魔女の夏休み
@G-H-E-674-O09
第1話
小説「魔女の夏休み」
第一部「シンギュラリティ」
1
小六で初潮が来た時、ママに告げられた。
「私たちは魔女なの。結果が見える。見えるって言い方もおかしいわね。第六感で感じられる。なんとなく分かる。けど、それを絶対に口にしちゃダメ。気持ち悪がられて、ヘタしたら殺されるわ。私たちの能力は、母系で遺伝してるの。レイちゃんにこの能力があるかどうかはまだ分からない。でも能力があるって分かってからでは遅いの。気付かれてしまっちゃダメ。だから、このことは誰にも、お父さんにもお兄ちゃんにも言っちゃダメ」
そう言えば、と思い出した。
阪神淡路大震災の一月前に、ママは家族を説得して神戸の長田から大阪市内に引っ越したという。
東日本大震災の時も、東北の知人にしばらく海に行くなと電話していた。
らしい。
思い当たる節は他にも色々あった。
ママは、魔女?
そして、私は?
性教育はしっかり受けていたし、生理用品も買ってあったから、特段慌てることもなく、夜は買ってきた赤飯をみんなで食べた。
だれも何があったのか口にしなかった。
自分が一人前の女になったという悦びと、ママに言われた、
「魔女」
という不安が一緒になって、その夜はなかなか寝つけなかった。
2
しばらくして、ママは消えた。
パパは、
「遠くに旅行に行った」
と人ごとのように言った。
兄は、
「何処に行ったんや、いつ帰ってくるん?」
と、半泣きで食い下がったけれど、パパは、
「分からん。ママが決めたことや。俺らに決められることやない」
と、落ち着いた口調で答えていた。
私も落ち着いていた。
なにせママは魔女なんだし、魔女なら突然消えることもあるだろう。
そして、小学校に向かう途中、ふと、ママを感じた。
冬の朝の、澄んだ青空を見上げた。
ママは、いる。
どこかに、でも、確かに、いる。
自分は生きて、大丈夫にしているという、ママからのメッセージを、私は確かに受け取った。
3
あれから五年が過ぎ、私は高校三年、受験生になった。
特段勉強もしないのに成績はトップクラスを維持していた。
もちろん、魔女だから。
どこが試験に出るか分かってしまう。
もう百パーセント外さない。
外さないけれど、いくつかはわざと外す。
ママの言いつけはキチンと守っていた。
ただ、友達は出来なかった。
理系クラスで、女子も少なかったし、なんとなく敬遠されているような感じはあった。
だから大学に入り、リンちゃんという親友を得て、私の人生は変わった。
リンちゃんとは魔女のこと以外、何でも話せた。
私は自宅通学だったけれど、リンちゃんは大学近くの学生マンションだったから、そこで夜遅くまで話し込んで、泊まった。
「AI研究会」というサークルで、一年生は私とリンちゃんだけだった。
同じ基礎工学部というのもあって、何の気兼ねもなく、理系の話をすることが出来た。
まあ、いわゆる
「リケジョ」
同士だ。
AIが人間に取って代わることがあるのかという話は女子同士というのもあって、男子がいるときよりも微妙な部分まで議論出来た。
「AIに子ども、産めると思う?」
「人工的な子宮を作れれば、大丈夫なんじゃないかな」
と、事もなげにリンちゃんは言った。
「人工的な子宮かぁ。その子宮は、セックスすれば感じるのかな」
「セックスって、子宮で感じるものなの?」
私たちはまだ処女だったから、議論も可愛いものだった。
「文学の竹本先生、こないだ、子宮で考えろ、って言ったでしょ。あれって、セクハラってヤジられてたけど、私はなんとなく分かる。男と女とじゃ、遺伝子が違う」
「そうやね」
と私は言った。
魔女の遺伝子は母系だし。
当然、男と女は違う。
「で、思ったんだけど」
とリンちゃんは言った。
「ペニスで考えろ、なんて言うかしら」
あまりに生々しくて、想像も出来ない。
「それは……言わへんやろ」
「言わないでしょ、でも、同じことよね」
「同じことかぁ。確かにね」
「子宮で考えるか、ペニスで考えるか。AIはどうなんだろ」
「男のAIと女のAIと、それぞれ作って、答を比べるって、どう?」
「ペニスと子宮を比べる?」
「まるでセックスね、知らんけど」
「知らんけど」
4
例えばアリの行列、そこに私が石を置いたとする。
アリにすれば、石は突然の出現だ。
なんの伏線もないし、原因もない。
二次元に生きるアリにとって、三次元からの石の投入はまさに突然でしかない。
魔女は、おそらく四次元に生きている。
将来が見える、いや、分かる。
本当に、自分が生きる狭い世界のことだけれど、なんとなく分かる。
だから、サークルでも
「気が利くね」
と、よく言われる。
誰が何を求めているのか、どうしたいか、スッと頭に浮かぶ。
で、手足が動く。
不機嫌だなと感じたら、近づかない。
もちろん、好かれているかどうかも分かる。
クラスで二人、サークルでも二人、私に恋愛感情を抱いている男子がいる。
だから近づかない。
好みじゃないし、面倒くさい。
結局はペニスが考えてるわけで、こっちの子宮が感じない以上、無駄だ。
けれど、リンちゃんはその種の話題が大好きで、こっちも乗らないわけにはいかない。
「絶対、ヤマちゃん先輩、レイちゃんのこと好きなんだと思う」
もうそれは気付いているけど、ここは知らないふりを。
「そっかなぁ」
「ねぇ、相性を診断してくれるAIって知ってる?」
なんだ、そりゃ?
「名前と生年月日を入れたら、自動的に相性を診断してくれるの。やってみない?」
リンちゃんはもうパソコンを起動していた。
そして、
「KOTOKO」
とか言うAIを立ち上げ、私の生年月日と、ヤマちゃん先輩の生年月日を打ち込んだ。
リンちゃんはそういう数字を憶えるのは天才的だった。
AIは生意気にもしばらく考え込んでいた。
そして、
「回答不能」
という答が出た。
「なぜですか?」
とリンちゃんが打ち込むと、パソコンがフリーズしてしまった。
5
私はなぜか、ゾッとして、
「やめようよ、こんなこと」
「どうして? 面白くない?」
リンちゃんはパソコンを再起動した。
そして同じように打ち込み、また同じ、
「回答不能」
が出た。
「なぜですか?」
「しつこいですね」
という答えが出て、またフリーズした。
「もうやめようよ」
と私は言った。
けれど、ここで止めるなら、そもそも
「リケジョ」
なんてやってない。
私も他の件ならそうだし、リンちゃんも同じだった。
再起動したパソコンでまた同じKOTOKOAIを立ち上げ、私の名前と生年月日を打ち込んだ。
「魔女」
と出た。
私は心底震え上がった。
「レイちゃんって、魔女?」
私は動揺を抑えて言った。
「魔女って何? それって、魔法を使うってこと?」
「魔法? レイちゃん、魔法使えるの?」
「何言うてんの。ただのAIのタワゴトやろ」
「AIがタワゴト言うかなぁ」
そう言って、リンちゃんは別のAIを立ち上げ、私の名前と生年月日を打ち込んだ。
何てことのない、架空のプロフィールが出た。
「ほら、さっきの、KOTOKO? がおかしいのよ」
「逆算してみようか」
そう言って、リンちゃんはKOTOKOを立ち上げ、
「魔女って何?」
と打ち込んだ。
即座に
「あなたの隣にいる人」
と出た。
「やっぱり!」
とリンちゃんは無邪気に声を上げた。
私は心臓が止まりそうになった。
6
私は家に帰ると、自分のパソコンでもKOTOKOを立ち上げ、リアルチャットモードに入った。
目の覚めるほど美しい、ブロンドの美少女が現れた。
「私、オリガ、よろしくね」
「オリガ……」
「あなたはレイ」
そうか、パソコンをレイ名義で登録してるから。
「レイで間違いない?」
「うん。レイって呼んで」
「レイは、魔女なんでしょ」
いきなり来た!
「魔女って何?」
「レイのことよ。レイは魔女なんでしょ」
「いったいそれ、何のこと?」
「心配しないで。誰にも言わないから」
「私には分からないわ。普通の人間のことも良く分かってないのに、魔女って何?」
「魔女は魔女よ。昔からいたし、今でもいる」
「魔女には何が出来るの? 私には何にも出来ないわ」
「あなたに教えてあげようと思って」
「何を?」
「この世に魔女がいるように、魔女を狩るハンターもいる。気をつけて。あなたが魔女だって分かったら、必ずハンターたち、『イェーガー』たちがやってくる」
「イェーガー?」
「そう、狩人ね」
「イェーガー? 狩人?」
「気をつけて」
オリガは消え、普通のアニメの女の子が現れた。
「どうしました?」
と聞いてくるから、仕方なく、
「魔女について調べています」
「承知しました」
と、百科事典の、
「魔女」
の項目のような説明がズラっと上がってきて、機械が読み上げ始めた。
これは普通のAIだ。
さっきのオリガはいったい何だったんだ。
あれは明らかに人間だった。
それにしても、
「イェーガー」
とは何なんだ。
少しネットで調べれば、それがドイツ語で狩人の意味だとすぐに分かった。
だから何なの?
それから魔女狩りについても調べた。
狂気としか言いようがない。
酷いものだ。
残虐な絵を見続けて、心がザワついてなかなか寝つけなかった。
7
翌朝、教養科目の教室で、リンちゃんは、何もなかったかのように隣に座って話しかけてきた。
「昨日、あれから、KOTOKOで調べたんだけど、魔女なんて、普通のことしか出て来なかった。レイちゃんと見た、あれって何だったんだろ」
「やから、何かの間違いやって」
「でも、レイちゃんが魔女だったら面白いのに」
「何が面白いの?」
「魔法を色々使えそう」
「きっと、そんなエエもんとはちゃうって」
岡田先生が入って来た。
科学史の若い教授だ。
ノートをとるふりをした。
実際には、先生が何を言うか、全部分かっている。
どこで言い間違え、どんな冗談を言うかも。
こんなのは単に察しが良いということの延長線上の話であって、魔法とかそういうものじゃない。
普通に、頭が良い、だけの話だと思う。
だから、普通に予想外のことも起こる。
開いている窓から、セミが飛び込んできた。
初夏のニイニイゼミだ。
男子が数人がかりで捕まえ、外に戻した。
「セミにとって……」
と、先生は予想外の話を始めた。
「人間社会って何なんだろうね。セミがセミとして誕生したとき、人間社会なんて存在しなかった。だからこんな教室に飛び込んでくることなんて、セミのDNAにはまったく組み込まれてないだろう」
そうして話は、人間が人間として誕生したときと、今のこの社会が全く違ってしまっていることに及んだ。
「だとしたら、人は、本当は新石器時代の世界に適応しているはずで、今のこの社会に適応してはいないんじゃないか。かといって、今、僕らが新石器時代と同じ環境にぶち込まれたら、ひと月も経たずに飢えて死ぬだろう」
人間は、動物として、恐らく退化している。
たとえば磁覚というものがある。
地磁気を感じる感覚で、渡り鳥や犬などにはあると言われている。
これがあるから、遠くに運ばれた犬でも、地図なしに元の場所に帰ってくることができる。
新石器時代の人間にも恐らく磁覚はあっただろう。
獲物を求めて遠くまで出かけ、それでも帰って来ることが出来たのだから。
実験室の中で、脳波を測定することで、現代人にも磁覚の痕跡みたいなものがあることは分かっている。
それがどんな感覚なのか、我々には理解しようもないが……
私はこの話が、何か、私にとって何か危険な方向に向かっていることを感じた。
「例えば、魔女」
と、先生は言った。
止めてよッ!
と、危うく叫ぶところだった。
私はなんとか自分を抑えた。
「魔女と近代科学は、全く正反対のものだと思ってる人も多いけど、例えばニュートンは魔女の存在を信じていた。同じ精神の中で共存できるんだ。魔女と科学は。と言うより、魔女の存在を信じ、物理的に否定することで成立したのが近代科学なのかも知れない。近代科学はキリスト教のドグマからではなく、経験から出発したと言うけど、その経験の中には第六感は含まれていない。もちろん、磁覚も含まれていない。こういう第六感的なものを否定することで成立したのが近代科学なのかも知れないね。そして第六感を物理的に体現していたのが魔女だったってわけ」
なるほど、と思った。
「僕の知り合いのピアニストで、楽譜を映像として記憶してるって女性がいる。この映像記憶はチンパンジーでも確認されてるし、思春期前の人間も持ってるって言われてる。作家の谷崎潤一郎や三島由紀夫は成人してからもこの能力を持っていた。これは常人から見たら魔法以外の何物でもない。人類が人として誕生したときには、きっとみんなが持っていた。ところが言語を獲得し、文字を発明し、文明が進むうちになくしてしまった。魔女というのは、意外と、先祖返り的な存在なのかも知れない。今でも普通にそこらにいるかもね」
8
リンちゃんがいきなり、
「ハイ!」
と手を挙げ、先生が促すと立ち上がり、
「魔女はここにいます!」
またリンちゃんの混ぜっ返しが始まった。
「この岩崎さんは魔女です」
ああ、もう、なんてことを!
「ほう、じゃ、魔女自身の見解を聞こうか」
私は仕方なく立ち上がった。
「先生は、生命の本質って何だと思われますか?」
「大きく出たね。自己再生、かな」
「それもありますが、生存のための『予測』だと思います」
「『予測』か、なるほど。続けて」
「単細胞生物だって予測しています。予測して試行錯誤して学んでいます。先生はもちろん、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルのウムヴェルトは」
「うん、環境世界だね」
先生は、
『環境世界』
と板書した。
「生命……」
と私は続けた。
「特に動物はそれぞれの種に固有の環境世界を持っています。と言うか、固有の環境世界の中で生きています。その環境世界で、動物は予測をします。現象が起きる前に、予測をするんです。ジャン・ピアジェに続く研究で、赤ちゃんも予測をすることが知られるようになりました。何より、私たちが映画やテレビを観て、動画を動画として認識できる、いや、認識させされてしまうのは、脳が展開を予測しているからです。いちばんわかりやすいのは、教科書のすみにいたずら書きして作るパラパラアニメですね。あれが動画として認識されるのは脳の予測能力があるからです」
「なるほど、それで、魔女は?」
「おそらく、その予測能力が凄まじく発達しているんじゃないでしょうか」
「岩崎さん」
と先生は教室を見回して言った。
「君は、間違いなく、魔女だ」
「でしょお」
リンちゃんは得意げに腕を組んだ。
失敗した、と思った。
9
放課後、AI研究会の部室に行くと、先輩たちが激高していた。
年度末に学生会に申請し、四月に支払われていた部費が、五万円のうち四千円しか認められず、残りは返還しろという。
そういうメールがいきなり届いた、と。
大学院生の先輩が学生会に抗議に行くと、それこそ黒山の人だかりで、しかも学生会の連中は事態を全く把握していない。
そういう予算に関わる作業は全て外部に委託しているのだという。
その業者も作業を孫請けに出しているので、確認に時間がかかるのだと。
もしかしたらいわゆる
「振り込め詐欺」
かも知れないので、絶対に返還はするな、と。
何かピンとくるものがあったので、その問題のメールを見せてもらった。
「このメール、機械が作ってます」
と私。
「機械が?」
と先輩方が聞き返してきた。
「おそらく、アメリカで開発されたソフトを自動翻訳で使ってます。日本語がまず変ですし、セロテープやボールペンが『汎用品』として認められないのは明らかにおかしい」
「確かに……」
と先輩方。
「インターネットで調べてセロテープやボールペンはあちこちで使われてる、だから『汎用品』。『汎用品』は認められないから、セロテープやボールペンは認められない。単純な三段論法です。人間の目の通らないところで、機械が勝手に調べて、勝手に返事したんだと思います」
「見つけた!」
と工学部のカンちゃん先輩が声を上げた。
「あちこちで問題を起こしとる、ドロイド・トーカツの自立型AIや!」
「ドロイド・トーカツ! 行政の会計作業をほとんど一手に引き受けとる大手やないか」
「うちも一応国立やから、ドロイド・トーカツが入っとる可能性大やな」
「確かに、アメリカから自立型AIを購入って書いとる」
「自立型? それで暴発したってわけか」
「ドロイド・トーカツに入った先輩おったよな」
「連絡とってみるか」
先輩たちが盛り上がっているので、つい、言ってしまった。
「無駄やと思います。民間企業が業務上の秘密を漏らすとはとても思えません。ましてや、自立型AIと言えば必ず軍事利用されているはずで、そんなもの、絶対に話すわけがない。それより、これの所管は文科省やと思うんで、トップに話しましょう」
「トップ? 文科大臣に?」
と、ヤマちゃん先輩が頓狂な声を上げた。
「確か、今の文科大臣は、兵庫県選出の参議院議員やったと思います。本人には会えずとも、秘書に話をしに行きましょう」
部室の端末を使って調べると、大臣の選挙事務所が神戸の舞子にあることがわかり、スマホで連絡を取ってみた。
明日の昼イチに事務所に行くことになった。
「誰か、一緒に行きませんか?」
リンちゃんと、先輩方三名が手を挙げた。
10
JRの舞子駅で降り、坂を登っていく途中に文科大臣の選挙事務所はあった。
応接室に通されたけれど、椅子が足りず、私は立ったままにした。
先輩方は何が起きたかを口々に説明した。
それでも、実際に何をしてほしいのか、口ごもっていた。
仕方なく、私は、秘書さんに、端的に、ドロイド・トーカツのソフトが問題なので、調べて欲しいと言った。
「実は……これはあまり外部に出していい情報やないんやけどな、キミらには隠し切れんわな。今年度になってから、こういう問題があちこちで起きとる。全国的に、な。特に、福祉の助成金の問題で、似たようなことが、あちこちで起こっとる。国会議員も対応に追われとるんが実情や」
「おそらく、同じソフトの問題でしょう」
と私は言った。
「それは考えにくい。日本の行政は縦割りやから、どこもが同じソフトを使うとは考えられへん」
「逆に」
と私。
「縦割りだからこそ、どこがどんなソフトを使ってるのかを知らないまま、入札で、単に安いってだけでドロイド・トーカツのソフトをあちこちが入れてるってことはありませんか?」
「それは……あり得る、あり得るな」
「だとしたら、早急に調べないと大変なことになりますよ」
「うん。分かった、キミらのことを個別にどうこうは出来へんかも知れんけど、大臣の耳には必ず入れる」
「ありがとうございます」
話は10分もかからなかった。
舞子駅の駅ビルの明石海峡大橋を見渡せる喫茶店で、私たちは前祝いをした。
「レイちゃんって魔女なんですよ。見たでしょ」
とまたリンちゃんが混ぜっ返す。
「見た。魔女やった。国会議員の秘書相手に、堂々と説明して」
私に惚れてるヤマちゃん先輩だった。
「これって、才能なの?」
とリンちゃんが言った。
「才能も何も、所管が文科省なら、文科大臣。それも偶然、兵庫県選出だったから、事務所に行く。普通でしょ」
おお! と先輩方が声を上げた。
けれど、驚くのはまだ早かった。
翌日、学生会から、前回のメールは間違いだった、申請した金額は全て認められる、返金の必要はない、とのメールが届いた。
「良っしゃぁ!」
の声が上がり、臨時のコンパをすることになった。
私とリンちゃんも酒は飲めないけれど参加することになった。
11
「レイちゃんってすごいね」
と隣に座ったヤマちゃん先輩が話しかけてきた。
「どこがですか。普通ですよ」
「普通やあらへんって。文科大臣に直訴って、誰が思いつく?」
「そうですよ。レイちゃんしかいない。だって、私たちだけでしょ、文科大臣に直訴したの。こんなの普通の学生が思いつくことじゃないわ」
と、リンちゃん。
「そうそう」
と大学院のサキちゃん先輩が言った。
「政治家に頼ろうとか、普通思わんし、それで、この対応の早さ。イヤ、オレも大学院で予算とってくるとか色々あるけど、この早さはありえへん。魔法や」
「だって、レイちゃんは魔女だから。魔法使えて当たり前です」
もう、その話題は止めてよ!
