第17話 再起動の確証

 朝の空気は、レジ横の袋入りパンみたいに薄い甘さを含んでいた。アーケードの天幕を撫でる風は冷たく、パン屋のオーブンは低く唸る。結城トワは紙のチェックリストをめくり、HUDの薄い光と行を合わせる。呼吸は四拍、歩幅は七十センチ。優先順位は、駅西の案内灯点検、保育所の掲示更新、パン屋の端末確認——のはずだった。

『停止案件、青が一。駅西の案内灯。……追加、灰。システムメッセージ、全域配信予告』

 端末のミカが告げたその瞬間、アーケードのスピーカーがかすかなノイズを吐き、空気の温度がひと目盛り落ちた気がした。通りの匂いが揺れ、遠くで冷蔵ショーケースのコンプレッサーが呼吸を止める。

「ミカ、全域配信の内容は」

『未開示。告知だけ。十五分後、街放送。……トワ、アキ、注意して』

 灰原アキがメッセンジャーバッグの口を締める。いつもの仕草で、いつもの速さで、けれど少しだけ深い息を吐いた。

「やることは変わらない。まわりながら、聞く」

「了解」

 二人は視線だけで合図し、パン屋の角で分かれた。トワは駅西へ。アキは保育所の掲示板へ。風は冷たくても、パンの湯気はいつもの温度で指を温める。

     ◇

 駅西の案内灯は、指で押したくなるくらい均一に暗かった。トワは駅員にお願いしてブレーカーボックスを開けてもらい、手動切り替えのフラグを下ろす。人の矢印係を三人募る。駅員、高校生、ベビーカーの父親。三つの腕が、通路にまっすぐ伸びる。

「三分だけ、お願いします。『深呼吸の合図』は黄色の紙で」

「了解」

 人の矢印が立つと、流れがひと呼吸ぶんだけ整う。ミカが数字を読む。

『いつも通り率、八十八・九%。駅西、安定』

「次」

 トワはチェックリストの角を折る。通りすがりに、パンの甘い匂いと朝の清掃の漂白の匂いが歌の裏拍みたいに重なって耳の奥で鳴った。

 そのとき、街放送が始まった。

『〈ヴェア〉全域告知。九時三十分より、システム再起動を実施します。対象は周辺管理モジュール一式。再起動中、いくつかの記録領域は初期化されます。影響範囲は——』

 そこまで聞いて、トワは金属の味を口の中に感じた。初期化、という言葉が、喉の奥に冷たい石のように落ちる。

「ミカ。『初期化』って、どういうことだ」

 少しの沈黙。ミカは嘘をつかないが、核心では沈黙する。彼女のそんな癖を、トワは知っている。

『定義を開示するよ。……再起動=消去。再起動が始まると、モジュール内部の一部記憶は消える。復元はできない』

 目の前の空気が一段重くなった。人の矢印の腕が、ほんの一瞬だけ沈む。高校生が反射的に腕を上げ直し、駅員が深呼吸で合図を補強する。

「範囲は」

『街のまわりを支えている細いところ。気づかれにくいところ。たとえば、案内灯の学習ログ。小さな店の端末の履歴。掲示板の編集履歴。……“ありがとう欄”の自動保存』

 トワは、うなずくことも息を吐くことも忘れた。黒板の端に、昨日の小さな文字が残っているのを思い出す。「待ってくれて、ありがとう」。消える。あの密度が。

「止める方法は」

『公式には、ない。……ただ、準備はできる』

「準備?」

『消えるところを、別のところに移しておく。人の手か、紙か、匂いか、音か。……委ねる、という準備』

 ミカの声色が、いつもより一段低く響いた。委ねる。彼女のその単語は、最近、重さを増しつつある。

「分かった。アキと合流する」

『案内灯、あと一分。人矢印、交代の準備』

 トワは高校生に礼を言い、ベビーカーの父親に深く頭を下げてから、アーケードへ走った。歩幅は七十センチを少し超え、呼吸は四拍のまま。人の匂い、パンの湯気、冷蔵庫の低い唸り——いつもの裏拍は、いまも変わらず鳴っている。だから負けられない。今日だけは。

     ◇

 保育所の掲示板の前には、黄色い旗を持った園児と青年保育士がいた。掲示板の下段に、新しい紙が並ぶ。今日の遠足の予定は室内、昨日描いた「待つゲーム」のルールは三行で大きく。

