温度
神にも空腹と喉の渇きはある。インドラはすっかり痩せた右腕で頭上に伸びるバナナに似た木の茎を掴んで引っ張り、葉に溜まった水を飲んだ。朝の水には前夜の冷えが残っている筈だが、予期に反して彼の口はこれを「冷たい」とは認識しなかった。どうやら「力」が失われただけでなく、知覚も弱まっているらしい。
「おい、俺にも飲ませてくれよ」
彼の左脇に抱えられた首がそう言って左右に揺れた。
「わかっている。そう急かすな」
彼は生首を持ち替えつつ上衣を右から脱いで折り畳み、地面に置いた。かつての友を地面に直接置くのは気が咎めたのだ。そしてナムチの首を置くと、先程の葉を四つ折りにして広げ、指で別の葉を用心深く曲げ水を注いだ。
彼が片膝をつきつつこの即席の皿を首の口元に持って行き、ゆっくり傾けてやると、首は喉を上下させて飲んだ。それと同時に、彼の上衣に水の染みが広がった。
「美味いな。といっても、水は喉を通って下に出ていくだけだが」
ナムチの視線は自らの真下から広がる染みを眺めている。その仕草は幾らか可愛げがあった。
インドラは残りの水を飲んだ。そして立ち上がって果実を幾らか採り、口に入れた。こちらも甘みが薄く、温かくも冷たくもない。ただねっとりとしたものを噛んでいるだけだ。更にサトウキビも折って噛んだ。先程よりは甘く感じられ、ぼやけた思考が僅かながら鮮明に近づいたように思えた。
彼は果実を首にも分けてやった。咀嚼音の後、噛み砕かれた果物がずるずると落ちた。首は顔を顰めた。
「良い気分じゃないな、唾と混じったものが付け根に当たるのは」
「それは悪いな。次からは物を食べさせる時はお前の下に壺を置くか、水に浸けるかしよう」
答えながら、彼は思った。
(我ながら愚かだな。この男と性懲りもなく共に飲み食いするなど……)
腕力さえ失っていなければ、一殴りで叩き潰せるものを、と彼は一瞬考えた。だが、直ちにその思考の誤りに気付いた。この首は、今なお殴ったのでは殺せないのではないか。
軽く空腹を紛らわせたところで、彼は濡れたままの上衣を身に付けて首を胸元に抱きかかえた。長い旅になる違いない。悠長に過ごすべきではない。
「水といえば、だ。水は湿っている。だからこうして安全に飲めた。一方でお前は俺を海の泡、つまり『乾いても湿ってもいないもの』でほぼ殺したわけだが、三界にはこうしたものが他にどれほどあるんだ?」
彼の腕の中の首が興味津々といった口ぶりで尋ねた。彼は一瞬この世のあらゆる事物をざっと思い浮かべ始めた。例えば首の言うとおり水は湿っている。果実はどうだ。生では湿っているが干せば乾く。干してはいたが腐りつつある肉や魚は?
と、ここで突如頭の中に電撃が走るような感触を覚えた。「思考」の力は植物の中に溶けていたらしい。
これは狡猾なアスラの罠だ。二人の友情がナムチによって破壊される以前に、インドラはナムチを「幾らかの例外を除く全ての条件において決して殺さない」と誓約し盟友となった。その「例外」の一つが「乾いても湿ってもいないもの」だ。
「友だった者よ、私がお前を利する答えを与えると思うのか」
彼は憮然として言った。
「どうだかな。お前は世界が評するよりも、そして自覚しているよりもお人好しさ。精々俺に寝首をかかれないように用心するんだな。ま、俺は二人仲良く首だけになるのも歓迎するが」
首は鼻で笑った。同時に息が彼の胸にかかった。生暖かい。どうやら温度に対する知覚も戻りつつあるようだ。
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