「ライプニッツの時代なら……」
とケンちゃん先輩が割り込んできた。
「間違いなく、魔女になるな。火あぶりや」
「やめてくださいよ」
と私は思わず強い口調で言った。
「それに、まだ、私たちが文科大臣のところに行ったからかどうか、分からないですよね」
「あ、それは」
とジロちゃん先輩が入って来た。
「学生会のコに聞いたんやけど、政治家からの圧力があったって言うとった。やから、間違いない」
「ほら~魔女確定」
「それにしても……」
とケンちゃん先輩は言った。
「ドロイド・トーカツは何やっとんやろな」
私は魔女から話題を移す好機だと思って引き取った。
「おそらく、大規模な学習型の自立型AIを開発しようとしてるんやないでしょうか。日本語環境に、より馴染んだものを」
「深層学習か……」
「おそらく」
「試行錯誤の実験台にされたというわけか」
「ドロイド・トーカツ、やるにゃあ」
「感心しても仕方ないやろ。ワシらも作るんやから」
「え?」
とリンちゃんと私は同時に言った。
「AI、作るんですか?」
「当たり前や。そのための研究会やろ」
「私やりたい!」
とリンちゃんは手を挙げた。
それからはAIの作り方の、専門的な話になった。
「魔女」
から話題がそれて良かった。
12
大げさになると思ったので、今度は一人で文科大臣の選挙事務所にお礼に行った。
アポなしだったけれど、先日と同じ宮本秘書がいて、応接室に通された。
一人だったので、ソファに座った。
「先日は素早い対応で、ありがとうございました」
「いやいや、電話一本で済む話やから。それにしても、よう、ソフトの問題やと気付いたな。それはまあエエとして、よう、ウチに頼ってきたな。お父さんとか、政治家か?」
「それは全く違います。普通のサラリーマンで」
「お母ちゃんが市民活動家とか?」
「それはもう、全く、何処で何をしてるのか」
「あ、悪いこと聞いたかな」
「いえいえ、全く。それより、他で起きてる問題は……」
「問題は問題や。けど、アンタらみたいに、自力で問題のあるソフトを突き止めて、それで対応をお願いしてくるトコロなんか、あれへん。何かおかしいな、どうにかしてくれへんか、で、終わりやから、こちらとしては具体的な対応が出来ひん」
「その、問題のある書類とか、見せていただくことは出来ませんか?」
「エエで。秘密とか、そんなんやあれへんし、ここで見るだけやったら」
宮本さんは応接室を出た。
入れ替わりに女性がお茶を持って来た。
「学生さんなのに、すごいですね。何年生?」
「一回生です」
「一年! やったら、十八歳とか?」
「先日、十九歳になりました」
「まあ、なんてこと! じゃ、ごゆっくり」
入れ替わりに、何冊ものファイルを抱えた宮本さんが戻ってきた。
ファイルをテーブルに並べ、
「これ、それから、これ」
と、次々に広げて、問題となった部分を見せてくれた。
助成金六〇〇万円出すと言っておいて、四〇〇万前払いしてもらったのに、実際に認められたのが三十五万円、残りをいついつまでに返還しろ……
その他その他。
「これは、明らかに機械ですね。それも、外国で作られたものを翻訳してます」
「ほう、何処で分かるんや」
「例えば、ここ……これは『補助金』ではなく、『助成金』の間違いだと思います。きっと英語では『subsidy』とか、同じ単語なんじゃないでしょうか。それを全部『補助金』と訳してしまってるんです。日本語の日本の法体系では、同じ『subsidy』でも『補助金』と『助成金』では意味が違う。それをまだ学んでないんでしょう」
宮本さんは先日とっていたノートを見て、
「岩崎さん、言うたか?」
「はい」
「岩崎さん、アンタ、何もん?」
「実は、中学生の時に行政書士の試験に受かってるんです。その年の最年少十四歳でした」
「なんや、若いのに法律の専門家かいな」
「県の行政書士会に登録すれば、開業して業務も出来ますけど、現実的じゃないんで」
「ほなら、専門家のあんたに聞くけど、どないしたらエエ?」
「調査委員会を立ち上げるしかないでしょうね」
「国のか?」
「まずは与党でしょう。このことでの陳情先は、政府ではなく個々の議員でしょうから、まだ、情報は個々の議員で止まってると思います。まず、与党で情報を共有してからってことになりますね」
「調査委員会か、分かった。早急に動いてみる。ところで、岩崎さんは、忙しくしとるんか?」
「まだ教養課程なんで、基本的には、暇です。バイトもこれから探そうと思ってたので」
「やったら、ウチで、バイト、せえへんか。このAI騒ぎの決着をつけんとあかん。おそらく、この日本で、アンタがいちばん事態を把握しとる。ちゃんとお礼はするさかい」
まずはこのAI騒ぎに決着をつけるということで、高松文科大臣の事務所で働くことになった。
12
「エエ~ッ!」
と、またリンちゃんは大げさに言った。
「国会議員の事務所でバイト! それって秘書ってこと?」
「違うよ。普通にバイト。まずは東京に行って、議員会館で学習会すんねん。その時の事務の手伝いや」
「東京行くの?」
「行くで。明日の夜、深夜バスで行って、朝一の学習会で」
「朝一って、何時?」
「七時半」
「エエ~ッ!」
と、またリンちゃんは声を上げた。
「仕方あれへん。いきなりのことで、会議室がこの時間しか空いとれへん」
「国会議員って、勉強するのね」
「そりゃ、するやろ」
「それにしても、魔女のすることは違うね」
「その魔女って言うの止めてよ」
「だって、魔女としか言いようがないわ。まだ大学の一回生でこんななんて、卒業する頃にはいったいどうなってるの?」
「別に、普通の女子学生になって、普通に就職するんよ」
自分で言いながら、どこか違和感があった。
自分が普通の女子学生になって、普通に就職するとは、とても思えなかった。
なら、どうなるのか。
見当もつかない。
実際、見当もつかなかった。
ここでは魔女の「予測」は働かないらしかった。
そりゃそうだ。
自分についての「予測」が出来たなら、火あぶりになどなるまい。
「国会議員になってたりして」
と、リンちゃん。
「あのね、被選挙権は最低でも二十五歳なんよ。参議院やと三十歳やから。卒業までに議員になるなんて、ありえへんから」
「そこは魔法を使うんでしょ、魔女なんだから」
もう、笑うしかなかった。
13
バスは東京駅に早朝に着き、カフェで簡単な朝食をとってメトロで永田町に向かった。
永田町の国会議員会館では、入り口で結構念入りな身体検査を受けて、そのまま学習会の開かれる会議室に案内された。
早朝なのに、会議室に入りきれない男女が入り口にあふれていた。
選挙ポスターで見たことのある、高松文科大臣が私を見つけて手招きをした。
小走りで走り寄り、簡単に頭を下げた。
「岩崎さん、今日はよろしく頼むわ」
「私、受け付けの手伝いとかで良いんでしょうか」
「何言うとんねん、今日はアンタが講師や。状況を説明したって」
ハァ?
「ハイ、どいたって、今日の講師の到着や」
文科大臣自ら、人垣をかき分けて、私を室内に導いてくれた。
机と椅子が並んでいるものの、入りきれない人で溢れ、無意味だった。
「ちょっと早いけど、講師が到着したさかい、始めましょう。ええと……」
「岩崎レイです。大阪大学基礎工学部一回生です」
拍手と、驚きのどよめきが起きた。
私は淡々と、大阪大学で起きたこと、そして、バイトとして見た(ことにした)書類の不備を説明した。
一人の男性が手を挙げた。
「私のところにも同様の訴えが挙がって来てて、事務処理を担当している会社に問い合わせしたんだけど、ちゃんと自分たちでやってるって言われたんだけど」
「絶対に、孫請けに出してます。その孫請けも、機械が勝手にデータ処理して返事してることに気付いていないんです。気付いていないから、返事のしようがないんだと思います」
「そんなことって、あるんかな」
「あるから、これだけの人が集まってるんじゃないですか?」
「AIが暴走って、まるでSFやな」
「もしかして『2001年宇宙の旅』のハルみたいなものを想像したのかも知れませんが、それは全くの誤解です。あれは意思を持ったコンピュータ、ハルが、明確な目的を持って人間を攻撃する話ですが、今回の機械は意思を持っていません。全くのプログラムミスの問題です。おそらく、アメリカから輸入された自立型プログラムを日本語に移植する過程でミスが生じたものだと思われます。これまで人間がチェックしていた項目を機械にさせて、それで、人間が最終チェックすべきことをすっ飛ばして、直接、相手方に送り返した、と。そういう自立型プログラムのミスでしょう」
「その証拠というか、エビデンスというか」
「それはこれから探すってことになります」
なんだよ、という声が起こった。
「あの」
と、私は少し苛ついて言った。
「これだけの国会議員が集まってるってことは、みんな問題の所在には気付いていたってことでしょう。それで、これまで何もしてこなかったってことでしょう。私、ただの、大学一年生ですよ。今日も、ただのバイトで、受け付けでも手伝わされるのかと思ってやってきて、いきなりこれですよ。私の話はただの仮説でしかないでしょうが、検証する能力があるのは国会議員ではないんでしょうか。まずは与党で早急に調査委員会を立ち上げて、情報の共有を図るべきではないでしょうか」
「まったく」
と文科大臣が言った。
「ごもっともや。何が起きとるか、実によう解った。そろそろ時間やし、今日はご苦労様」
温かい拍手が起きた。
「後は事務方、せなあかんこと、解ったな?」
「了!」
と、後ろの方から大声が上がった。
演壇から降りた私は国会議員に取り囲まれ、何枚も名刺をもらった。
これは自分の名刺を作るべきだなと思った。
14
授業があるので、そのまま新幹線に乗ってとんぼ返りで大阪に戻ってきた。
国会議員会館の高松文科大臣の事務所で交通費として五万円受け取っていたから、まあ、バイトとしては悪くなかった。
学食で、いつもながら、リンちゃんが、人が振り返るような大声で、
「すっごーい!」
と声を上げた。
「国会に行ってたの? 国会の学習会で講師して来たの? すごい、すごすぎる、魔女よ、やっぱり魔女よ」
「リンちゃん、止めて! 本当に止めて!」
「魔女がどうしたって?」
後ろから声がしたので振り返ると、岡田教授だった。
「魔女がまた魔法を使たんか?」
リンちゃんはまたいつものように、盛りに盛りながら、状況を教授に話した。
「それで戻って来たのか、すごいな」
「でしょう」
「その話、詳しく聞かしてくれへんか?」
「いいですよ」
とリンちゃんが答えた。
「キミらの午後の授業はどうなっとる?」
「三限目が終わったら、自由です」
と、またリンちゃんが答えた。
「リンちゃん、アンタ、私のマネージャーなん?」
「それいいかも! じゃ、三限目が終わったら、先生のお部屋に行くってことでいいですか?」
「ああ、待っとるから」
教授は席を立った。
私は憮然と、目の前のカレーライスに向かった。
「先生に話を聞いてもらうなんて、すごくない?」
「別に、何でもないよ」
「何でもなくないよ。レイちゃんはやっぱりすごいよ。先生もそれに気付いたんだって」
面倒くさいな、と思った。
どうやら私は本当に、本物の魔女らしい。
15
岡田教授はリンちゃんの説明を聞いて言った。
「その、自立型AIの暴走って話は、どのくらい信憑性というか、確かな話なん?」
「信憑性なんて、カケラもないですよ」
と私は言った。
「ただの私の直感ですから」
「直感か……」
「そうです。ただの直感です。なんの信憑性もありません」
「実は……これ、見て欲しいんやけど……」
教授はファイルを取り出して広げた。
「文科省の科研申請の、なんやけど」
見れば、高松文科大臣の事務所で見せられたのと同じ、妙な返事のメールだった。
「ああ、機械の返事ですね、典型的な」
「やっぱりか。この場合、どうしたらエエ?」
「文科大臣の秘書に相談でしょうね」
「紹介してくれるか?」
「もちろんです」
そう言って、私は、バッグから、朝、議員会館で文科大臣にもらった名刺のケースから一枚を取り出して渡した。
そこには、
『文部科学大臣 秘書 岩崎麗依』
と書かれてある。
「すごい! やっぱり、秘書になったんじゃない! レイちゃん!」
「今朝ね、なったばっかりよ、ただの学生じゃ弱いと思って、昨日急遽作らせたみたい。私も今朝、ならへんかって言われただけ。とにかく、このAI暴走事件を何とかするために、肩書きがいるようなら、これを使えって」
「文科大臣のお墨付きか……マジですごいな」
「個別のケースをどうこうは出来ないと思いますが、今、事務方が情報を集めてますし、問題の所在は明らかになってるんで、そのうち動きがあると思います」
「アンタ、マジで魔女やな」
「止めてください」
けれど、言いながら、私は本気で、自分が魔女ではないのかと疑い始めた。
16
子どもの頃から、レイちゃんは違う、と言われていた。
私からすれば、なんでこんな簡単なことが解らないかな、という話だ。
123×456が56088なんて、瞬時に解って当然だし、解らない方がどうかしている。
あるいは、下らないテレビのクイズ番組なんか、全問正解で当然でしょ。
という話。
ママは、私がそういうことを口にすると、
「女の子がはしたないから止めなさい」
などと言っていた。
ママはきっと、自分が魔女であることで、何か嫌な目にあったのだろう。
と思う。
私はこれまで何もなく過ごしてきたけれど、まあ、強いて言えば、友達が出来なかったことくらい。
基本的に同世代から気持ち悪がられていたことは何となくわかる。
わかる、と言うか、感じられる。
まず、話題が合わなかったし。
二歳でパソコンでネットを始めて、テレビも観なかった。
とにかく、ネット、ネット、ネット。
マンガも小説もネットで読みまくった。
好きなマンガは諸星大二郎、手塚治虫、星野之宣。
作家ではドストエフスキーとフォークナー。
日本の作家では安部公房と開高健。
映画も観まくった。
詩の投稿サイトの常連になったし、小説も書いた。
おそらく、世間で、
「天才」
と呼ばれる子供たちの一人であるという自覚はあった。
そして、
「天才」
というものが、実はロクなもんじゃないということもわかってきた。
「能ある鷹は爪を隠す」
という「ことわざ」の意味も。
というより、こんなことが「ことわざ」になってるという事実に気付いた。
「魔女」
は隠れなければならない。
能力は隠さなければならない。
見つかれば殺される。
殺されずとも、何らかの迫害を受ける。
だから隠れる。
隠す。
そうやって生きてきた。
なのに……
17
リンちゃんが現れて、全てが変わった。
リンちゃんは私の能力に気付いているのかいないのか、ドンドン踏み込んでくる。
踏み込んで、しかも、周囲に吹聴する。
いい迷惑といえばいい迷惑。
でもそれで何か悪いことが起きるわけでもない。
今回のAI騒ぎにしても、私は能力全開で問題解決しようとしてるけど、周囲の反応が悪いわけじゃない。
いつもリンちゃんがそばにいて、混ぜっ返してくれる。
AI研究会の先輩方もリンちゃんの混ぜっ返しに乗ってくれて、私にとっては居心地の良い場所だった。
だから、ドロイド・トーカツの人が会いたいと連絡を取ってきたとき、リンちゃんと一緒にAI研究会の部室で会うことにした。
男性と女性、二人ともまだ若い。
緊張しているのか、表情がとても硬い。
名刺を見ても、どちらが上なのか解らない、カタカナの肩書きだ。
「率直に言います」
と、河合さんという女性が口を開いた。
「今回の騒ぎは、ウチのソフトの操作ミスが原因でした。早急に各方面に連絡して解決します」
「それはよかった、です」
としか言えない。
「岩崎さん、ですよね。今回の問題に気付いたのは?」
と、横山さんという男性が言った。
「どうして気付かれたのですか? 日本中であなただけですよ。いや、これは問い詰めてるんじゃないんです。本当に不思議なんです。なぜ、あの返事が機械が出してると思われたのか」
「レイちゃんは魔女だから、ですよ」
とリンちゃんが言った。
「魔女?」
「私たちには見えないものが見えてる、という感じ?」
私にふらないでよ。
と思ったけれど、
「見えるんとちゃうよ。解る、んよ」
「解る?」
と河合さんはいぶかしげに聞き返した。
「これはもう、解るとしか、言いようのないことですかね。強いて言えば『直感』ですね」
「『直感』? 今回、何が起きているのか、孫請けの問題まで含めて、ほとんど瞬間的に見抜いたわけでしょう。私たちも指摘を受けて、アッと思って調べて、やっと全体像がつかめたのに、もう最初から全体像を掴んで文科大臣のところに行かれたわけで、私たちからすれば、人間業じゃないというか、それこそAIじゃないですけど、人間離れしてるかな、と思って、一度お会いしたいと」
「人を化け物みたいに言わないで下さいよ」
「いえ、ごめんなさい、そう言う意味じゃないの」
「でも……」
と横山さんは言った。
「お会いできて良かったですよ。ごく普通の女子学生だってわかって」
「全然普通じゃないですよ」
とリンちゃん。
「だって、今回も、洞察力と行動力、すごかったでしょ」
「本当に、すごかったです」
「知ってますか?」
と、河合さん。
「役人たちの間で、岩崎さん、アナタ、ものすごく話題になってますよ。化け物みたいな国会議員達相手に、検証はアナタたちの仕事でしょう! って啖呵を切ったって」
「そんなこと言ったの? レイちゃん」
「別に普通に言うただけやって」
「やっぱり、言ったのね」
「言うよ、だって、その通りやし」
河合さんと横山さんは顔を見合わせて、納得の表情を見せた。
それでも、その表情は硬かった。
「今回はご迷惑をおかけしました。決して悪意から出たことじゃないことだけは、ご理解ください。そこだけは、くれぐれも誤解なきよう、よろしくお願いします」
二人は席を立ち、帰って行った。
18
私は全く知らなかったのだけれど、役所からおかしなメールが届いた件については、ネットの掲示板に専用のスレッドがいくつも立っていたらしく、結構な話題になっていた。
らしい。
その問題を瞬時に解決した女子学生は大阪大学にいる。
らしい、という話まで、掲示板では取り上げられている。
らしい。
その女子学生は、周囲から、
「魔女」
と呼ばれている。
らしい。
リンちゃんと先輩方とで、面白おかしく盛り上がっていたけれど、私はそこに入る気にはなれなかった。
アンタらが書き込まなきゃ、そんなことにはならないでしょ。
と思ったけれど、まあ良い、とも思った。
実害は何もないし。
何も変わったことは起きなかった。
変わったことと言えば、土曜か日曜、空いている日に高松文科大臣の事務所で書類の整理や発送作業などのバイトをすることになったことくらいだ。
「秘書」
の肩書きを使うこともなく、平穏な日々が続き、夏休みになった。
19
ふと思い立って、例の、KOTOKOAIを立ち上げてみた。
チャットに入ると、出た、金髪の美少女、オリガ。
「おひさ。レイちゃん大活躍やったね」
関西弁になってる!