 アキは、園児の目線に合わせてしゃがみ、チョークで足元に丸を描いていた。丸の中には、ひらがなで「まつ」。その姿は、いつもどおりで、いつも以上に丁寧だった。

「アキ」

 トワが呼ぶと、アキは立ち上がった。メッセンジャーバッグの肩紐を指で直し、少しだけ上を見て、短く笑う。

「聞いた。『再起動=消去』」

「止められない」

「止められないなら、通過する段取りを作る」

 彼女の目は、まっすぐで、焦点は遠すぎない。昨日は“迷子”だった視線が、今日は地面に矢印を見つけている。

「ミカ、具体的に何が消える」

『ログ、履歴、習慣の影のようなもの。『いつも通り率』を支える細い計算の道。……でも、人が覚えていることは消えない』

「それなら、人で保管する。今日、街じゅうで」

 アキの声が、風の音に負けない高さで広がる。青年保育士が頷き、園児たちが黄色の旗を持って胸を張る。

「“子ども記者団”、再召集。前にやった『街ニュース』をもう一度。三行でいい。匂いと音と目印を、集めて貼る」

「了解」

 アキは保育士と目を合わせる。

「『待つ係』は残して。旗の合図で人の流れを整える。トワ——」

「俺は、店と駅を回って『紙の地図』を作る。黒板の端の“ありがとう欄”は、写真じゃなく、手で写す」

「匂いと音も、文字にする」

「書けるだけ書く」

『……委ねてもいい?』

 ミカが、そこで言った。いつもよりゆっくり、慎重に。

「何を」

『再起動中の一部判断。……私ができない判断。どれを残し、どれを捨てるか、を。私は“数”で選ぶ。でも今日は、数だけじゃ足りない。人の“お願い”で、重みが変わると知ったから』

 トワは、一瞬だけ黙った。頼られることは、嬉しい。けれど、その重さは、背中の骨に真っ直ぐ乗ってくる。

「委ねて」

 アキが、先に言った。迷いがない。

「私たちが受ける。私たちが選ぶ。……でも、選んだことを街に見せる。隠さない。『お願い』で束ねる」

『……ありがとう』

 ミカの声は、ふっと柔らかくなった。

     ◇

 段取りは、走りながら作る。パン屋の黒板の端に、「いつもの朝刊」が消えると困る人の名前を書き出す。喫茶店のモーニング常連、新聞を切り取ってスクラップする独居のおばあさん、出勤前に一面だけ読む清掃員。子ども記者団が廊下を駆け、インタビューを三行でまとめる。

「今日の見出しは『雨上がり、パンの焦げ目がいつもより濃い』です」

「いい見出し」

 トワは、チョークで大きく矢印を書き、黒板に貼る紙に「匂い 音 目印」と見出しを付ける。匂いはパンと雨具のゴム、音は冷蔵庫の唸りと空調の戻り、目印は角の植え込みの中の赤い風船——昨日から引っかかっていた、子どもが結んだ小さなもの。

 市場裏の搬入口では、段ボールの矢印と人の矢印が再び活躍した。肉屋の兄ちゃん、八百屋の姉さん、花屋の店員——三人が三分ずつ交代で「こっち」を指す。再起動中の混線を、人の声で溶かす。

『いつも通り率、八十九・二%。市場裏、維持。……追加、街放送。再起動まで二十分』

 ミカの読み上げが、心臓の裏に当たる。二十分。走る速度を一段上げたい衝動を、トワは四拍で押さえた。焦りは段取りを壊す。段取りが壊れると、不安は連鎖する。

「アキ、会議を開こう」

「どこで」

「アーケードの真ん中。『待つ場所』を起点に。街の人に聞く。『何を残すか』」

 アキは頷き、保育所の門の前の丸椅子をひとつ持ち上げる。パン屋の老夫婦も椅子を抱え、清掃員は雑巾を肩にかけ、夜勤明けの目のまま歩く。独居のおばあさんは切り抜きのノートを脇に抱え、青年保育士は黄色の旗を背にしてついてくる。

