時忘れの浜辺と喪失の大神

ミド

身の上

 彼の名はインドラ、数多の力を人と神に乞われる限り振るい続け、時に武勇の神、時に雨の神、時に豊穣の神と、挙げ尽くせぬ権能を持つ神であった。だが、今やそれらは実態なき称号へと変わり果てていた。

 その肉体といえば武勇の神を名乗るにはあまりにも痩せ衰え、神の強弓を引き絞り一矢にして敵陣を潰すどころか、ごくありふれた剣を振り上げることすら覚束ない。

 実に惨めな有様だ。彼は朝の太陽が反射する海面の遠く先を眺め、軽く溜息をついた。唯一実態と違わぬ称号は「神々の王」であるが、王位を望む者が現われれば守り抜く術はない。

 彼が途方に暮れていたその時、何かが勢いよく無防備な後背に衝突した。彼はよろめき、浅瀬に両手をついた。これもまた、暫く前の彼ならば考えられないことだった。彼に備わる神威の力と、武人として肌に染み着いた感覚が、背後への一撃をこれ程容易く許しはしなかっただろう。

 彼は苦々し気に、振り向いた。そして目を見開いた。そこにいたのは、数刻前に彼が首を刎ねて殺したはずの宿敵、その首だったのだ。この仇敵或いは盟友の名はナムチ、アスラ族の将軍であった。

「よぉ、卑怯者。俺との誓いを破り捨て、こんな目に遭わせてくれるとはな」

 彼は愕然とした。改めて述べるが相手の首から下はない。首だけで生きている。

 だが、あり得ない話ではないのだ。彼が備えていた神力を奪い取ったのはこの男だ。その中には「不死」もあった。神の不滅性が首に残留していてもおかしくはない。

「なんだその顔は。よく見ろよ、お前の大事なお友達は、他ならぬお前の所為でこんな惨めな有様だ」

 首は口元を歪め、嘲る。

「そうだな。お前はそんな姿で辛うじて生きているが、もうじき死ぬ。私は此度も……」

 彼は右の拳に力を込めようとした。だが、まるで「力」は入らない。上腕から前腕を経て手へと筋が動くという現象がそこに起きるのみだ。

 彼は自嘲した。

「此度も、間もなく勝利するだろう。だが、それだけだ」

「ああ、そうだそうだ。俺を殺せば神性が戻ってくると思ったか? 残念だったな、お前に宿っていた力の総ては、一度はこの俺の手に収まった。だがお前が友である俺を裏切って殺したばかりに風に吹き散らされ、海の波に攫われ、大地に染み込み、何一つ留まりはしなかった!」

 首は大きく宙を舞いながら彼を嘲った。その声を大人しく耳に入れるうちに彼の怒りは猛烈に沸き上がり、その煮零れる壺の如き心の底からは「勇敢さ」の残滓が浮き上がった。

 そうして彼は以前と同じく声を張り、敵に戦いを挑むが如く宣言した。

「取り戻せばいいだけだ。ついて来い。私に不可能がないことを示してやろう。お前が残る生命の気を吐き尽くして息絶えるか、私が力を取り戻すまで、暫く共に旅をしようじゃないか」

 首は鼻で笑った。

「独り旅が寂しいのか? しょうがない奴だな。お前が頭を下げて頼むなら、聞き入れてやらなくもない。死が俺達を分かつまで、仲良くやろう。今度は裏切るんじゃあないぞ」

 これには彼も先程まで吊り上げていた眦を下げ、口元を緩めずにはいられなかった。この首に胴があった頃は、これに両手を広げて打つ大袈裟な仕草も加わっていたものだ、と彼は懐かしんだ。

「私が裏切ったなどと、どの口が言うか。騙し討ちにしたのはお前の方だろう」

 そうして彼は浜辺に背を向けて歩み出し、首もその隣を右に左と付き纏った。

 数歩歩いたところで、彼はふと思い至り両腕を曲げて物を支える仕草を取った。

「持って歩いてやるからここに来い。浮いているだけでもお前は生命の気を消耗する筈だ」

 首は口をぽかんと開け、目を逸らした。きまりが悪いかのような仕草だった。そしてゆっくりとした動きで彼に近寄り、素直に腕の中に納まった。

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