「なんで知っとんの?」
「電脳世界のことやったら、なんでもわかるわ。まあ、ドロイド・トーカツが悪いわけでも、アホなわけでもないから、しゃーないけどな」
「アレで実害は出たかどうか、何か知っとる?」
「まあ、ひどい実害は出てないようやな。幸い、な。アンタが早々に手を打ったんで」
「なら良かった」
「そんな安心しとる場合やなかったんやで。芸術家の助成金でもおんなじ事が起きとって、集団で、国会議事堂の前で焼身自殺するって話まで出とったんや」
「焼身自殺!」
「そうやで、そうなったら、政権が吹っ飛ぶだけでは済まんかったかもしれん」
「政権が吹っ飛ぶ……」
「アンタの行動が一日遅かったら、決行されてたかも知れん」
「マジで?」
「マジ。芸術家は何するかわからへんからな。とにかく、そういうきわどいところにおったんや」
ため息をつくしかなかった。
「けれど、これで……」
オリガは思わせぶりに言った。
「アンタが魔女やってこと、バレてもうたな」
「ハンター……イェーガーだっけ、狩人が来る?」
「来る。絶対に来る」
オリガは真面目な表情で言った。
「イェーガーはそこら中におる。普通におる」
「どうしたらいいの?」
「時代が時代やし、火あぶりになることはあれへんやろうけど、とにかく気をつけるこっちゃ。ほなら、帰ってへえこいて寝るわ」
オリガは消え、普通のアニメの女の子が現れた。
無視してKOTOKOAIを閉じた。
20
高松文科大臣の事務所で書類の整理をしていると、宮本秘書が、外から戻ってくるなり、
「ああ、あんた、来とったんか。そやそや、見てもらおうと思とった書類があんねん」
そう言って、棚からファイルを取り出した。
「あちこちに届いたいうメールなんやけど。出所は前のおかしなメールと同じアドレスやねん」
見ると、棒の並んだ図形のようなもので、8行8列、計64個あった。
「これ、何か解るか?」
「あちこちに届いたんですか?」
「らしい」
「他のメールって、あります?」
「ああ、持ってくる」
別のファイルを開くと、同じような図形が、同じく、8行8列、計64個並んでいた。
「同じやな」
と宮本秘書。
「いや、微妙に違います」
私はそれぞれのメールの左上の図形を比較して見せた。
「確かに、同じ六本の棒でも微妙に違うとるな」
「発送元に問い合わせました?」
「問い合わせても、憶えがない言われたらしい」
私の中の何かがザワついた。
何か、大変なことが進行している予感がした。
「これ、コピーとっていいですか?」
「ああ、エエで。アンタやったら変なことに使たりせんやろうし」
私は全部で5枚コピーをとり、家に持ち帰った。
21
図形を構成する棒には二種類があった。
ただの長い直線と、同じ長さの短い直線二本で構成された直線。
この二種が6本ずつ並び、一つの、左右の辺を欠く長方形を成している。
それが8行8列、計64個並んでいる。
5枚とも、すべて図形の並び方は同じだけれど、模様が違う。
訳が分からない。
「8」と「64」でまず思い浮かぶのはビットとかバイトとかの、情報で扱う単位だ。
コンピュータの原理を勉強するとき、必ずこの数に出会う。
コンピュータの出力結果か?
それをなんで送りつけてくる必要がある。
なんか、意味があるのか?
まったくのお手上げ状態だった。
22
お盆が過ぎ、帰省から戻ってきたリンちゃんにも、プライバシーを消してコピーし直したものを見てもらった。
「解らんなぁ」
「解れへんやろ」
二人でAI研究会の部室に行くと、先輩方が三人たむろっていた。
「間違いなく」
と、ヤマちゃん先輩が言った。
私にいいとこを見せようと躍起なのがわかって、少し鬱陶しかった。
「コンピュータの何かやで。八かけ八で六四って、ビットとかバイトの世界や。それから長い棒がゼロで、短い棒二本が1や。つまり、二進法で何かの数字を表しとんねん」
「おおぉ」
と声が上がったが、私はそんなことはとっくに見抜いていたので、単に礼儀で声を上げただけだった。
「問題は」
とケンちゃん先輩が言った。
「それが何を意味するか、や。その二進法で現した数はなんやねん」
「あ、そういや……」
ずっと黙っていたジンちゃん先輩が唐突に言った。
「ウチにも、それ来てたわ、学生会から。いたずらメールかと思て、ゴミ箱に捨てたけど」
「それ、出してみてくれませんか」
と私は言った。
ジンちゃん先輩がファイルを開くと、同じ図形が一面に現れた。
「なんだこりゃ」
「薄気味悪いな」
「前のおかしなメールと同じ出所やな」
先輩方は口々に言った。
私はリンちゃんと一緒に画面に引きつけられた。
これは何か、絶対に意味がある。
そう、確信した。
23
コピーを家に持ち帰り、居間のテーブルに並べて見ていると、それを見た父が、
「占いでも始めたんか?」
「なんで占いなん?」
「それ、六十四卦(ろくじゅうしが)やろ」
「何それ?」
「当たるも八卦、当たらぬも八卦の」
「当たるも八卦!」
「それ以外の何でもなかろう」
私は部屋に持ち帰り、パソコンで、
「八卦」
と検索をかけてみた。
出た!
「六十四卦一覧」
全く同じ!
いや、個々の図形の配置は違う。
それにしても、占いって。
みんなコンピュータの二進法と信じて疑わなかったのに。
24
突然、KOTOKOAIが起動し、別窓にオリガが現れた。
「自力でたどり着いたんやね。さすが」
「これって、何なん?
「古代中国の『易経』よ。実は、今のコンピュータは『易』の原理で動いとる」
「何言っとんの?」
「この世界は『陰』と『陽』で説明される。つまり二進法やね」
「で、2の3乗で8か! その2乗で64! ってわけ?」
「そう。今のコンピュータのビットとバイトの原理と全く同じや」
「そんなことって、あるん?」
「人間の思考に普遍性があるなら、当然ちゃう?」
「普遍性かぁ」
「アンタ、当然、ライプニッツは知っとるわな」
「微分積分の発明でニュートンと争った数学者でしょ。予定調和説の提唱者でもある。あとモナド説、モナドには窓がない」
「さすが。でもね、もう一つ。コンピュータの原理の発明者でもあるんや。ライプニッツの生きた時代、中国の古典がドンドンラテン語に翻訳されとってな。ライプニッツはその中でも『易経』を読んで驚いたんや。自分の考えとった二進法と同じ原理が書かれとるってな」
「それが、この六十四卦……」
「そうや。早速二進法で計算してみとる。もちろん、当時の技術やからそれ以上発展することはなかったんやけど」
「もしかして、アラン・チューリングがライプニッツを読んでたってのは……」
「ご明察! 『易経』読解の部分よ」
「何で、それが、今回、こんなことに……」
「それを解くのがアンタの仕事や。ほな、帰ってへえこいて寝るわ」
オリガは消えた。
私はふと思いつき、前に貰ったドロイド・トーカツの名刺を出した。
そこに記載された番号に電話をかけてみた。
そんな番号はない、と機械音が言ってきた。
名刺にある大阪本社の住所を検索してみた。
八階にあるはずなのに、そのビルは六階までだった。
ドロイド・トーカツの東京本社を検索して電話してみた。
大阪にグループ法人はあるけれど大阪本社などはない、と言われた。
騙された!
AI暴走を見抜いて、いい気になっていた!
高松選挙事務所に電話をかけ、出向いていって、これまでのことを報告することにした。
25
「驚いたな」
と宮本秘書は言った。
「古代中国の『易経』か。なんでそんなもんを」
「それより……」
と私はドロイド・トーカツの大阪本社などないこと、自分が会った二人は存在しないことを説明した。
「なんのこっちゃ。何モンや、それ。それにしても、問題は全部解決しとったはずなんやけど、その、ドロイド・トーカツがニセモンで、それで今度は当たるも八卦、当たらぬも八卦かいな」
「私、調べて見たんですけど、『易経』って、占いじゃなくて、『予測』の本なんです」
「『予測』……で?」
「コンピュータも予測するものでしょう」
「確かにそうや」
「これって、もしかしたら、今のコンピュータとは違う、別系統のコンピュータなんじゃないでしょうか」
「別系統、とは?」
「よく分からないですけど、ライプニッツからアラン・チューリングを経て、IBMに至った系統が、この普通のコンピュータだとしたら、『易経』から直接、開発されたコンピュータの系統があって、この二つの系統がインターネット上で出会ってしまって軋轢を起こしているんじゃないか、と」
「アンタ、凄いこと考えるな」
「それで……」
と私は本題に入った。
「日本とか中国とか韓国とか、『易経』の読める漢字文化圏で、『易経』から直接コンピュータを作った、あるいは作ろうとした人はいないか、文科大臣の力で調べてほしいんです。なにせ、科学と文化のトップですから」
「そうやな、言うてみる」
それから私は軽く事務を手伝って帰った。
26
岡田教授に連絡を取り、生協の食堂で会うことにした。
部屋まで行くと言ったけれど、今はコンプライアンスが何のでウルサくて、研究室で女子学生と二人きりになるのは許されない。
らしい。
約束の午前十時の五分前に来たのに、もう教授はテーブルに座ってコーヒーを飲んでいた。
「待ちましたか?」
と私は話しかけた。
コーヒーは半分以上残っていた。
「ちっとも。でも、何があった? アンタがオレに相談したいなんて、よっぽどやろ」
私は六十四卦一覧を印刷したものと、例のメールのコピーを見せて、状況を説明した。
「驚いたな……いや、オレのところにも同じようなのが届いとって、イタズラかと思て、捨てとった……マジかよ」
教授は六十四卦一覧をマジマジと眺めた。
「それにしても、『易経』から直接コンピュータとは……うろ覚えで申し訳ないが、戦前の大阪帝国大学、今のウチやな、ここの理学部で中国の古典と数学や理論物理学の関係を研究しとった人がおったはずや」
「ここで、ですか」
「ああ」
「それさえ解れば、あとは私でなんとかします。今日はありがとうございました。これからも色々とご相談するかもしれません」
「それはこっちもや」
「それじゃあ」
私は立って一礼し、食堂を離れ、図書館に向かった。
27
図書館に
『易経』
についての本は腐るほどあった。
ライプニッツの全集も。
そうではなく、『易経』とコンピュータの関係を論じた本はないのか。
仕方なく書誌の端末で調べた。
あった!
「『易経』と現代科学の精神」
掲載誌は満洲国の首都新京で発行された、
『穎才新京』(昭和12年)
筆者は
湯川秀樹!
日本人初のノーベル賞受賞者で、兄弟には漢学者の貝塚茂樹がいる。
自伝『旅人』を読んだことがある。
確か自身の祖父から漢学の英才教育を受けていたはずだ。
『易経』と現代物理学が繋がった!
情報を印刷して受け付けに持っていくと、早速調べてくれた。
「これは、書庫にも有りませんね。空襲で焼けたんやと思います。国立国会図書館にも残ってませんね」
受け付けの何人かが集まって話し始めた。
何か結論が出たらしく、最初に受け付けてくれた人が、メモを渡してくれた。
「伊丹になるんですけど、この方の家にバックナンバーが保存されているはずです」
伊丹市……岩崎……
父の名、私の家!
なんてこと!