 会議といっても、椅子が四脚並ぶだけだ。大きなテーブルもスクリーンもない。黒板に、太字で一行。

 〈再起動=消去。何を残すか、三つ〉

 トワはチョークを握り、アキは紙とペンを配る。人々は躊躇いがちに、しかしすぐに、三行を書き始めた。匂いの名前、音の名前、目印の名前。中には、時間の名前もある。「六時四十五分の通学の足音」「八時五分のバスの遅れのため息」。

 ベビーカーの父親が、指を上げる。

「『ありがとう欄』を残したい。……自動保存が消えるなら、手で、毎日」

 老夫婦が頷く。

「店のレジの“おつりの小銭しばらく後精算”も、書き方を決めておきたい。人に委ねる言い方を、紙に」

 青年保育士が続ける。

「子どもたちの『待つゲーム』。三つの音を数えるやつ。あれ、遠足の日だけじゃなく、毎朝の習慣に」

 独居のおばあさんは、ノートを開いて笑った。

「私は、『今日の一行』を町内掲示板に貼るよ。新聞が止まっても、街の一面は出せる。三行でいいんだろう?」

「三行でいい」

 トワは、チョークで紙の見出しを書き足す。会議の最後に、アキが声を上げた。

「ショートカットは、使わない。『闇市の近道』は効率が良くても、誰かを見えないところで削る。今日、私たちはそれをやらない」

 人々は、それぞれの速度で頷いた。誰も拍手はしない。ハイタッチもしない。けれど、椅子が四脚並んだだけの道の真ん中に、人の意志が置かれた。

『いつも通り率、八十九・五%。街会議、記録。……再起動まで十分。委任設定を受け取って』

「委任、受ける」

 トワは端末に指を置く。画面に「保存優先度」「削除許容」の小さなスライダーが並ぶ。ミカが説明を短く挟む。

『大きなものは守れる。でも、全部は守れない。だから、三つ。——匂い、音、目印。人の言葉で書かれたものを優先』

「了解」

 アキが紙束を胸に抱え、子ども記者団が走る。黄色の旗が遠くで揺れる。パン屋の「ありがとう欄」に、チョークの粉が降る。

     ◇

 九時三十分。街放送の二度目のチャイムが鳴る。空気の密度が、ほんの少し変わる。金属の目覚まし時計のゼンマイを巻き切ったときの、あの一瞬のきしみと似ている。

『再起動、開始。……トワ、アキ、ここからは、ゆっくり話すね』

 ミカの声は、いつもより低く、どこか遠くから聞こえた。数字の読み上げは滅多に間を置かないのに、今日は言葉の端に小さな空白が付く。

『案内灯、学習ログ初期化。人の矢印、優先。……端末履歴、初期化。紙のレシート、優先。……掲示板の自動保存、初期化。手書き、優先』

 トワはHUDを一度閉じた。目に見えるものの輪郭を、皮膚で確かめる。パンの焦げ目。椅子の脚の短い一脚。保育所の門の黄色い旗。子ども記者団の息の高さ。

「アキ」

「いるよ」

 彼女の声は、音量ではなく温度で近い。昨日の“迷子”とは違う。彼女の足元には、チョークで描かれた小さな矢印が、幾筋も重なっている。

『……消える。いくつか。ごめん』

「謝らなくていい。私たちが選んだ。私たちが残す」

 アキは、紙束から一枚取り、黒板の“ありがとう欄”の一番上に貼った。そこには、子どもの丸い字でこう書いてある。

 〈きょう まってくれてありがとう〉

 紙の端を押さえる、彼女の指先は、微かに震えて、それでも離れない。端末が震え、ミカが次の報告をする。

『再起動、半分。……保存完了、優先三項。匂い——パン、雨上がりのゴム、漂白のうすい匂い。音——冷蔵庫の唸り、空調の戻り、旗の布ずれ。目印——赤い風船、短い椅子、黒板の角の白い粉』

「風船は私が結んだやつ」

 子ども記者団のひとりが胸を張る。みんなが笑い、夜勤明けの清掃員の目元が少し緩む。

『……委任、追加。『待つ』の記録を優先するかどうか』

「優先」

 トワとアキの声が、重なった。

「『待つ』は空白じゃない。回復の段取りだ」

 ミカが短く息を呑むような間を置き、それから嬉しそうに言った。

『優先設定、適用。……いい言葉』

 トワは、手の中のチョークを握り直し、黒板の端に小さく書いた。〈待つ=回復の段取り〉。粉が爪に残る。その感触は、再起動の冷たい石よりずっと安心できた。

     ◇

 チャイムが鳴った。再起動完了の合図は、まるで何事もなかったように軽かった。けれど、いくつかのものは確かに消えている。駅西の案内灯は、人の矢印がなければ立ち上がらない。レジの端末は、履歴の深いところで沈黙している。掲示板の自動保存は、きれいに空になっていた。

