第4話

◆◆◆第4章 疑念――玲奈の視点


渋谷の雑居ビル、地下駐車場。


私――霧坂玲奈は、助手席で荒い息をついていた。


隣の運転席には、熊五郎。


彼は黙ったまま、ハンドルを握りしめている。


逃走して、2時間。


今は、私が用意した公安の隠れ家に向かっている。


「……大丈夫?」


私が声をかけると、熊五郎は小さく頷いた。


「ああ」


でも、その声には力がなかった。


当然だ。


3年間信じていた相棒に、裏切られたのだから。


私は、彼の横顔を見た。


大きな体。

鋭い爪。

だが、その目には――深い悲しみがあった。


(この熊は、本当に無実なのか?)


いや、何を考えているの、私は。


熊五郎は無実だ。


相沢昂一の陰謀で、犯人に仕立て上げられただけ。


証拠だって、USBに全部入っている。


なのに――


心の奥で、小さな疑念が渦巻いていた。


-----


隠れ家に到着したのは、午後8時。


古いアパートの一室。


私が公安の極秘活動用に借りている場所だ。


「ここなら、しばらく安全よ」


熊五郎は部屋に入ると、ソファに座り込んだ。


疲れ切った様子。


私は冷蔵庫から水を取り出して、彼に渡した。


「ありがとう」


彼は一気に飲み干した。


私は、キッチンでコーヒーを淹れながら、考えていた。


雛森の裏切り。


あれは、予想外だった。


彼女が神宮寺の手先だったなんて。


でも――


(本当に、予想外だったのか?)


私は、自分の記憶を辿った。


-----

5日前。


私が最初に熊五郎に接触する前。


公安のデータベースで、彼の情報を調べていた。


熊五郎。32歳。熊族。

身長210cm。体重180kg。

警察学校を首席で卒業。

麻布署で3年間勤務。逮捕率98%。


完璧な経歴。


でも――


その時、あるデータに目が留まった。


『熊五郎、月に一度、麻布メンタルクリニックに通院』


通院?


なぜ?


私は、そのクリニックの院長に接触した。


もちろん、患者情報は守秘義務がある。


でも、公安のIDを見せれば――話は別だ。


院長は、小さく言った。


『熊五郎さんは……時々、記憶の欠落があるんです』


「記憶の欠落?」


『ええ。数時間、自分が何をしていたか思い出せない。

それで、不安になって通院されているんです』


私は息を呑んだ。


『ただ、検査では異常は見つかっていません。

ストレスによる一時的なものだろうと……』

-----


その記憶が、今、私の頭に蘇った。


(記憶の欠落……?)


コーヒーを淹れる手が、震えた。


もし――

もし、熊五郎が無意識のうちに犯行を行っていたとしたら?


いや、そんなはずない。


でも――

私は、もう一つの記憶を思い出した。


-----

3日前。


私は、最初の殺人現場を独自に調査していた。


六本木ヒルズ。


IT投資家が殺された場所。


現場には、熊の爪痕。


だが――

鑑識のレポートを読んで、違和感を覚えた。


『爪痕は、通常の熊の攻撃パターンと異なる。

まるで、訓練された技術のような正確さ』


訓練された技術?


通常、熊が本能で攻撃する時は、もっと乱雑になる。


でも、この爪痕は――


警察の格闘術で教える”急所への一撃”と同じ角度だった。


そして、熊五郎は――


警察学校で、格闘術を首席で卒業している。


-----


私は、コーヒーカップを持って、リビングに戻った。


熊五郎は、ソファで目を閉じていた。


「熊五郎」


「……ん?」


彼が目を開ける。


私は、カップを差し出した。


「コーヒー」


「ありがとう」


彼は受け取って、一口飲んだ。


私は、隣に座った。


「……ねえ、熊五郎」


「何だ?」


「あなた、最近……記憶が飛ぶことってない?」


熊五郎の手が、止まった。


「……なんで、それを」


「答えて」


彼は、しばらく黙っていた。


そして――


「……ある」


私の心臓が、跳ねた。


「どのくらいの頻度?」


「月に……一回くらい」


「最後にそれが起きたのは?」


熊五郎は、俯いた。


「……1週間前だ」


私は、息を呑んだ。


1週間前。


それは――


2件目の殺人が起きた日だった。


熊五郎が続ける。


「夜のパトロールをしていたんだ。

気づいたら……3時間経っていた。

何をしていたか、思い出せない」


私の手が、震えた。


「それ……誰かに話した?」


「いや……雛森にも言ってない。

不安だったが……でも、何も問題なかったから」


問題なかった?