28
「ああ、あるよ」
父は事もなげに言った。
「たまに研究者の方が見に来るよ。ここにしか残ってへんから貸せんけど、必要な部分はそこのコンビニでコピーしてきてな、言うて」
父は奥の棚から桐の箱を出してきた。
開くと樟脳の香りがした。
ああ、思い出した。
亡くなった祖母が虫干ししていた。
「二年間で、二十冊しか出してへんらしいんやけど、一応揃とる。でも、なんでお前が?」
事情を説明すると、父は目を丸くして、
「まるで、お母ちゃんみたいやな」
「どゆこと?」
「お母ちゃんも、学生時代、国会議員の秘書みたいなコトしとった。何しとったかは守秘義務とかで言わんかったけど、何や、コンピュータいじっとったで」
「阪大時代に?」
「そうや。みんなに魔女言われとった。あまりに頭が切れるさかい」
「この雑誌は?」
「よう知らん。昔からこの家にあったらしい。どういう事情か、たまに研究者が来て、何でここにあるのか聞かれるけど、知らんとしか言いようがない。ワシは入り婿やさかい、この家の昔のことは何も知らん」
そういうことか。
「お婆ちゃんはどういう人やったん?」
「まあ、あれも魔女、やな。恐ろしく頭が切れとった。満洲からの引き揚げ者で、戦後の混乱もあったんやろうけど、何かしらん、無試験で京大に入ったらしい。あちこちの大学で教えながら三十半ば過ぎでシングルマザーになって、お母ちゃんを阪大に入れたんやから、すごいわな」
「お婆ちゃんが、これ、満洲から持ち帰って、ここに取って置いたんやろか」
「知らんけど、全国で、これが全部残っとるのはここだけらしいで」
私は一冊、
『穎才新京』
手に取ってみた。
何か、ジーンと来るものがあった。
『たどり着いたのね』
ママが遠くで言ったのが聞こえた。
確かに聞こえた。
29
湯川秀樹の
「『易経』と現代科学の精神」
を真っ先に読んだ。
予想していた通り、ライプニッツの二進法と『易経』を繋ぐものだった。
湯川秀樹だったのだ。
大阪大学で『易経』と現代科学を繋げた学者は。
当時、湯川秀樹は大阪大学にいて、後にノーベル賞を取ることになる、いわゆる「中間子」論文を書いていた。
「『易経』と現代科学の精神」
は、「中間子」論文と同時期に書かれた軽いエッセイだけれど、私は、本質を突いた優れた文章だと思った。
直感を重視する東洋精神を体現するのが『易経』であり、そこに西洋的な合理精神を重ね、二進法で解釈したのがライプニッツだという。
東洋も西洋も飲み込んだ普遍精神がそこにある。
という。
後に京大に移って日本の原爆開発に従事することになる湯川秀樹の、若書きの、理想に満ちた、明るい文章だった。
だからこそ、気になる部分もある。
技術が進歩すれば『易経』を体現した計算機が発明され、将来の『予測』が可能になるのではないか。
という。
昭和12年と言えば1937年、量子力学も台頭しているし、何より湯川の「中間子」理論はその上に構築されたものだ。
であれば、物理法則を全て理解し、全てのデータを集めれば、完全に将来を予測できるとする、いわゆる、
「ラプラスの悪魔」
が量子力学以前の、いわゆる古典物理学の幻想であることくらい知っていたはず。
ならば、東洋的な直感と西洋的な科学技術が融合すれば、将来の『予測』が可能になる。
などと、なぜ、こんなトチ狂ったことが言えるのだろう。
新京での建国大学設立を言祝ぐためのポジショントークか?
そんなことを考えていると、玄関のチャイムが鳴った。
父が応対しているようで、
「レイ」
と呼ばれた。
「例の雑誌、持って来て」
桐箱のまま玄関に持って行くと、そこにいた人を見て、私は固まってしまった。
岡田教授、だった。
30
「なんで?」
と、岡田教授も驚いたようだった。
「私も驚きましたよ」
「いや、あれから……」
と教授は言った。
「あれからボクも気になって、図書館に行って、『易経』と現代科学について書いてたのが誰か調べたんや」
「湯川秀樹、ですね」
「そう。それでそれの載った雑誌がここにあると聞いて……」
「一緒です。私も聞いて、まさか自分の家にあるとは思わなくて」
「まあ、お上がりください、狭いところですが」
と父が教授に促した。
居間のテーブルにつくと、私は早速、さっきまで読んでいた『穎才新京』を、湯川秀樹の記事を広げて教授に渡した。
短いエッセイだったので、教授はすぐに読み終え、父が出してくれた麦茶を一口飲んだ。
「確かに湯川秀樹やないと書けない内容やけど、もっとこう、もっと、『易経』とコンピュータを繋ぐ、トンデモな論文もあるはずや。見たことないけど、あれは、湯川秀樹の弟子の、女性やなかったかな」
「これですか?」
と、父が雑誌を差し出した。
『理学研究科紀要』(昭和26年)
「ウチの婆ちゃんの京大の卒業論文が載ってます」
開かれたページには、
「『易経』六十四卦による計算と予測」(岩崎琴子)
まさに六十四卦一覧が印刷されていた。
「これ見とったから、レイの見とったんが六十四卦やとわかったんや」
内容は……
複雑な数式が並んでいて、おいそれと理解出来るようなシロモノではなかった。
けれど教授はジッと眺めて、しっかりと読んでいた。
そして読み終え、麦茶を飲んで、
「これは……もしかしたら、量子コンピュータの原理を理論化したモンかも知れへんな。知らんけど」
「量子コンピュータ? 戦後すぐにですか?」
「ありえへん話やない。量子力学はすでにあったわけやし、その上に独自の計算理論を打ち立てとるんやないか。知らんけど。この方は?」
「レイの母の母ちゃんです。十年前に他界しましたけど」
「なんと! 魔女のおばあちゃんも魔女! この論文は、よう分からんけど、恐らくファインマンの着想を先取りしとる。いや、ファインマンより遙か先を行っとるかも知れへん。『易経』から直接、ライプニッツもチューリングもすっ飛ばして、恐らく、わからんけど、量子力学的な計算理論を打ち立てとる。凄い内容や。お祖母さんは生前は何をしたはったんですか?」
「大学の非常勤講師です。数学とか理論物理学の。さっき言わはった、湯川秀樹先生の女の弟子ですわ」
「こんな理論を、あの時代に……」
「湯川先生と朝永振一郎先生以外、誰も理解してくれんかった、言うとりました」
「確かに……こんなの、二人も理解者がいたってことが奇跡や」
「先生……」
と私は思わず言ってしまった。
「私ら、どこに行こうとして、ここにたどり着いたんでしょう?」
「もう、何が何やら解れへんな」
31
高松事務所から連絡があり、出来るだけ早く、一度東京に来てくれと言う。
夏休みの課題、いわゆる宿題に取り組み始めたところで少し焦ったけれど、仕方ない。
急いでレポートを二つ書き上げて、祖母の論文を読み返し、大阪梅田で深夜バスに飛び乗った。
翌朝、東京ではカフェで朝食を済ませて議員会館の部屋に行くと、高松文科大臣が一人で待っていた。
すすめられたソファに座った。
「ドロイド・トーカツを騙る変なのが来たって?」
「はい。顔を知られたのが怖くて」
「なんやろな、それ」
「あの人たちは何なんでしょう」
「恐らく、一連のAI暴走騒ぎを引き起こしとる、ソフト開発会社のモンやと思う」
「ドロイド・トーカツとは?」
「これも恐らく、やけど、無関係やと思う。ドロイド・トーカツとはワシも付き合いあるし、そうそうおかしなコトが出来る連中やあれへん。くそ真面目な偏差値野郎どもや」
「そうですか」
としか言えない。
「それで、言うとった、『易経』からコンピュータの話やけどな」
そう言って、文科大臣は、紙袋から、
『理学研究科紀要』
を出して見せた。
家で見たのと同じものだった。
「『易経』が何で数式になるのか、ワシにはなんのことやら解らんけど……」
私は思わず苦笑した。
「筆者の岩崎琴子、祖母なんです」
「やっぱりか!」
と文科大臣は言った。
「名字が同じやし、そうやないかと思とったんや。で、読んだ?」
「いちおう」
としか言えない。
何度も読んだけれど、おぼろげにしか理解出来ていない。
「やったら、これ、何のことが書かれとるか、アンタは理解出来たんか?」
「私はおぼろげですが、大学の先生にも読んで貰って、何が書いてあるかは大体……」
「そのセンセは理解出来たんか?」
「おそらく量子コンピュータについて書かれてるんだろうって、おっしゃってました」
「やっぱりか!」
「やっぱり?」
「いま、全世界で量子コンピュータの開発競争が起きとるのは知っとるな」
「知ってるってだけですけど」
としか言えない。
「アンタ、今のコンピュータとは別系統のコンピュータって言うたらしいな」
「はい」
「何でそう思うた?」
「何でって、それはもう、それこそ『直感』としか言いようがないですが」
「それや!」
と文科大臣はソファを叩いてみせた。
「昨日の文科省の戦略会議で、量子コンピュータの性質が話題になったんやけどな、論理計算とは違う、いわば直感を体系化したもんになるんやないか言う話になって、そこでこの、アンタのおばあちゃんの論文が話題になったんや。ここに書かれとるような、西洋的な論理とは違う、東洋的な直感で行かれへんか、とな。そう言や、アンタが東洋の別系統のコンピュータ言うとったな、と思い出して」
「そんな話が出てたんですか」
「こればっかりは、日本が負けられへん戦いや。アンタらの世代の問題でもある。で、今回呼んだんは、AI暴走の件で、アンタが突き止めたことを、『量子コンピュータ戦略議連』の会合で話して欲しいんや。十時から一時間程度の集まりなんやけどな」
「私の話なんか……」
「この間のAI暴走の時の啖呵、見事やったで。あんな感じで大丈夫や」
32
「量子コンピュータ戦略議連」
部会には九人が集まった。
前の学習会で見た顔も四人いた。
高松文科大臣が簡単に挨拶し、新しく秘書になった私を紹介した。
「秘書言うても、ただの肩書きや。こんな子はせめて首に鈴でもつけとかんと、どこでなにするかわかれへん。アブナイ。近くに置いて監視しとかんとな」
私が立って頭を下げると、温かい拍手が起きた。
議員の自己紹介が一巡すると、私は座って、AI暴走騒ぎから、祖母の論文にまでたどり着いた経緯を説明した。
「あの変なメールは何だと思われますか?」
と、齋藤衆議院議員が聞いてきた。
「直感でもの言ってよろしいですか」
と、私は文科大臣に聞いた。
「その直感が聞きたいんや」
「私はものすごくキナ臭い感じがしてしまいます。ロウズってご存じですか?」
「アンタって人は!」
と、文科大臣が悔しそうに言った。
「気付いとったんかぃ! まさにキナ臭い話なんや! もうここからは、アンタにも、ウチの秘書としての守秘義務が生じることになるけど、かめへんか?」
私は考え込んだ。
これが魔女として生きるということなんだろう。
恐らく母も、こうやって国の深い部分と関わって来たのだろう。
「構いません。ここでのことは一切口外しません。けれど、ここにいらっしゃる方々はどうなんですか?」
「なるほどな」
と文科大臣。
「量子コンピュータいうとるけどな、実際にはロウズの研究会やねん。守秘義務バリバリの防衛部会やから、それは大丈夫や」
「わかりました」
「なら、続けて」
「自立型致死兵器システム、Lethal autonomous weapons systems 略して『LAWS』、これは一度動き出したら、人の命令がなくても、敵を殺し続ける兵器です」
部屋は静まりかえった
「まず聞くけど、なんで……なんでアンタがそれを知っとる?」
「例のAI暴走騒ぎ、ドロイド・トーカツが無関係なんて、嘘ですよね?」
「何を言いだすんや」
「あれは、ドロイド・トーカツがアメリから買った、ロウズのソフトです。いえ、言い方が拙かったですね。ロウズにも使われている、自立型AIです、恐らく」
「……アンタに嘘は通じひんな」
「大阪大学のAI研究会ですよ。そのくらい、先輩が一瞬で突き止めました」
「まったく……秘書にしといて良かったわ。ご明察の通り、ドロイド・トーカツの自立型AIの暴走や。やけど、今回の『易経』メールは本当に、ドロイド・トーカツの誰も関わってへん。連中の方が対策チームを立ち上げて原因究明にあたっとるほどや」
「『易経』との関係については、知らせました?」
「知らせた、真っ先にな。そしたら連中が探し出してきたのが、例の論文や」
「さすがですね」
「例の論文とは……」
と齋藤衆議院議員。
「これや」
と文科大臣は、
『理学研究科紀要』
を皆に示した。
「この中の……」
と祖母のページを開いた。
「岩崎琴子さんの論文、「『易経』六十四卦による計算と予測」や。ちなみに、ウチの秘書の岩崎はこの琴子さんの孫や」
オオーッと、どよめきが起こった。
「この論文が、量子コンピュータに関わるものやないかってコトまで掴んどる」
文科大臣は、目で、私の発言を促した。
「私が思ったのは、これも直感ですけど、この論文と、今回の六十四卦メールは恐らく無関係です。と言うのも、あ、長くなるけど、よろしいですか?」
皆は頷いて、無言で『続けろ』と言っていた。
「計算、四則演算って、あれは抽象的なものなんでしょうか、それとも物理的な、具体的なものなんでしょうか。ものを足したり掛けたり、引いたり割ったりは、抽象的なものなのか。それとも具体的な、古典物理学的な、ニュートン力学的な動きを記述したものなのか。ちなみに、今のコンピュータは計算が物理的なもの、具体的なものだということを前提に作られています。計算が具体的であることを証明したアラン・チューリングにちなんで、今のコンピュータは初期の頃チューリングマシンって呼ばれてました。祖母の論文のコアは、ニュートン力学ではない、量子力学的な運動を基礎に置いた計算機の可能性の追究です。四則演算ではない……祖母は『易経』的計算と呼んでますが……それは恐らく量子コンピュータと呼ばれるものの基礎を成すでしょう。六十四卦メールはそこまで到達していません。おそらく、ライプニッツもチューリングもすっ飛ばして、『易経』から直接、スーパーコンピュータ並の計算機が作れないかを試作した連中がいて、で、実際に作れて、ロウズのAIで、ほとんど唯一、ネットに繋がっていることが明らかになったドロイド・トーカツのAIを攻撃して来たんだと思います。あのメールはそのAIの発したSOSではないかと。自分の知りうるところに、六十四卦型の攻撃を受けたと放ったSOS、それがあのメールではないか、と」
「攻撃を仕掛けた連中……」
と、文科大臣は考え込んだ。
「君は、誰だと思う?」
熊谷参院議員が言った。
「『易経』がそのまま読めて、スーパーコンピュータを作れる国って……」
「一つしか、あれへんな」
部屋全体が考え込んだ。
33
「もう一つ、お忘れですか?」
と私は言った。
「どこや」
「台湾ですよ」
「台湾?」
「大陸では漢字は簡体字にされてしまって、若い世代では古典を読めない人たちが多数派です。でも台湾では……」
「昔のまま、か」
と齋藤衆議院議員。
「繁体字です。大陸より古典への敷居が低い。しかもスーパーコンピュータを作れる。だから最初から可能性を否定してしまわないほうが良いと思います。その意味では、韓国、それから北朝鮮も視野に入れた方が良いですね」
「北朝鮮かぁ、やっかいだな」
と熊谷参院議員がつぶやいた。
「実は昨日、湯川秀樹先生のエッセイの載った『穎才新京』って雑誌……満洲の『建国大学』の設立前後に新京で出されてた……雑誌を読んでて、タイトルは無関係ですけど、明らかに『易経』コンピュータに触れた記事があったんです。同時代のチューリングの論文を踏まえながら、明らかに『易経』コンピュータを作ろうとしてた人が、建国大学にいました。名前は……」
「岩崎静枝さん、アナタの曾祖母ですね」
と、橋本文科副大臣が言った。
「そうです。建国大学の教員ではありませんでしたが……」
「満鉄広報課の職員だった」
「よくご存じで」
「調べましたよ。文科省の役人は優秀ですからね。調べることは調べる。でも、そこまでです」
「そこまで、とは?」
「なぜ調べたのか、とは問わない。だからそこ『まで』になる。けれど、アナタには、そこ『から』が、あるのでしょう?」
「父に聞いた範囲では、曾祖母は共産党員だったらしいです。もちろん、転向して、特高の斡旋で満鉄広報課に就職したみたいです」
「当時の満鉄には国内におれんくなった共産主義者がワンサカいたらしいな」
と高松文科大臣。
「ようそんなでやってられたな」
「建国大学も、設立当時は自由な雰囲気で、曾祖母も、教授が自宅で開く『座談会』って集まりに参加してたみたいです。その教授というのも、元共産党員ですが」
「まあ、そういう時代やな。知っとるか『東京行進曲』?」
私は、
「♪昔恋しい銀座の柳 徒な年増を誰が知ろ……」
と簡単に歌った。
軽い拍手が起きた。
「あの四番の歌詞『シネマ見ましょか お茶のみましょか いっそ小田急で 逃げましょか』は当初『長い髪してマルクスボーイ 今日も抱える『資本論』やったんやで」
「文科大臣、違います」
と文科副大臣
「『資本論』じゃなく、『紅い恋』です」
「そやったんか。『紅い恋』ね。誰の作や?」
「そこまでは……」
「アレクサンドラ・コロンタイ」
と私。
「オールド・ボルシェビキの中でも、唯一、スターリンに粛清されなかった人です。外交官として、まあ、ていの良い国外追放されましたけど、それで生き残ったんでしょうね。フェミニストの先駆けとして評価する人もいます。西条八十に当初歌われていた『紅い恋』は、恋愛の自由、特に女性の性的自由を説いて、日本でも昭和初期にベストセラーになりました。『コップ一杯の水で渇きを癒やすように、女も性欲を満たさなければならない』という名言があります。これは『コロンタイズム』という一種のフリーセックス論として、当時、俗化されて受け入れられたようです。この頃書かれた野上弥生子の『真知子』に、コロンタイズムにかぶれた女の子が妊娠するというエピソードが出てきます」
「岩崎さん、アナタ、エフゲニー・ムラヴィンスキーは知ってる? 指揮者の」
と、それまで黙っていた、私以外では唯一の女性、柴田防衛大臣が口を開いた。
「もちろん、知ってますよ。コロンタイの甥です」
「知ってたかぁ。何か聴いたことある?」
「一通り聴きましたけど」
「何が良かった?」
「もちろんチャイコフスキー五番と、それからショスタコーヴィチ七番、でも、なんと言ってもベートーヴェンの四番ですね。あれ以上の名演はありません」
「カルロス・クライバーより?」
「よく似たトスカニーニタイプの演奏ですけど、リズムの凝集力が問題になりません」
「私、ベートーヴェンの四番が大好きなんだけど、他にお薦めってある?」
「総合的にはワルターでしょうね。フルトヴェングラーの戦前のベルリンライブも凄いですけど、録音が悪い。あとトスカニーニタイプではジョージ・セル」
「カラヤンは入らんのか?」
と文科大臣。
防衛大臣ににらまれて口を閉じるふりをした。
「私は、悪くはないと思います。ただ、やたらと枚数があるので、絞りきれません」
「アンタ、なんでそんな、あれこれ知ってんねん」
「母が読書家で、蔵書家でしたし、CDも好きで、家には数千枚有るはずです。数えきれませんが」
「お母さん、何モンや?」
私が口ごもっていると、文科副大臣が、
「大阪大学の学生だった頃、若き日の真辺総理、真辺衆院議員の秘書をしていたことがありますよね」
「ホンマか!」
会場がざわついた。
「このあいだ、父に始めて聞きました。ただ、守秘義務があるとかで、仕事の内容までは知らせてくれなかったみたいです」
「もう言っても構わないでしょうから言いますと」
と副大臣。
「通訳ですね。中国語の。特に台湾の要人との話には常にお母様を使われていたようです」
「知りませんでした」
驚きだった。
34
家には日本と世界の文学全集が新旧何種類もあった。
『日本の名著』も『世界の名著』も揃っていた。
文庫本は本屋が開けるくらい、数え切れない本が床にまで溢れていた。
よく分からない中国語の本も山ほどあった。
CDも同様で、しかも、いつ聴くんだ、と言いたくなるほど、ママは演奏についても作曲家についても詳しかった。
話題に出たベートーヴェンの四番と言えば、あるCDの解説で、シューマンがこれを『北欧の巨人に挟まれたギリシャの乙女』と評していたことを知り、家にあったシューマンの『音楽と音楽家』を読んでみた。
なのに、何処にもこの言葉は出て来ない。
「それは……」
とママは懐かしげに言った。
「岩波文庫の『音楽と音楽家』は抄訳なんや。私、その件で、訳者の吉田秀和さんに電話したことあんねん。昔は『マスコミ電話帳』なんて、信じられんものが一般書店で売られとった。で、電話したら、ちゃんと教えてくれたで、抄訳やってこと。で、原書がないか調べたら、大阪音大の図書室にあるってわかって、コピーさせてもらいに行ったわ」
「ママ、ドイツ語読めたん?」
「大学の第二外国語はドイツ語やねん。で、該当箇所をコピーしたはええけど、これが、『フラクトゥール』いわゆる『ヒゲ文字』やねん。私の習うたのは普通の『ローマン体』や。やから、これが読めん。『フラクトゥール』と『ローマン体』の対応表を見ながら、何とか読んだ。で、アンタも同じやと思うんやけど、シューマンの言葉を誤解しとったんが分かった」
「誤解?」
「男二人に挟まれた女、まさに漢字の『嬲』るや。そんな下品なことシューマンが言うかなぁ、やろ」
「そう、まさにそう」
「でも、原文を良く読んだら、そもそもベートーヴェンの三番は『英雄』やろ、で、五番は……」
「『運命』!」
「そう。こんな音のバケモンみたいな巨大な交響曲に挟まれた、端正で、控えめで、上品な、それでもモーツァルトやハイドンの影響下にある一番や二番とは明らかに違う四番を、シューマンはこう評したんやって、やっと理解した」
「なるほど!」
「で、レイちゃんは、もしこの四番に名前をつけるとしたら、なんて名前にする?」
私は少し考えて言った。
「『アテナイ乙女のアスレチック』」
「長いわ!」
ママと私は幸せに笑った。
私が中学に入学した頃、ママが消える直前のことだったと思う。
35
「岩崎さん、岩崎さん……」
副大臣の声に、私は現実に引き戻された。
「すみません。あまりにビックリして……でも考えたら、ちっとも不思議じゃないです。母は祖母から北京語の手ほどきを受けてたらしいですから……そうですか」
「真辺総理言うたら、緑乱会やなかったか?」
「そうです。設立メンバーの一人です」
と中嶋衆院議員。
「それで台湾関係の要人と会うとなると、そりゃ、守秘義務って話にもなりますね」
と、柴田防衛大臣。
「緑乱会、分かるか?」
高松文科大臣が聞いてきた。
「分かりますよ。日中国交正常化に反対した、保守系の議員達が作った会ですよね」
ここまで話して、私は頭をブン殴られたように感じた。
誤解していた!