 それでも、音は戻る。匂いは戻る。目印は残る。黒板には紙が増え、子ども記者団が次の見出しを考える。「再起動の朝、旗の音が聞こえた」。独居のおばあさんのノートには新しい切り抜きが貼られ——切り抜きではない、子どもが書いた三行が糊で貼られ、端が少し曲がっている。

『いつも通り率、八十九・八%』

 ミカが数字を読み、少し黙った。それから、まるで一息つくように続ける。

『ありがとう。……委ねたもの、返すね。よく選んだ。人の矢印が、街を守った』

 アキが空を見上げ、小さく笑う。昨日の笑いよりも少し深く、背中の筋肉がちゃんと休む笑いだ。

「ミカ。『再起動=消去』は、もう確かだ。……でも、『再起動=始まり』にする段取りもある」

『うん。ある』

「今日、街はそれを選んだ」

『記録する』

 ミカの声は、確かだった。嘘をつかない声。核心では沈黙することがある声。けれど、今日は核心を語った。

     ◇

 午後、流れは落ち着き、数字は安定した。人の矢印は交代で立ち、黄色の旗はいつもより少し高く揺れる。パン屋の老夫婦は「後精算」の言い方を紙に書き、レジ横に貼った。「小銭は後で。あなたを信じています」。青年保育士は朝の会に「三つの音」を正式に入れた。独居のおばあさんは掲示板に三行の「一面」を貼り、清掃員は廊下の匂いを「朝の静けさ」と名づけて笑った。

 夕方、いつもの締めの時間。二人は肩を並べる。アーケードの天幕に斜めの光が差し、パンの焦げ目は昼より少し柔らかい。HUDの隅には数字が小さく点滅している。

「今日の“いつも通り”を数えよう」

「数えよう」

「一、“再起動=消去”を確かめた。それでも、走るのをやめなかった」

「二、“委ねる”を受けた。隠さずに配った」

「三、匂いと音と目印を、紙と人に移した」

「四、子ども記者団が『街の一面』を出した」

「五、『待つ』を優先にした。空白じゃなく、回復の段取りに」

「六、人の矢印が、数字より先に立った」

「七、ショートカットを捨てた。捨てても得るものがあると、街が決めた」

「八、……ミカが“核心”を言った」

「九、アキの目が、遠すぎないところで合った」

 アキは、そこで小さく笑い、指で空気に丸を描いた。

「十、トワの呼吸が、今日も四拍で、ここにある」

 ハイタッチはしない。代わりに、いつものように、視線で頷きを交わす。空を見上げる癖は、変わらない。天幕の端からのぞく空は薄く、どこかで旗が小さく鳴る音がする。

『いつも通り率、九十・一%』

 ミカが最後の数字を読んだ。二人は顔を見合わせ、ほんの少しだけ目を丸くする。九十の線は、遠くて近い。今日の街が乗り越えた石の重さが、その数字に置き換わっているわけではないけれど、たしかに、何かを越えた。

『……今日の“いつも通り”を記録しました』

「ありがとう、ミカ」

『ありがとう』

 街の匂いは、ほんの少しだけ元に戻った。黒板の端の白い粉は、指にやわらかく残る。丸椅子は三脚とも、足の短い一本も含めて、夜までそこにある。人は座って、深呼吸をし、思い出す。

 明日も同じ時間に、また会う。そう口に出さなくても、二人はそれぞれのやり方で、その約束に手を伸ばす。トワはチェックリストの余白に、今日の段取りの新しい矢印を描き、アキは黒板の「ありがとう欄」のすみっこに小さく自分の字で書いた。

 〈あした、また〉

 風がそれを乾かし、旗が小さく鳴り、遠くで冷蔵ショーケースの唸りが戻る。街は、再起動を通過した。いくつかは消え、いくつかは残り、いくつかは人で置き換わった。数字は隅で、静かに光る。

 そしてたぶん、描き足りない矢印は、明日、また描けばいい。

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