いや、違う。


その間に、殺人が起きていた。


私は、冷静さを保とうとした。

(落ち着いて、玲奈)


でも――


全ての辻褄が合ってしまう。


もし、熊五郎が操られていたら?


薬物?

催眠?


それとも――


何か、もっと恐ろしい方法で?


私は、静かに立ち上がった。


「……ちょっと、トイレ」


「ああ」


私はバスルームに入り、ドアをロックした。


鏡の中の自分を見る。


顔色が悪い。

(冷静になって)


私は、スマホを取り出した。


公安のデータベースにアクセス。


検索ワード:『記憶操作』『薬物』『無意識行動』


数秒で、結果が表示された。


-----

極秘プロジェクト:SLEEP WALKER


概要:特殊な薬物を使い、対象者を無意識下でコントロールする技術。


開発者:警察庁科学研究所。

責任者:神宮寺武彦。

-----


私の血が、凍った。

神宮寺。


KUMAIZON計画の黒幕。


彼が――

こんな技術を開発していた?


さらに読み進める。


-----

使用方法:対象者に定期的に薬物を投与。

投与後、特定の音声信号で”起動”させることが可能。

対象者は、命令を実行した後、記憶を失う。

-----


(まさか……)


私は、さらに検索した。


『麻布メンタルクリニック』


検索結果――

『院長:神宮寺の元部下。警察病院から出向』


全身に、鳥肌が立った。

(……嘘でしょ)


全部、繋がった。


熊五郎は、クリニックで――

定期的に薬物を投与されていた。


そして、神宮寺の命令で――

無意識のうちに、殺人を実行していた。


つまり――

熊五郎は、本当に犯人だった。


ただし――

本人は、何も知らない。


私は、バスルームの壁に背中を預けた。


息が苦しい。


(どうする……?)


リビングには、熊五郎がいる。


彼は、自分が犯人だとは思っていない。


でも、真実は――


彼の手が、4人を殺した。


私は、銃のホルスターに手をかけた。


(……ここで、撃つべきか?)


いや。


彼は、操られていただけだ。


悪いのは――神宮寺だ。


でも――


もし、また”起動”されたら?

もし、私が次のターゲットだったら?


私は、深呼吸をした。

(落ち着いて。まず、確認しないと)


私はバスルームを出た。


リビングに戻ると――

熊五郎が、立ち上がっていた。


その目は――

何かが、変わっていた。


「……熊五郎?」


彼は、ゆっくりと私を見た。


その瞳には――

何の感情もなかった。


まるで、人形のような目。

私の背筋が、凍る。


「あなた……」


熊五郎が、一歩踏み出す。

私は、反射的に銃を抜いた。


「動かないで!」


でも、熊五郎は止まらない。

さらに一歩。


「熊五郎! 正気に戻って!」


彼の手が――

ゆっくりと、爪を広げる。


鋭い爪。


それは、これまで4人を殺してきた凶器。

私は、引き金に指をかけた。


(撃つしかないの……?)


でも――


その時、熊五郎が――

倒れた。


膝から崩れ落ちるように。


「……っ、玲奈……」


彼の声は、苦しそうだった。


「今……何か……変なことしなかったか……?」


私は、銃を下ろした。


「……いえ、何も」


嘘をついた。

熊五郎は、床に座り込んだまま、頭を抱えた。


「クソ……また、意識が飛びかけた……」


私は、静かに彼に近づいた。


「熊五郎。あなた――本当に、何も覚えてないの?」

「……ああ」


彼は、顔を上げた。


その目には、また感情が戻っていた。


「俺、どうかしてるのか……?」


私は、答えられなかった。

(この熊は――被害者なの? それとも加害者なの?)


どちらでもある。


そして――

どちらでもない。


私は、決めた。


(まず、真実を確かめる。そして――神宮寺を倒す)


そのためには――


熊五郎を、利用するしかない。


たとえ、彼が本当の犯人だったとしても。

「……大丈夫よ、熊五郎」


私は、優しく言った。


「あなたは、操られているだけ。

一緒に、真犯人を倒しましょう」


熊五郎は、私を見た。


「……ありがとう、玲奈」


彼は、私を信じている。


でも――


私は、もう彼を完全には信じられなかった。

窓の外で、サイレンが鳴り響いていた。

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