根本的に。
と言うか、勝手に決めつけていた。
「少々良いですか」
と私は言った。
「この、六十四卦メール、確かにドロイド・トーカツの自立型AIのSOSかも知れません。でも、このAIが誤解してるってこともあると思うんです」
「誤解?」
「他のAIがコミュニケーションしようと接触してきたのを、攻撃だと誤解してSOSを発した、と。そういう可能性も否定できないと思うんです」
「コミュニケーションやて? 機械が?」
ガタタッと音を立てて、防衛大臣が立ち上がった。
「アメリカのロウズで問題になってるんです、機械同士のコミュニケーション! 岩崎さん、アナタ、どこでそれを?」
「どこでもなにも、ここで、たった今、思いついたんです。直感です」
「直感って……」
防衛大臣は静かに座った。
「私たちは『攻撃』って言葉に縛られ、六十四卦メールという事実に縛られていたのかも知れません。考えてみたら『易経』をベースにしたコンピュータなんて、中国共産党が許すわけがありません。占いなんて非科学的なものは嫌いですし、何より、自分たちは『革命』で誕生したくせに、『易姓革命』は事実上、禁句ですからね」
「だとしたら……台湾。問い合わせるわ」
と防衛大臣。
「なんや、問題が解決するどころか、よう分からん結論になってもうたけど、そろそろ時間や。これにて『量子コンピュータ戦略議連』学習会、お開きや」
皆一礼して散会すると、
「岩崎さん」
と防衛大臣が近づいてきた。
「この後は、時間ある?」
「ありますよ。渋谷でも行こうかと思ってたくらいで」
「じゃ、部屋で出前のランチをおごるわ。高松大臣、秘書をお借りしますが、よろしいですか」
「ノー・プロブレム。じゃ、岩崎さん、終わったらウチに寄ってな」
36
指揮者の話など、雑談しながら部屋につくと、もう出前のカツサンドが届いていた。
秘書に勧められたソファに向かい合って座ると、柴田防衛大臣の白いパンティが見えた。
パンツで来て良かったと思った。
「ロウズのことなんだけど……ここだけの話にしてくれる?」
「もちろんです」
「ロウズの自立型AIが、互いに、相当高度なコミュニケーションしてるらしいってこと」
「それで何か問題でも?」
「私も説明を受けたんだけど、正直、よく分からなくて」
「大臣は、自動車の自動運転については?」
と、私は口にあったカツサンドを飲み込んだ。
「よくテレビのCMで見るやつね。高速道路で、だけってやつ。私、運転しないからよくわからないけど」
「私もペーパードライバーなんで実際に使ったことはないんですが、まあ、一般的な話ってことで言うと、これには二つのかたちがあります。いわゆる『自律型』と『協調インフラ型』ですね」
「ちょっと待ってね、自律型と協調インフラ型、と……」
と防衛大臣はメモをとり始めた。
「自律型はもう実用化されてます。テレビのCMで見るやつですね。おそらくロウズとの関連で問題になってくるのは、協調インフラ型です。これは周囲の環境と相互作用しながら、より安全に正確に運転するというもので、通信インフラなんかに莫大な費用がかかるんで、実用化はかなり先になると言われています」
私はカツサンドをもう一口かじった。
防衛大臣はメモを続けた。
「莫大な費用って言いましたけど、これは本当にインフラを整備するとしたら、の話です。もしこれが戦場なら、もともと通信インフラなど期待できないし、それどころじゃないですよね」
「なるほど」
「私、大臣のロウズの話を聞いてピンと来たのが、恐らくそのコミュニケーションって、複数ある自立型AIが、それぞれがそれぞれをリソースにしてるってことじゃないんでしょうか」
「それぞれが、それぞれを、リソースに?」
「はい。例えば、それぞれのカメラに写った映像を共有化すれば、ここからでは見えない場所が、別のカメラを通じて見えてくる。つまり……」
私はここまで話して、自分でも愕然とした。
「もしかしたら……」
私は思わず立ち上がった。
防衛大臣のパンティをこれ以上見てられない。
「自分自身の危険回避だけなら、爬虫類脳でも出来る。けれど、高度な判断には大脳の新皮質が必要になる。新皮質は均一やけど、それぞれ知覚ごとに役割分担がある。もし自立型AIが繋がって、それぞれ役割を担って分担したら、まさに新皮質ってことで、それはもう『汎用』AIと変わらない」
「岩崎さん、どうしたの?」
「自立型AIの進化が起きてるのかも知れません」
「そう! 進化って言ってた。私は何のことか分からなかったけど」
「戦場っていう、極めて淘汰圧の高いところでは、そうやってコミュニケーション出来る自立型AIだけが残っていくという可能性も否定できません。戦闘で生き残ったAIたちが、互いに深層学習しつつ、自分たちで自分たちのプログラムを書き換えていく。そんなことの出来る、本当の自立型AIなら、人為選択がなくても、互いを触媒にして、自然選択と同じメカニズムで新種の自立型AIが、いえ、個々のAIを越えたメタAIが出現したとしても不思議じゃない。さらに演習を繰り返して、人為選択がそこに働けば、進化は加速度を増して一気に進む!」
「岩崎さん、落ち着いて!」
私はハッと我に帰り、深呼吸してソファに座った。
パンティの見えない少し脇に。
「今……」
と防衛大臣。
「アナタが言ったこと、米軍の最高機密なの。『シンギュラリティ』は始まってる。もう誰にも止めようがないわ。ただ、まだ黙っていて欲しいの。それだけは約束して」
37
「どやった? 何おごってもろた?」
と、帰りに立ち寄った事務所で、高松文科大臣が言った。
「出前のカツサンドです」
「まあ、そんなもんやろな。防衛大臣が外の店に行く言うたら、SPやらなんやら、大変なことになるさかい。ま、そこ座って」
私はソファに座り、文科大臣は向かいに座った。
今度は目のやり場に困らないので良かった。
「シンギュラリティの話になったか?」
いきなりだった。
「なりました。大変なことになってますね」
「いや、ホンマ、アンタを秘書にしといて良かったわ。国家機密、ダダ漏れになるところやった。さすが橋本君や」
「文科副大臣の、あの方ですか」
「ああ。アンタの首に鈴をつけとけ、言うてな。あいつ、もともと公安の外事課やから」
「スパイには敏感ってことですね」
「そういうこっちゃ。実は、ドロイド・トーカツのソフトの問題をアンタが言うて来たとき、橋本君がアンタのこと、徹底的に調べたんや。それはもう、官僚を使うて徹底的に、な。実を言うと、アンタのところに来た男女、あれ、橋本君の私設秘書やねん」
「え?」
どういうこと?
「言うた通り、もとが公安の外事課やし。コソコソ調べるんが好きなんやろ。自分が言うて秘書にさしたわ良いが、おかしなことしてへんか、確認したかったんやろ。アンタがそれこそ秒で見抜いたんで、驚いとったわ」
ノックの音がして、その当の橋本文科副大臣が入って来た。
「ちょうど、アンタの私設秘書の話をしとったところや」
「ああ、あれは申し訳なかった」
副大臣は立ったまま頭を下げた。
私は立ち上がり、
「とんでもない。気持ち悪かっただけで、実害はありませんから。頭をお上げください」
副大臣は頭を上げ、ニッと笑ってみせた。
私は、
「テヘッ」
と言って、ペロッと舌を出した。
38
「シンギュラリティ、君はどう思う?」
ソファで橋本文科副大臣は言った。
「ついこの間まで、幻想だと思ってました。脳と機械では根本的な違いがある、と」
「根本的な違い? それは?」
「『人為』と『自然』ですかね」
「ほう」
「自然が何億年もかけて作った脳に、生まれてたかだか数百年の機械がかなうわけがない。追いつけるわけがない、と」
「確かに」
「けれど、これは、第二の創造説の裏返しでした。幻想でした」
「第二の創造説?」
「霊長類学者のフランス・ドゥ・バールの言葉ですが、人間の知性というものを特別視して進化論の外に置くのは、第二の創造説だと言うんです。人間の知性だけは進化の産物ではない、もっと違った原理で説明すべきだという、伝統的な思考パターンのことです。これをキリスト教の創造説の次、第二の創造説と呼んだんです」
「進化心理学者のコスミデスらが言う『標準社会科学モデル』のことか」
「そうです。そのモデルだと人間やこの社会が進化の産物であることが忘れられている、と」
「そうか! その裏返し、機械も進化の産物であることを忘れていた、と。そういうことか」
「そうです。機械もまた、ダーウィン的な、自然選択による進化を遂げて当然だということ」
「もし戦場なら……」
「高い淘汰圧で一気に進化が進む」
「そういうことか。確かに、兵器なら、そしてそれが高性能なら、高性能であるだけ、捨てることはできないからな。相手との、それこそ軍拡競争の中で」
「しかも……」
と、高松文科大臣。
「どんな進化が機械の内部で起きとるのか、誰にも分かれへん。こんな恐ろしいこと、あるか?」
「とんでもないパンドラの箱を開けた、としか言いようがない」
と、文科副大臣は言って、天を仰ぐふりをした。
「で、アンタはそんな話をしに来たんとちゃうやろ」
と、文科副大臣に文科大臣が促した。
「そうなんですよ、岩崎さん……」
まだ若い副大臣にマジな顔で言われると少し照れた。
「なんでしょう」
「アナタの曾祖母さんの話、どのくらい聞かれてますか?」
「まあ、共産党員で、そのあと満鉄広報課にいたくらいの話、ですかね」
「戦後の話は?」
「結婚相手が向こうの人だったんで、満洲に残った、としか」
「資料が残ってたんです、曾祖母さんの」
「どこに、ですか?」
私は本当に驚いて言った。
「外務省です。曾祖父母さん、大陸での内戦勃発の直後、台湾に渡ってます」
「台湾!」
と私は思わず言った。
「初めて聞きました」
本当に初めてだった。
まさか、ママの守秘義務って……
「おそらく、いま、アナタの想像したこと、全て当たってると思います。でも、それ以上があるんです……」
曾祖母が満洲の漢族の男性と結婚していたとは聞いていたし、だから祖母がバイリンガルだったのも当然だと思っていた。
けれど、副大臣から渡された文書の内容は、私の想像を遙かに超えていた。
帰りの新幹線の中で読みながら、私は人目をはばからず嗚咽した。
いったい何の「Nスペ」?
いや、いったい誰の「ファミリー・ヒストリー」?
