言葉はいつでも盛り上がる。それに合わせるように、彼女は肩をすくめ、少しだけ間を置いた。間を置くのは、武器だ。武器を抜くときの、音のない音がする。
「でもね、“やめない”って約束した人」
その一言は、モニター越しにまっすぐ飛んできて、胸に吸い込まれた。吸い込まれたところで、心臓が、ほんの少しだけ鳴った。いつもより一段だけ強い音で。机の下の足先まで響く。
俺はミキサーから指を離し、膝の上で拳を握った。拳はすぐに汗で湿った。額に手をやりたい衝動をどうにか抑え、呼吸を整える。画面の向こうで、彼女は何事もなかったように次の名前を読み上げ、笑い、相槌を打つ。いつも通りの彼女。なのに、ここはいつも通りではいられない。
やめない。約束。そんなふうに言われたら、逃げ道がふっと薄くなる。俺は逃げるのが好きだった。やめたやめた、は、いつだって便利な魔法だった。けれど、その言葉の最後の一文字をひっくり返しただけで、景色が変わることを、昨日知ってしまった。今日、もう一度、知ってしまった。
配信が終わると、部屋の空気が一枚軽くなる。ライトを消す。余韻はまだ明るい。ユメは椅子の背にもたれて、両手を伸ばした。肩の骨が軽く鳴って、彼女は満足そうにため息をつく。
「おつかれさま」
「おつかれさま」
水を手渡すと、彼女は喉を鳴らして一口飲む。喉の動きが、やけに静かに見える。静かなものは、よく見える。よく見えると、好きになる。単純な理屈だ。
「さっきの」
俺が言いかけると、彼女は笑って首を振った。
「秘密だよ、って言ったでしょ」
「秘密が二個になった」
「増えるの、好きでしょ」
好きだ。認めたくないが、好きだ。秘密は、立っていても座っていても、ほどよく人を支えてくれる。俺の中のぐらぐらしている柱に、柔らかい当て木みたいに寄り添ってくれる。
双子が眠った部屋のドアの隙間から、寝息が流れてきた。規則正しい音。規則正しいものは、安心だ。安心は、眠気を呼ぶ。眠気は、夢を連れてくる。夢は、朝を連れてくる。
「明日の朝も、米たくよ」
ユメがぽつりと言う。何でもない日常の宣言。それだけで、胸の中で灯りが増える。増えた灯りは、どれも小さいのに、集まると壁紙の柄がはっきり見えるくらいには明るい。俺は頷いた。
「じゃあ、明日は俺が皿洗い」
「いつもやってる」
「いつもよりちゃんとやる」
「それは期待」
期待、という言葉は、ふわふわしていなくて、芯がある。俺はその芯を指でつまんで、ポケットに入れた。ポケットの中には、昨日の付箋も入っている。やめないやめない。あの丸い字は、触ると少し温かい気がする。紙なのに、温度があるなんて理不尽だ。理不尽は、たいてい嬉しい側からやってくるときだけ、受け入れられる。
夜が深くなる少し前、窓を開けると、遠くのほうでチャイムの音がかすかにした。学校のやつか、どこかの家のやつか。わからない。けれど、その音がすべての境界線をゆっくり撫でていくような気がした。夢と現実の線、家と学校の線、俺と先生の線。全部が、薄い鉛筆で描かれた線に見える。消しゴムで消せるけど、消したあとにできる薄い跡は残る。跡は、悪いものじゃない。手触りがある。
布団に入る。横でユメが眠る気配。奥の部屋では双子がときどき寝返りを打つ。天井を見て、息を吸い、吐く。吸って、吐く。そのあいだに、昼の踊り場で一緒に深呼吸した女の子の顔がふっと浮かぶ。ミオ。あの子の手の中の紙は、もう少ししわが伸びただろうか。明日、名前を呼んだら、返事をしてくれるだろうか。しなくても、しなくてもいい。遅れてくれてもいい。遅れたら、遅れただけ一緒に歩けばいい。
俺は目を閉じた。薄い眠気がゆっくりと額から降りてくる。降りてきた眠気が、胸の真ん中で丸くなる。やめないやめない、と心の中で小さく唱える。唱えた言葉が、丸い眠気のまわりに糸を張る。糸は細いけれど、よく伸びる。伸びた先で、朝の湯気に結ばれる。
どこかで、炊飯器がまた息をする音がした気がした。気がしただけかもしれない。けれど、そうだとしても、いい。明日の朝、ふたの隙間からまた白い湯気が立ちのぼるのを、俺は知っている。扉を開ければ双子が走ってきて、ユメが「あと五分」と言って、俺は手を洗い、箸を持ち、笑われ、笑い返す。
その全部が夢だとしても、夢が続くのなら、もう少しこの役をやってみてもいい。新任のパパ、新米の先生。肩書きが二つあって、どちらも俺の肩にはやや大きい。でも、大きい服は、いつかちょうどよくなる。今は袖を少しまくって、転ばないように歩けばいい。転んだら、誰かが手を伸ばしてくれるだろうし、誰かが笑うだろう。その笑いに混ざって、俺も笑う。それでいい。
目を閉じる前の最後の景色は、机の上に置かれた紙風船だった。昼の廊下で拾って、つい持ち帰ってしまったやつ。指で押すとへこみ、離すと戻る。へこみのあとが、少しだけ残る。残るけれど、形は戻る。戻るけれど、ほんの少しだけ前より強くなる。そんな気がした。そんな気がするだけで、十分だった。
そして、眠りの底へ落ちる瞬間、胸のどこかで、今日いちばん小さな音がした。心臓のふちが、軽く鳴った。約束の音だった。やめない、という約束の、ほんの小さな確認音。誰にも聞こえないし、誰にも見えないけれど、たしかにそこにあった。
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