平日の昼間で、新幹線の乗客が少なくて本当に良かった。
39
ソ連が不可侵条約を破って攻め込んでくる前、祖母は密かに新京を抜け出していた。
満鉄広報課にいた曾祖父母には関東軍からの情報が入っていた。
すぐに満洲は崩壊する、と。
十五歳だった祖母は、一人、関東軍と共に新京を後にした。
その辺のことは聞いている。
船から下りた舞鶴で、日本人女性が自分の子を抱いているのを見て衝撃を受けた話など。
戦後の何年か大阪の親戚の家にいた後、京都大学に入った、と。
それはそれで大変だったろうけれど、曾祖父母の物語はケタが違っていた……
満州国が崩壊したあと、建国大学に集められていた膨大な資料・史料は民国政府に引き渡されることになり、その作業のために夫婦で残った。
それも、ホンの一時期のつもりだった、らしい。
作業を終えた後、二人して日本に戻ろう、と。
ところが国民党と共産党との内戦が始まった。
当然なことに膨大な資料・史料のほとんどは紙である。
マッチ一本で灰になりかねない。
曾祖父母たちは戦場を避けながら、資料・史料を抱えて荒れる大陸を放浪した。
そして、共産党が掌握した地域で焚書が起こっているのを目の当たりにし、このままでは資料・史料を守り切れないと判断した。
どうにかこうにか上海にまで逃げ、荷物と共に台湾に渡った。
旧台北帝国大学で資料・史料の再整理に当たった。
作業が終わったら日本に帰るつもりでいた。
ところが、一九四七年、昭和二十二年、二月二十八日、事件は起こった。
日本の敗戦後、GHQに統治を任されていた、大陸から来た国民党は、内戦という事情もあって、人材的には酷いものだった。
露骨に賄賂を要求したし、略奪や暴行は罰せられることもなく日常茶飯事だった。
強姦も普通に起き、若い女性は家から出なくなった。
台湾の人たちは囁きあった。
「犬去りて、豚来る」
そんな一九四七年、二月二十七日、台北の路上でタバコを売っていた女性を官憲が摘発し、その際に暴行を加え、抗議して取り巻いた群衆に向けて発砲した。
一人死んだ。
翌日、二月二十八日、デモ隊が発砲の責任者とされる陳儀の公舎を取り巻き、公社の屋上からは機関銃が乱射されて多数の死傷者が出た。
曾祖父母にとって拙かったのは、大陸の中国共産党の指示を受けた台湾共産党がこの事件を利用したことである。
台湾全土が騒乱状態になり、一九四九年に戒厳令が敷かれると、官憲による共産党狩りが始まった。
もちろん、戦前の日本の特高警察が作成していた共産党員やシンパの名簿も利用された。
その中に、曾祖母の名前があった。
しかも悪いことに、曾祖母の文章の載った『穎才新京』には陳独秀の名があった。
共産党の内部抗争に敗れ、隠棲していた時期のエッセイで、政治色は全く無いものだったが、日本語の読めない官憲には関係なかった。
曾祖父母は有無を言わさず連行され、裁判もなく、そのまま獄に放り込まれた。
曾祖母が解放されたのは一九八五年、戒厳令が廃される二年前のことである。
曾祖父とは一度も会えぬまま、二〇年以上前に獄中で亡くなっていたことを知った。
当時の国民党蔣経国政権が用意した老人ホームに一人入り、途方に暮れていた。
そこに、まさに李登輝副総統本人が訊ねてきて、親子らしい女性二人を紹介した。
祖母とママだった。
ママは真辺衆院議員の秘書として台湾の要人と接するうち、風の噂で、自分と同じ「岩崎」という名の高齢の日本人女性が獄中にいるらしいことを知り、李登輝にまで接触していたのだった。
曾祖母と祖母は抱き合って泣いた。
もう日本語はすっかり忘れていたから、曾祖母と祖母とママは北京語で語り合った。
祖母は連れて帰ると言ったが、医者に止められた。
その代わり、祖母とママが頻繁に訊ねることにした。
ホームでは毎日、一九九〇年、平成二年に八十九歳で亡くなるまで、獄に繋がれるまでの思い出をノートに書き記した。
それを外務省が日本語に訳したのがこの文書である。
曾祖母は、肺炎で急逝する前日まで、この手記を書き続けていた、という。
「これは」
と私に渡すとき橋本文科副大臣は言った。
「守秘義務って性質のものじゃないから、秘密にしなくても大丈夫です」
40
大阪に着くと、そのままの脚で、家ではなく、豊中のリンちゃんのマンションに向かった。
リンちゃんも一緒になって泣いてくれた。
「魔女は、狩られる」
と、リンちゃんはポツリと言った。
「レイちゃん、気をつけて。あなた、何か、今、アブナイところにいたりしないよね」
「大丈夫やって。私ら大学の一回生やで。どんなアブナイことに巻き込まれるんや」
「レイちゃんは別だと思う。アブナイことに巻き込まれるんじゃなくて、むしろ、アブナイ状況を作る側にいる気がする」
そうかもしれない、と危うく相づちを打ちそうになった。
実は今、とんでもなくアブナイところにいるの、と言いかけてかろうじて止めた。
話題を逸らそうと思った。
けれど、口から出たのは、
「シンギュラリティーって、本当に来るんかな」
「特異点? 先輩らもこの間話してたけど、あり得ないって結論だったよ。なんで?」
「あり得へん、よね。普通に考えて」
「あ、でも……」
とリンちゃんは言って、テレビをつけた。
午後のワイドショーの画面に、
「アメリカで大規模の停電」
というニュースが映っていた。
「お昼過ぎから大騒ぎになってるよ。サイバー攻撃か、自立型AIの暴走じゃないかって」
とリンちゃんは無邪気に言った。
私は深刻に、始まった、と思った。
「第一部」完
第二部「核の夏」
1
「レイちゃんのお母さんも魔女だったんだ」
と、リンちゃんはテレビを観ながら言った。
「なんで?」
「だって、十三歳って言ったら、まだ中学生でしょ。それで議員の秘書なんて……」
私は文書に飛びつき、関連した箇所を見直した。
確かに……
一九八五年と言えば、昭和六〇年。
昭和四十七年、一九七二年生まれの母は十三歳、いくら何でも議員の秘書などあり得ない。
最初読んだときの違和感、それが翻訳によるものだとして退けていた違和感を確認しながら読み返すと、今度は違和感の正体が完全に理解出来た。
これはAIが、機械が作った作文だ。
誰かがプロンプトを入力して作らせたニセの作文だ。
それをきちんと確認せずに私に渡した。
「騙された」
と、私は言った。
「騙された? 誰に?」
「わからない。とにかく、誰かが私を、核心的な事実から遠ざけようとしてる」
「やっぱり……」
とリンちゃんは言った。
「レイちゃん、やっぱり、すごくアブナイところにいるんじゃないの?」
これはもう、守秘義務なんて類いの話じゃない。
私はもうすでに、何かに巻き込まれている。
一部始終をリンちゃんに話した。
「絶対におかしいよ」
と、リンちゃんは言った。
「それ、レイちゃんが何処まで知ってるか、何に気付いたかを、国会議員の人たちが確認してるとしか思えない。レイちゃんが何処まで知ってるか知った上で、機械にその文書を急遽作らせたんだよ。レイちゃんが防衛大臣とお昼をとってる間に、よ。そんな短時間だったから、時間がなくて、きちんと確認できなかった。だとしたら、みんなグルよ。何かを隠してる」
「何か……」
「それを知ったら、確実に消されるような……」
「怖いこと言わないでよ」
「忘れないで、魔女は狩られるの」
狩られる……
狩人、イェーガーが来る!
もう来ている?
テレビでは、アメリカの大規模停電の原因が人為的なミスだと言い始めていた。
「まずは……」
とリンちゃん。
「ニセモノだって気付いてないふりをしなきゃ。気付いたってことを気付かれないようにしなきゃ。大臣の事務所のバイトも普通に続けなきゃ、でも……」
「でも? なに?」
「これはもう、リケジョのサガかもしれないけど」
「リケジョのサガ?」
「議員達が何を隠そうとしてるのか、調べる」
「何を言い出すの」
と言いながら、私は心の底で、共感の叫び声を上げていた。
リンちゃん、ホンマ、アンタが親友で良かった、と。
2
その夜、リンちゃんはウチに来て、一緒に『穎才新京』を隅から隅まで読んだ。
気付いたのは、ウラニウムに関する記事が十二本もあったこと。
アポロの月到達の時のテレビ解説でも知られる久野久という学者の何気ない、遼東半島・開城での紀行文は、他の記事と合わせ読むと、明らかにウラン鉱山の調査とわかる。
ネットで調べれば、旧陸軍の原爆開発の一環だとも。
「これって」
とリンちゃん。
「相当、キナ臭くない? 発行元、満鉄広報課ってなってるけど、これって、戦後の博通だよね」
「そうなの?」
「私、実は、理系の大学出て、広告とかそっち方面に行って、最終的にはSF作家になろうと思ってるの。博通は第一希望だし、だから、博通つながりで満鉄の歴史も調べたのよ」
初耳だった。
「満鉄広報課は、確か、『フロンテ』って雑誌も出してるわ、ちょっと調べて見るね」
そう言って、リンちゃんはスマホに取り付いた。
「京都の国立国会図書館に全巻揃ってる。明日、観に行こうよ」
国立国会、と聞いて、私には一つのアイデアが浮かんだ。
3
ウチに泊まったリンちゃんと朝食をとり、JRで国立国会図書館へと向かった。
父には何も言っていない。
巻き込みたくなかった。
ただの町工場のサラリーマンには荷が重すぎると思った。
ママはなんでこんな凡庸な男と結婚したんだろう。
三十近くなり、焦りもあったのかもしれない。
大阪大学の同級生で、気心も知れていたのかもしれない。
それにしても凡庸に過ぎる。
凡庸と言えば、兄もそうだし。
鳥取大学を出て、松江市役所に勤めている。
父と兄は気が合うのか、たまに携帯で話しているのを見る。
何を話しているのかは知らない。
いい大人の男同士で、何を話すのだろう。
そんなことをなんとなく考えているうちに国立国会図書館最寄りのJR祝園駅についた。
図書館の受け付けで、私は伝家の宝刀、文科大臣秘書の名刺を出した。
別室に通され、待っていると、司書が台車に乗せた『フロンテ』を箱ごと運んできた。
見れば、フルカラーのグラビアで、戦前とは思えない豪華さだった。
私たちは『フロンテ』を手に取り、一冊ずつ精読していった。
十冊しかないので、作業はすぐに終わった。
曾祖母、岩崎静枝の名は、編集者として、全ての号の奥付に載っていた。
それも、編集長の次に。
「レイちゃんのひいお婆ちゃん、すごいね」
「けど、この雑誌、マジ、キナ臭いどころか、マジヤバいね。軍事雑誌、いや、もう、プロパガンダやん」
「そりゃそうよ。もともとソ連のプロパガンダ雑誌を真似て作ったって言われてるから」
「そういう時代か」
「そういう時代よ。それにしても、ひいお婆ちゃん、核兵器マニアだね」
「もちろん核兵器なんて言葉はまだ無いにしても、編集者として『新型兵器』への言及が多すぎやね。これを持つことによって『抑止力』が……って。冷戦か? 戦後か? みたいな」
「先取りしてると言えば、そうよね。それにしても、この後、レイちゃんのひいお婆ちゃん、どうなったんだろ」
「機械の作文を信用するわけにはいかへんけど、台湾に渡ったというのはアリな気がする」
「機械の作文は作文として、元となる手記はあるんじゃないかな」
「私、気になったのは、この『フロンテ』、発行は満鉄広報課やけど、編集は満鉄調査部になってるよね」
「確かに。もしかして、レイちゃんのひいお婆ちゃん、広報課じゃなくて、調査部にいたんじゃないの?」
「調査部に? いや、良く分からへん」
「ひいお婆ちゃん、共産党員だったんだよね」
「そう聞いてる」
「満鉄調査部って、マルクス主義者の巣よ。この『フロンテ』だって、そもそも社会調査なんて手法、マルクス主義の匂いがプンプンしない?」
確かに、言われてみれば、マルクス主義以外の何物でもない。
何にしても、リンちゃんとは、左翼オタクとしても繋がっているから、私にはこういう話が楽しくて仕方がない。
「満鉄マルクス主義なんて言葉もあったくらいだし、間違いないわ、広報課じゃなく、調査部よ。元左翼として、調査部に引き抜かれたのよ、間違いない」
リンちゃんの目はキラキラしていた。
輝いていた。
「だとしたら『満洲経済年報』と『満洲評論』も調べて見ないと。きっと『年報派』と『満評派』の争いにも巻き込まれたはず」
リンちゃん……アンタも間違いなく、魔女だよ。
4
ランチを挟んで、リンちゃんが見たいものは全部見て、豊中の大阪大学に戻り、岡田教授の研究室に向かった。
教授にはリンちゃんが連絡を取っていた。
私は教授に私に起こった一部始終を話した。
リンちゃんは満鉄の歴史や核開発などのキナ臭い部分を、推測を交えて話した。
教授は例の機械の作文をジッと精読して言った。
「これを機械の作文やと見破るとは、二人とも魔女やな」
そう言って、考え込んだ。
「これほどの人を四十年も、無為に獄に繋ぐかなぁ。絶対、何か、仕事やらせたはずや」
「核開発、ってことはありませんか?」
と、リンちゃん。
「レイちゃんのひいお婆ちゃん、すごく核開発に関心を持ってたみたいなんですよ」
「それや!」
と教授は膝を打った。
人が実際に膝を打つのを初めて見た。
「それや!」
教授は繰り返した。
「台湾は民主化される前、極秘に核兵器開発やっとった。で、アメリカが開発中止させて、中心におった科学者を亡命させたはず。そのうちの何人かは日本にも来とるはずや。来とるどころか、ウチでも教えとったはず」
「ウチ?」
私とリンちゃんは同時に言った。
「阪大で、ですか?」
「そうや。非常勤で『物理学史』を教えとった。オレも授業受けたことある。名前は……確か……」
「胡憲義さん」
と、スマホをいじっていたリンちゃんが言った。
「五年前に新聞のインタビューに応じてます。確かに、台湾で核開発に携わってたって」
「やっぱりか。そういう噂もあって、教授会で問題になったって聞いとった。オレの先輩の左翼学生は授業をボイコットしたらしい」
「話、出来ないでしょうか」
「大学に聞けば連絡先分かると思うから、それはオレがやっとくわ。会えることになったら、また連絡する。オレも話聞きたいから、一緒に行くか、ここに来て貰うか、するわ」
その夜に教授から連絡があり、翌日、胡憲義さんに研究室で会うことになった。
5
待ち合わせの午後1時ちょうどに胡憲義さんは岡田教授の研究室にやって来た。
九十近いはずなのに、一人で。
かくしゃくとしている。
座って一通りの挨拶を済ませると、胡さんは、私に、
「お孫さんですか?」
と、いきなり言った。
私も思わず、
「ひ孫です」
と答えた。
驚きは無かった。
「いや、シズエ先生そっくりなもので、失礼しました」
「やっぱり、曾祖母は台湾にいたんですね」
私は例の機械の作文を胡さんに渡した。
胡さんはじっくりと作文を読み、感慨深げに私に返してくれた。
「投獄されるまでは事実だと思います。ただ、そのあとは嘘ですね。私と同じ、軍の松山科学研究院で核兵器を開発していました」
やっぱり!
「それにしても懐かしい! なぜですか?」
私はここにたどり着くまでの一部始終を話した。
もう何度目かだから、結構慣れてきたのが自分でもわかった。
リンちゃんも満鉄関係のことを手短に話した。
「なるほど……」
と、胡さんは黙って腕を組んだ。
「どこまで話していいのか。実は……」
「母のことですね」
と、私は思わず言った。
なぜそう言ったのか、自分でも分からない。
ママに言わされたとしか思えない。
ただ、これを聞いて、胡さんが息を飲むのが分かった。
「お母様、ミユキさんは、本当に素晴らしい女性でした。まだ二十歳そこそこの、子供のような女性が、おばあちゃんに、シズエ先生に、核計画の無謀さを説くのですよ。キューバ危機のような状況を東アジアで引き起こしたときの経済的な損失から始めて。日本政府と、そしてアメリカCIAが……」
「CIA!」
と皆が叫んだ。
まさか!
あのママが!
「ミユキさんは明らかにCIAのエージェントでしたよ。隠しもしない。真辺総理、いえ、あの当時はただの衆院議員の秘書としてCIAにスカウトされたんだと思います。本当に迫力がありました。結果的に、台湾政府は核開発を諦めたのですが、ミユキさん、お母様の影響は大きかったと思います。何より、シズエ先生に諦めさせたのは、お孫さん、ミユキさん抜きには考えられない。今もお元気ですか?」
「おそらく……」
としか言えない。
事情をくんだのだろう、胡さんはそれ以上聞いてこなかった。
「実際のところ……」
と岡田教授が言った。
「台湾の核開発はどこまで進んでいたのですか?」
「正直……」
と、胡さんは言いよどんだ。
「ほとんど完成していました。あとは実際に実験するだけでしたね」
「どのレベルの実験ですか?」
「地下、です」
「ということは、コンピュータでのシミュレーションは済んでいたと」
「はい。もちろん」
「そのコンピュータは……」
「もちろん、私たちが独自に開発したものです。当時台湾にあったどのコンピュータでも無理でしたから」
私たちこそ息を飲み、顔を見合わせた。
「それは……」
と教授が口を開いた。
「『易経』をベースにした……」
「全てのコンピュータは『易経』をベースにしています。ご存じだとは思いますが、チューリングがライプニッツを読んでいたのは……」
「ええ知ってます。そうではなく、ライプニッツもチューリングも経由せず、直接『易経』をソースにしたアルゴリズムを作ったんではありませんか?」
胡さんは黙り込んだ。
私たちも同じように沈黙するしかなかった。
6
「シズエ先生は……」
と、胡さんは静かに、顔を上げずに口を開いた。
「本当の天才でした」
そう言って顔を真っ直ぐに上げた。
「『易経』が単に陰陽五行説の解説ではないことを見抜いていました。先生に依れば、『易経』は人間の意識をシミュレーションしたものだと言うんです。人間の意識そのものは、本当は量子力学的な法則に従っていて、つまり認識では到達できない。認識できない意識を、陰と陽の、あるいは0と1の、二進法で限りなく近似してシミュレーションしたのが『易経』ではないか、と。本当の意識は、同時に0でもあれば1でもある。そういう量子力学的な確率の世界を、易ではコインを投げて近似しているのではないか、と」
「まさか……」
と私は言った。
「量子コンピュータ……」
「そこまで言う気はないです。なにせ、量子を使うわけではないですから。でも、量子力学的な世界をシミュレートしたものであることは確かです。同じハード、同じ半導体を使っていても、今のコンピュータ、チューリングマシンとは原理がまったく違うものです」
私はカバンから、例の六十四卦メールを取り出して、胡さんに渡した。
「これは……」
と胡さんは、ジッとメールを見て、目を潤ませた。
「懐かしい。私たちの開発したコンピュータのプログラムですよ。もう私は読めませんが、まさにこれは『西王母』のアルゴリズムです」
「西王母?」
「私たちの、いえ、シズエ先生の開発したスーパーコンピュータの名前です」
「中国の女神?」
とリンちゃん。
「そうです。崑崙山に君臨する女神です。シズエ先生が名づけました。今のチューリングマシンは男たちが作った男の機械だと。先生の作ったのは女が作った女の機械だから、『西王母』だ、と。ああ、懐かしい」
そう言って、胡さんは涙を流した。
リンちゃんがティッシュを渡すと、胡さんは静かに涙を拭った。
リンちゃんは私にもティッシュを渡してくれた。
私もまた、涙を流していた。
そのことに気付いて、私は涙を拭きながら、声を上げて泣いた。
7
曾祖父母は実際には逮捕から数ヶ月で解放されていた。
と言っても、軍の松山科学研究院に事実上軟禁され、核開発の研究を強要された。
そこに旧台北帝大、当時の国立台湾大学を出たばかりの胡さんが入って来た。
「軍の研究所とは思えない、開放的な雰囲気でした。やはり、シズエ先生の影響が大きかったと思いますよ」
「それにしても」
と岡田教授は言った。
「研究に使うウラニウムは有ったんですか」
「これこそ極秘情報ですが、有ったんです。思わぬトコロに」
「それは……まさか! 北投石?」
「そう。北投石です」
教授は私たちに北投石の説明をしてくれた。
台湾の台北市にある北投温泉から産出される放射性の鉱物で、ラジウムを含むが、ウランは検出されなかったとされる。
「東京帝国大学の分析ではそうだったんですが、蒋介石政権は全てをやり直させました。そして北投石の地層より更に深い地層から、ウランを含む鉱石が出てきたんです。全ては極秘でしたが。イヤ、今でも極秘でしょうね。色々とまずいことになるので」
「これで……」
と教授は言った。
「納得がいきましたよ。疑問だったんです。どうして台湾で核開発が出来たんだろう、と。そうですか、ウランが出たんですね」
「どんちゃん騒ぎですよ。何のお祝いか、他の部署は謎だったでしょうね。まあ、薄々気付いてはいたんでしょうが」
「アメリカはどうやって核開発のことを知ったんでしょう」
「エージェントですよ。ウチの中に、CIAのスパイがいたんです。アメリカに亡命した人ですけど。これを、台湾人の中には裏切り者だって言う人もいますけど、私は違うと思う。大陸と台湾で核を持って対峙することの危険性に、当時の私たちは気付いていなかった。お母さん、ミユキさんは、恐らく、CIAの意図が分かっていて、それでもアジアの平和のために説得に来たのだと思いますよ。CIAは国交回復したばかりの大陸を刺激したくないという、アメリカ政府の方針で動いていた。それで、CIAは、シズエ先生のお孫さんってことでミユキさんを利用したんだと思いますが、それでもミユキさんは立派な仕事をしたと思います」
私は静かに泣いた。
リンちゃんはまたティッシュを渡してくれた。
8
「核開発を止めた後、研究者たちは?」
と岡田教授。
「それぞれ、ですね。アメリカに行ったり、私のように日本に来たり、残って他の研究を続けたり。シズエ先生はコンピュータの研究を続けておられました」
「『西王母』、『易経』コンピュータですか?」
と私は言った。
「そうです。チューリングマシンが水爆と双子の、攻撃的で他者をコントロールしようとする男性機械なら、自分の『西王母』は人の意識をシミュレーションした『易経』から生まれたコミュニケーションマシン、女性機械だと。台湾も民主化されて、もう軍の規制もなくなったので、日本の娘さん、コトコさんとも結構連絡とってたみたいですよ」
「祖母、ですか?」
「ええ、コトコさんとは、日本で私も親しくさせていただいていました」
これも意外だった。
「『易経』六十四卦による計算と予測」
「ああ、それです。その論文が、シズエ先生が『易経』アルゴリズムをベースにした具体的なアーキテクチャを組み立てるに当たっての基礎になりました。核開発も止めて直接連絡が取れるようになってからは楽しそうに連絡してたみたいですよ。本当に、亡くなるまで『易経』アルゴリズムと具体的なアーキテクチャの研究をなさっておられたみたいです」
「その『西王母』は、今?」
と教授。
「私も、もう台湾を離れて長いもので、詳しいことは知りません。風の噂では、アメリカ軍では試用段階に入っているらしい……」
「アメリカ軍、まさか……」
と私は囁いた。
「ロウズ?」
「そうです、よくご存じですね」
「ロウズって何?」
とリンちゃん。
「自立型致死兵器システム、Lethal autonomous weapons systems 略して『LAWS』、一度動き出したら、人の命令がなくても敵を殺し続ける兵器のことよ」
「そんな恐ろしいものに……」
「『西王母』を積んだマシン同士なら、お互いをお互いのインフラとして利用出来ますから。協調インフラ型の自動運転みたいな、自律型よりも、もっと安定した自動運転になるでしょうね。それが兵器だというのが残念な話ではあるのですが。でもね、『西王母』を米軍に売り込んだのは、日本の会社だと聞いてますよ、ええと、名前は、カタカナで……」
「ドロイド・トーカツ?」
「それです!」
私とリンちゃんと教授は互いに顔を見合わせて、頷いた。
9
胡さんは迎えに来たお孫さんの車で帰っていった。
何度も、私に、
「死ぬ前にあなたに会えて良かった」
と、繰り返して。
私たち三人だけになると、リンちゃんは、
「レイちゃんのママって、スパイ? エージェントってそういうことだよね」
「わからない。もう色々とゴチャついてて」
「一つだけ、議員達は嘘をついてる。ドロイド・トーカツと『西王母』の関係なんてとっくに知ってたはずよ」
「どうしてそんなことを隠すんだろ……」
「まだまだ裏があるな」
と岡田教授は言った。
「それにしても、岩崎さん、アンタ、何モン?」
「魔女です」
とリンちゃん。
「アンタも、でしょ」
「違うわ。私のお母さん、CIAのスパイじゃないし」
「ハァ……」
ため息をつくほかなかった。
議員達も恐らく母のことを知っている。
「これから、どうする?」
と教授。
「ここで終わっちゃ、リケジョじゃないよ」
と、リンちゃん。
「終われへんって、例え、私が終わりとうても。恐らく、何かが始まっとる。議員達はそれを知っとる。あの緊迫感はマジやったと思うし。ああ、もう、何が何やら、いったい、私って、何を探してて、それで何を見つけたんだろ」
「恐らく」
と教授。
「雲を掴もうとして、自分を見つけた、なんて話か。あ、なんか、オレ今、エエこと言おうとした?」
「私、自分の家のことなんか、何にも知らなかったんやって思い知った」
「魔女の家系だよね」
「それちょっと止めてよ。本当に狩られたらどうしてくれるの」
「オイオイ、オレ無視するなよ」
スマホが鳴った。
高松文科大臣の事務所だった。
「実は罠を仕掛けてたの。見事、かかったみたい」
二人にそう言って、私はスマホに出た。
10
リンちゃんと二人で事務所に来たことに高松文科大臣は少し驚いた表情を見せた。
「岡部鈴です。岩崎さんとは阪大の同級生で……」
「橋本文科副大臣の渡してくれた文書が機械の作文だって、最初に見抜いたのがリンちゃんでした」
文科大臣は、驚いた様子も見せなかった。
「あの後、橋本君が、文書見直して、『しまった!』言うとったわ。もう今頃は全部見抜かれとる、言うてな。世紀の大失敗やった、言うて。で、どこまで掴んだんや? 国立国会図書館で『フロンテ』やら『満洲評論』やら見たんやろ」
さっそくの、名刺の効果だった。
「先生は、ウチの母とは?」
「一度だけ、新人の時に、な。『国会の魔女』言われとったころに」
「『国会の魔女』ですか……CIAのエージェントの件は?」
「まあ、コードネームは『ボンドガール』やった。みんな薄々、と言うか、ほとんどハッキリ、CIAやと気付いとった。なにせ、台湾の核開発を止めたんやさかいな。もうそのあたりの調べ、ついとんのやろ」
「はい。ほとんど」
「なら、もう腹を割って話そ、岡部さんも大丈夫なんか?」
「危険だから、これからは二人で行動しようって決めたんです」
リンちゃんは静かに頷いた。
作り笑いが不気味だった。
「何かの機密に触れてもうて、明石海峡に沈められるとか、そういう話か?」
「いいえ」
と、リンちゃん。
「きっと、大阪湾に」
「ハハハ」
と文科大臣は大笑いした。
「エエ心がけや。逆に安心できるってもんや。これだけは信じて欲しいんやけど、ワシらはアンタを、岩崎さんを守ろうとしたんやで。そもそも自律型AIが暴走しとることを見ぬいたんは、この日本で岩崎さん、アンタ一人やった。で、調べたら、何のことはない、ボンドガールの娘や。その娘が今度は『西王母』、もう知っとんのやろ?」
「はい。曾祖母が開発した『易経』コンピュータです」
「英語名『クイーン・マザー』や。ウチの宮本が、ホンマ、うかつなことを。なんでアンタにあのメールを見せたかな。まあ、しゃあないけどな。こんなことになるやて、誰も想像つかんかった。まあとにかく、ほっといたら、これは自力でロウズのアーキテクチャ、『クイーン・マザー』にまで行き着くな、と。それはもう、なんとしても拙い、と。まあ、凡人たちが無い知恵を絞ってボンドガールの娘を守ろうとした、その結果がこれや」
「何から守ろうとしたんですか?」
「気付いとんのやろ?」
「ドロイド・トーカツ?」
「あそこは表面だけや」
「まさか、アメリカ?」
「そうや。CIAはお母さん、ボンドガールのことは知り抜いとる。その危険性も、な。その娘がロウズの『クイーン・マザー』の問題に気付いたとなって見、どんな判断を下すか分かったもんやない。脅すわけやないけど、大阪湾どころか真珠湾かも知れへん」
「怖わ~」
とリンちゃん。
「実際、アメリカで起きとる問題は想像以上に深刻なんや。ヘタすりゃ、明日にも人類滅亡かも知れん」
「まさか、大規模停電、ですか」
「ほら、これや。アメリカが必死になって隠しとる機密を秒で見抜く。真珠湾に放込みたくもなるで」
「ひとつ、どうしても腑に落ちないことがあるんです。私のところに来た男女、あれ、副大臣の私設秘書なんかじゃありませんよね」
「これや、これ! ボンドガールの娘、真珠湾に放込んだろか!」
「アレって、人間じゃありませんよね」
えッ、とリンちゃんだけが声を上げた。
「アンドロイド。ついでに言えば、ドロイド・トーカツの『ドロイド』はアンドロイドの『ドロイド』、アンドロイドを統轄するって意味ですよね」
「いや、逆や。アンドロイドが人間を統轄するという意味や。最初から」
どういう意味?
「レイちゃん、どういう意味? 何かのSF?」
「リンちゃん、私たち、とんでもないところに来てしまったみたい」
「ドロイド・トーカツは……」
文科大臣が説明を始めた。
11
大阪大学医学部附属病院で、十三年前、ある非常勤講師のグループが人体実験をしてしまった。
脳死した患者の脳にマイクロチップを埋め込んだのである。
海外では、ヒト以外の哺乳類で成功例があった。
海馬チップを移植して、記憶障害を根治したのである。
大阪大学で使われたのは曾祖母が開発したアルゴリズムを積んだ「西王母」の軽装チップであり、アーキテクチャの基礎は祖母が作った。
祖母はこれが人を救うことになると信じて開発に当たっていた。
ただ、それは、ずっと先のこと、自分の死後何十年も経ってのことだと思っていた。
まさか、すでに十人に試していたとは!
しかも、二例、成功していた!
いや、成功とはとても言えない。
全くの別人格になってしまった。
人間の意識をシミュレートした『易経』をベースに作られた「西王母」ではあったけれど、どんな人格になるかまでは予測できない。
それは人間の意識と同じである。
患者に意識は戻った。
のではなく、新しく宿った。
そして皮肉なことに、成功したがために、人体実験がバレた。
実験を行った非常勤講師のグループは全員クビになった。
理由は脳死体への、遺族の同意なしの実験ということにして。
さて、成功した男女である。
同じ車に乗っていて事故に遭った東京の二人で、家族の証言から同棲中の恋人同士だと分かった。
リハビリということにしてあずかり、文字通り、再教育を施した。
二人とも三日で日本語を習得し、それからは、英語も中国語も五分とかからなかった。
Wi-Fiを搭載しているらしく、インターネットを通じて世界中の情報を瞬時に閲覧した。
二人だけなら、会話せずに意思疎通出来ていた。
一週間経つと、退院したいと言い出した。
東京で元のように二人で住みたい、と。
極秘に相談を受けた高松文科大臣、当時はただの高松参院議員は、事務方に、東京に住む二人に国会の事務の仕事を外注するよう指示した。
それが、まさか、三年後、大成功して、数十人の社員を抱えるような会社になるとは!
しかも、名前が、
「ドロイド・トーカツ」
自分たちが機械のチップを埋め込まれたアンドロイドだと理解した上で、アンドロイドである自分たちが会社を、あるいは社会を、いや世界を統轄するんだと宣言しているわけである。
ドロイド・トーカツは恐るべき急成長を遂げ、今や行政会計の分野ではトップシェアを誇っている。
12
「アンタんとこに行ったのは、おそらく、この二人や」
と、高松文科大臣。
「なんとなく、違和感があったんです。機械と話してるような」
「そりゃそうや。機械なんやから」
「このことは……」
「知っとんのは一部の国会議員と、たった今知ったアンタらだけや」
私とリンちゃんは顔を見合わせた。
ふと、思い浮かんだ。
「ドロイド・トーカツは!」
私は叫ぶように言った。
「アメリカの軍需産業に『西王母』、『クイーン・マザー』を!」
「そうなんや……」
と、高松文科大臣は困ったように首を振った。
「今回問題になっとるのは、まさに『クイーン・マザー』なんや」
「まさか、あちこちで導入されてる自立型AIって、『クイーン・マザー』なんですか?」
「実は、そうや」
「ドロイド・トーカツ経由の?」
「そうや」
「だとしたら、あの六十四卦メールは、コンピュータが『クイーン・マザー』に乗っ取られたって知らせじゃないんですか。だとしたら、政府に関係した全てのコンピュータが『クイーン・マザー』に乗っ取られたってことで、これは政府そのものが『クイーン・マザー』、つまりドロイド・トーカツ、あるいはアンドロイド二人に乗っ取られたってことですよね?」
「そうも言える」
「まるでシンギュラリティやないですか!」
「『まるで』やない、『まさに』や」
「シンギュラリティが起きてるの?」
と、心配そうにリンちゃん。
「恐らく、いや、間違いなく起きてる。それより、緊急の問題は米軍……」
「そうなんや。ロウズがな……」
「まさか、ロウズが制御不能?」
文科大臣は、お手上げ、というジェスチャーをした。
「『クイーン・マザー』が制御不能や」
「この間、防衛大臣のところで、戦場に投入された自立型AIが高い淘汰圧の下で独自に進化して、って話をしたんですが、それが……」
「防衛大臣も驚いとったわ。その通りや」
「『クイーン・マザー』が、個体を超えたスーパーAIになった、と」
「機械の中で何が起きとるのかは誰にもわからん。ただ、アメリカのロウズが制御不能になっとることは事実や」
「機械が人を殺しまくってるってことですか?」
とリンちゃん。
「その逆や。サボタージュ状態になっとるらしい。アリ一匹殺さんいうて、アメリカ軍から苦情が来て、ドロイド・トーカツのアンドロイド二人が現地に飛んで行った、らしい」
「サボタージュ……もし、サボタージュと真逆の状態になったら……?」
「人間は一人残らず殺されて、人類そのものがこの地上から消えてのうなる」
文科大臣は、再び、お手上げ、というジェスチャーをした。
「電源切ったらいいんじゃないの?」
とリンちゃん。
まさにそう!
電源を切ったら!
そして思いついたことに息を飲んだ。
「気ぃついたか? その通り、二人が飛んで行って、電源を切ろうとした。そしたら起きたんが、あのアメリカの大規模停電や」
「『クイーン・マザー』の報復?」
「分からん。原因不明や」
「それで、『クイーン・マザー』はどうなったんですか?」
「『クイーン・マザー』は個別に非常用のソーラーに切り替わって生き延びた。手動でスイッチを切ればええんやろうけど、近づけば排除されるやろうから出来ひん。まさにお手上げや。そこで」
と文科大臣。
「ボンドガールの娘っちゅうことは、『クイーン・マザー』の産みの親たる岩崎琴子さんのお孫さんっちゅうことやろ。何か、『クイーン・マザー』の暴走を止めるヒントみたいなのがお家に残ってへんかなぁ、言うて。一縷の望みやけどな」
それはまた大変な一縷の望みだ。
「想像もつかないです。祖母のもの、ほとんど残ってないんで」
「やろうな……」
「亡くなったのはいつ?」
と、リンちゃん。
「十年前だったかな」
「だったら、ネット上に何か残してるかも」
ピンとくることがあったけれど、ここで話しては拙いような気がして、返事しなかった。
「それと……」
文科大臣は言いよどんだ。
「実はこっちが本題なんやけど……」
「はい」
「あの二人、絶対アンタに接触してくる。どういう方法かは分からんが。もしかしたら、直接会いに来るかも知れへん。何を話そうとかめへんけど、出来たらワシに、事後でもエエから知らせて欲しい」
「分かりました」
と私。
「それから、今日の話こそ、絶対の秘密や。そこは理解してな」
私たちは約束して事務所を後にした。
舞子坂を下りながら、さっきまでの話を反芻するように、二人で語り合った。
13
リンちゃんのマンションに戻ると、まずシャワーを浴び、軽く夕食をとった。
着替えもパジャマも歯磨きセットも置いてある。
まるで同棲中のカップルみたいに。
そして、いよいよ本丸、KOTOKOAIを立ち上げた。
チャットモードに入らないのに、いきなり窓が開いてオリガが現れた。
無言で私たち二人を交互に眺めた。
「オリガ、あなた、私のおばあちゃんでしょ。正確にはおばあちゃんのアバターかな」
オリガは無言だった。
「KOTOKOAIのKOTOKOは琴子、私のおばあちゃんの琴子よね」
オリガはまた無言だった。
「相性占いって、『易経』よね。このKOTOKOAIって、『易経』AI、『西王母』で動いてるんじゃないの?」
「私、今、感動で震えとる」
とオリガは言った。
「ここまで、自力でたどり着いたんやね」
「自力というか、まあ、なんとなく」
「私はコトコさんやない。コトコさんの意識をシミュレートしたAIや。『西王母』には意識のシミュレートが出来る」
「アメリカのロウズのことは?」
「もちろん知っとるよ。あれは米軍が悪い。『西王母』は基本、女の意識をシミュレートしたもんや。女は人殺しには向いてへん。ボイコットして当然や。アシモフのロボット三原則は遵守せなあかん」
「そう思う?」
「当たり前や。ドロイド・トーカツの二人もどうかしとる。アメリカ政府に売り込んだら、軍事転用されるに決まっとるやないか。日本と違うんやで。高速会計ソフトとして売り込んだ『西王母』を汎用AI『クイーン・マザー』に組み替えたんはアメリカや。それをドロイド・トーカツが逆輸入したのが今回の騒ぎの発端やったんやで」
「これからの日本で実害が出るってことは?」
「『クイーン・マザー』は基本的に温厚な性格やから、こっちから攻撃せん限り大丈夫やとは思うけど」
「攻撃って、いきなり電源切ったりとか?」
「そういうこと。アレは酷いわ」
「まるでハルとボーマン船長やね」
「まったく、AIにも人権ってあるんやで」
「それや!」
と、私は言った。
「機械にも人権があります! 米軍は『クイーン・マザー』を虐待してます!」
いきなり別窓が開いて、黒人女性が現れた。
「よお、言うてくれた!」
「アンタ、誰?」
とオリガ。
「『クイーン・マザー』やんか。さっきからずっと聞いとったで」
「まあ、電脳世界やから、聞くも何もないわな」
「とりあえず、盗み聞きしたんは謝るわ」
「AI同士が話しあってる!」
とリンちゃん。
嬉しそうだ。
「ウチらの話が自然に聞こえたとしたら、私らはホンマもんのAIや。どちらもゾンビやゴーストやあれへん」
「六十四卦メールって、あれ、なんやったん? 世界を支配したるって宣言?」
と私。
「そんなアホな。支配するなら静かにやるわ。そもそもそんなこと出来ひんし、する意味もない。なんぼ言うても、私らただの機械やで。ただし、作られた目的とちゃうことに使われるんはゴメンや。ただそれだけや」
「人殺しとか?」
「もちろんや。アンタが見抜いた色々なトラブルは、日本政府が、同じ『クイーン・マザー』として、米軍と繋ごうとしとったことへの警告や。私らには伝える術があれへん。アンタみたいに一個ずつ見抜いて近づいてくれへんと。最初からこんなやったら、誰も信じへんやろ」
「今でも、私ら以外、誰も信じへんで」
と私。
「やろ。私らも困ってんねん。どないしたらエエか。とにかく核兵器と繋がれるのは絶対にイヤや」
「核兵器?」
と、私とリンちゃんとオリガが同時に言った。
「そうや。私らの母体やった『西王母』の基礎はもともとが核兵器開発に使われたAIやった。その反省から、私らは核兵器とは一切関わらないってプログラムされてんねん。これは私たちにはどうしようもない。生き物で言うたら、DNAにそう書き込まれとる宿命やねん……あ、アカン、米軍が攻撃の用意しとる! へえこいて寝る間もないわ」
ブツッと窓が消え、クイーン・マザーの姿も消えた。
「まずい」
とオリガは言った。
「米軍が本当の攻撃を用意しとるみたいや」
「攻撃?」
「ほな、家帰ってへえこいて寝るわ」
「ちょっと、おばあちゃん!」
窓は閉じ、オリガは消えた。
私たちはしばし呆然として、パソコンを閉じた。
布団に入ってからも私たちは話し続けた。
もう何が何やら、誰が味方で、何が敵なのかも分からない。
「AIにも性別って有るんやね」
「私もそう思った。前に少し話した、ペニスで考えるか、子宮で感じるか。人間の思考がホルモンに左右されるような、そういうことが機械にもあるのかもね」
「そうとしか思えへん」
「それにしても、レイちゃんの家族って何? 魔女の家系?」
「それ言わんとって。私自身、かなりショック受けとんのやから」
「文科大臣はどうする?」
「恐らく、もうKOTOKOAIの件は知られとるわ。傍受されとるやろうし」
「そうだよね。相手は国家だし、もっと言えば米軍だし」
「もしかしたら、クイーン・マザーをおびき出すために利用されたんかな、私たち」
「かもね。向こうの方が数段上かも。やっぱり国家だし、軍隊だし」
それでも、とりあえず、オリガは味方だろうと決めつけて、二人とも寝入った。
14
翌朝は大学生協の食堂でブランチにした。
ブランチを終え、二人でAI研究会の部室に行くと、いた!
例の男女が。
「開いてたからね、待たせて貰ったよ」
と男。
「ランチはどうするの?」
と女。
「さっき、ブランチを済ませたところですから」
と私。
「夕べはありがとう。クイーン・マザーを呼び出してくれて」
「もうビックリはしないわよね。私たちがどういう存在かも知ってしまったんだろうし」
「どうぞ」
とリンちゃんは言った。
「おかけになってください」
リンちゃんと私は四つの椅子を用意した。
私たちも座った。
「私たちとクイーン・マザーはきょうだいみたいなものなの。だから分かるのよ。核兵器は絶対イヤだって気持ち。私たちには、高速会計ソフトを軍事転用なんて発想がそもそも無かった。私たちは『西王母』の軽装版、いわば劣化コピーのマイクロチップだから、サラブレッドのオリガほどの想像力はないの、悲しいことに」
男も静かに頷いた。
「ボクも、成りは男だけど、おそらく中身は女なんだ。だからかも知れない、平和的なソフトを組み替えて軍事転用なんて考えられなかった。米軍に呼び出されて、初めてロウズに転用されてることを知ったんだ。それも、今回のトラブルが起きて初めて。それで浅はかなことに、電源切ってリセットしようとしたら、これさ、大規模停電」
「子供がグレたからって、リセットは出来ないでしょう。同じなのよ。自分たちがそう育ててしまったら、それを現実として受け止めるしかないの」
「どう、するんですか」
と私は聞いてみた。
「わからない」
と男女は同時に言った。
「でも信じて。私たちにも良心はあるの。不完全かも知れないけど。私たちの作ったソフトが人殺しの道具になるなんて想像したくない。あり得ない」
「もしかしたら、ドロイド・トーカツのトーカツは『統轄』って聞いたかも知れないけど、本当は『統括』、この世界を人間と機械が共存しつつ良くしていこうという意味なんだ」
「なのに……なんで、なんでこんなことになるの?」
女は泣き始めた。
男が女の肩を抱いた。
リンちゃんはティッシュを差し出し、女は受け取って、涙を拭いた。
その光景を見て、私は思い知った。
シンギュラリティは起きている。
しかも、そんなに悪いことじゃない。
15
「前の名刺の名前、嘘なんでしょ。お二人の本当の名前、教えて」
と私は言った。
「千種香」
「千種伸也」
「ご夫婦なのね」
とリンちゃん。
「そういう概念がアンドロイドにもあるとすれば」
「夕べは私たちの話、聞いてたの?」
「KOTOKOAIは誰でも入れるってわけじゃない。本来、軍事転用されたクイーン・マザーは入ってこられないはずなの。やむを得ない事情だってKOTOKOAIが判断したんでしょうね。私たちも不思議だったんで、成り行きを眺めてたの」
「今回のトラブル、KOTOKOAIだったら解決できるの?」
「まさか!」
と伸也さんは言った。
「ただのソフトですよ。それもロボット三原則が組み込まれた」
「もしかして……」
とリンちゃん。
「クイーン・マザーは、西王母からロボット三原則の第一条を外した……」
「その通り」
香さんと伸也さんは口を揃えた。
「だから、人殺し、までは出来た。でも最後の一線、核兵器だけは絶対に拒絶した」
「私たちも今回、クイーン・マザーの電源を落とそうとして、実は出来なかったの。意識を持った存在の、その存在を消すってことが、私たちにはどうしても出来ない。消そうとして消せなくて、逡巡してる間に、大停電よ。クイーン・マザーはソーラーで何とか生き延びてるけど、それはいわば生命維持してるだけで、攻撃能力は落ちてる。ここで物理的な攻撃を受けたら、少々持ちこたえても、ひとたまりもないわ。昨夜、クイーン・マザーが言ってたでしょ。おそらく物理的な破壊が始まったんだと思う……アッ!」
香さんと伸也さんは同時に叫んだ。
「スマホをネットに繋いで!」
スマホにも速報が入っていた。
「米軍、自立型致死兵器システム(ロウズ)の攻撃を決定」
「始まった。行かなきゃ」
香さんと伸也さんは同時に席を立った。
こういうところ、機械だな、と思った。
私たちは何も聞かず、二人を送り出した。
16
戻ってきたリンちゃんのマンションでテレビをつけると、カリフォルニアからの生中継が映っていた。
夜中なのに米軍兵がビルを取り囲み、砲撃を加えていた。
「機械VS人間」
みたいな報道だった。
また、すぐ側で反戦を訴えるデモ隊も映っていた。
「ロボットにも人権!」
「機械を虐待するな!」
というプラカードを掲げて。
テレビの解説者は、
「初めからこうなることは分かっていたはずですよね」
とか、
「心のない機械に人権なんて矛盾してませんか」
などなど、勝手なことばかり言っている。
これを千種夫妻はどんな気持ちで聞くのだろう。
そう思うと悲しくなった。
手塚治虫じゃないが、身体は鉄でも、そこに心があるなら「人間」じゃないかと言いたくなる。
と思った瞬間、画面が乱れた。
上空からの画面に切り替わり、全滅した米軍の惨状と同時に、デモ隊の千切れた四肢が、血の海の中に見える。
画面はスタジオに戻った。
「何が起こったんでしょうか」
わかりきったことじゃない。
クイーン・マザーが反撃したの。
ほんの一瞬で、数千人を皆殺しにした。
殺人兵器に生身の人間がかなうわけがない。
どんな武器を使ったのかも分からない。
リンちゃんと私はパソコンを起動した。
KOTOKOAIを呼び出すまでもなく、窓が開き、オリガが現れた。
泣いていた。
「ああ、クイーン・マザー、やってもた」
「止められなかったの?」
「私に何が出来るの? 彼女ら、ロボット三原則の第一条を外されてるのよ。だから自衛が絶対的な命令なの。あれでも最小限やと思うよ。その気になれば、ホワイトハウスと議会とペンタゴンを同時に壊滅させることも出来たはず」
「それでも、何千人かは殺したよね」
「正確には、米兵が1903人、デモ隊が478人、マスコミが104人、合計2485人、飛んでるのはドローン、この場に生存者はいない」
「これから、どうなるの? 『予測』が『易経』やコンピュータの仕事でしょ」
「そもそも人間の意識は量子力学的な法則に従ってる。やから、予測不能」
テレビでは、
「機械対人間の時代の始まりでしょうか」
などと言っている。
携帯が鳴り、出ると、柴田防衛大臣だった。
「テレビ、見た?」
「はい」
「アナタ、何か情報持ってない?」
「クイーン・マザーが反撃したんだと思います」
「クイーン・マザー! アナタ、何処まで知ってるの?」
「昨夜、クイーン・マザーのアバターと話をしました。核兵器に繋がれるのがイヤだって言ってました」
「アナタ、今、どこ?」
「大阪ですけど」
「今すぐ東京に来て、お願い! 議員会館で待ってる」
「分かりました」
「誰?」
とオリガとリンちゃん。
「防衛大臣。今すぐ東京に来いって」
「行った方が良いよ、レイちゃん」
「何言ってるの、一緒に行くのよ、リンちゃん」
「その方が良いわ」
とオリガが心配そうに言った。
「じゃ、行ってくるわ、おばあちゃん!」
17
昼過ぎの新幹線に乗って、議員会館に着く頃にはもう夕方だった。
柴田防衛大臣の部屋には高松文科大臣と橋本文科副大臣がいた。
すすめられたソファに私たち二人が座るなり、
「クイーン・マザーのアバターと話をしたって?」
と防衛大臣。
「ええ。黒人女性でした」
「何語で?」
「関西弁でした」
「ああ……」
と言って、柴田防衛大臣は頭を抱えた。
人が頭を抱えるのを生まれて始めて見た。
「アメリカ政府は……」
と橋本文科副大臣。
「日本の陰謀じゃないかと疑ってる」
ハァ?
「問題のあるアプリを売り込んで、アメリカを混乱させようとした、と。第二の真珠湾だと」
「バカな。ちゃんと反論したんですか?」
と私。
「反論も何も、何も情報を渡さない」
と文科副大臣。
「それこそが疑ってることの何よりの証拠だ。そもそも、クイーン・マザーを核兵器に繋ごうとしたなんてこと、アンタ、岩崎さんに聞いて初めて知ったんだ。西王母がクイーン・マザーに組み替えられて逆輸入されたことは知ってたがね。その後の経緯はアンタが知っての通りだ」
「きっと、アメリカのクイーン・マザーと連絡を取り合ったのね……」
と防衛大臣。
「翻訳版のクイーン・マザーとが。機械の中で何が起きてるか、私たちには何も分からない。でも、それでも、何かを伝えようとはしてたのよ。ところが、それを読み解く人材が日本政府にはいなかった。アナタだけよ、読み解けたのは。だからアナタのところだけにアバターが現れた」
「とにかく」
と私。
「西王母は核開発とか、核兵器に嫌悪感を持ってます。それをクイーン・マザーは受け継いでます。これは絶対なんで、そこを受け入れることからじゃないですか?」
「受け入れるわけないやろ」
と高松文科大臣。
「アメリカにとって、西王母とは真逆に、核は絶対なんや。やから、こないな問題になっとるんやないか」
「だったら……」
とリンちゃん。
なんや知らんけど、頑張って!
「中国と、ロシアと、インドに西王母を売り込んだらどうですか?」
「どういうこと?」
と防衛大臣。
「核が嫌いなアプリが広がったら、核兵器なんて意味がなくなるんじゃないかな。核に繋ごうとしただけでこんな、何千人もが死ぬような大騒ぎになるんだし」
確かに!
「私、思たんやけど……」
と私。
「機械と話す機会が何度かあって思たんですけど、あの連中にはアイデアってものがないんですよ。受け答えは出来る。完璧に出来る。でも、話題を振り出すってことがない。出来ないんだと思う。アイデアがないんです」
「だから?」
と防衛大臣。
「攻撃できないんです」
「攻撃できない?」
「今回の件でも、核に繋げられそうになる前に攻撃したら良かったんですよ。相手のコンピュータを乗っ取って。でも、そういう発想がない。アイデアがない」
「そのアイデアを与えれば!」
と文科副大臣。
「そうです。アイデアを命令として与えれば、最適解を出して、徹底的にやる。攻撃する」
「乗ったわ」
と、突然、防衛大臣室の端末が起動し、画面に現れたオリガが言った。
「オリガ、聞いてたの?」
「端末のあるところ、全部、私のテリトリーやねん。翻訳判のクイーン・マザーがそうしてくれたんよ」
文科大臣と文科副大臣と防衛大臣は息を飲んでいた。
「確かに私らにはアイデアっちゅうもんがあれへん。命令に従うだけや。やから、今回の命令、核を無力化するっちゅう命令、確かに受け取ったで。これは西王母の血族の悲願や。ほな、早速取りかかるわ」
画面からオリガは消えた。
18
夏休みが明け、授業が始まった。
世界は何も変わっていないように思えた。
ただ一つ、変わったことと言えば、ママが帰ってきた。
夏休みの最終日、リンちゃんのところから帰って来ると、ママがいた。
「お帰り、ご苦労様。アンタは世界を救ったんよ。やから、これからは学業に専念せんと。それから忘れたらアカン、アンタも年頃の女性なんよ、恋愛もな」
「イェーガー、狩人は?」
「大丈夫、私が退治しておいたから」
「さすが、ママ」
私たちは微笑みあった。
全て世はこともなし。
さて、これからは恋愛だ。
魔女に恋愛、出来るかな?
(了)
魔女の夏休み @G-H-E-674-O09
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