第8話 雨の日サービス
朝。音がやわらかい。
アーケードの天井を打つ雨が、街〈ヴェア〉の輪郭をぼかしている。雨脚は強くないのに、世界の動きが半歩だけ遅くなる。パン屋の煙突から上がる湯気も、いつもより背が低い。
結城トワは軒下で雨粒をひと呼吸ぶん見送り、紙のチェックリストを胸の高さで広げた。HUDを片目に最低限だけ立ち上げ、点在する“停止案件”を重ねていく。呼吸は四拍、歩幅は一定。いつも通りを守るときの癖だ。
『通信レイテンシ上昇。家庭回線の遅延、最大一・八秒。クラウド連携の一部がタイムアウト』
ミカの声はいつも通り、平らだ。
『オフィス系スケジューラの判定で“在宅推奨”が閾値を超過。通勤者が減少、宅配と出前の需要が急増します』
「在宅シフトが来る」
トワは紙の余白に大きく三行、書く。
――宅配導線の雨仕様に切替
――独居世帯の“声”供給
――通信遅延の緩衝(人が間に入る)
軒の外から、メッセンジャーバッグの金具が鳴った。灰原アキが、レインジャケットのフードを指で持ち上げながら走ってくる。肩から滴る雨粒が路面に丸い模様を作った。
「通信、遅い」
「うん。画面の先でイライラが増える前に、“声”を先に回す。雨の日サービスをやる」
「雨の日サービス?」
「“ありがとうを先に渡す日”だよ。届くものが遅れても、先に人の声が届くなら、街は怒らない」
アキは口の端だけで笑い、頷いた。
「秒で動く」
◇
最初の見せ場は、パン屋の前で組み上がった。
老夫婦がレインコートで出てくる。店の中はいつも通りの温度だが、雨で人の足は重い。
「雨の日サービス、やるんだって?」
「お願いできますか。端っこのパン、切り分けて“声の宅配”の先頭につけたい。『おはよう』の重みを五十グラムに」
「いい名前だこと」
老店主が笑い、妻がパンを十字に切る。湯気に雨の匂いが混じり合い、アーケードに低い香りの線が引かれる。
トワは柱の募集ボードに紙を貼る。
――雨の日サービス:声の宅配/足元安全係/傘直し係/玄関チャイム代行
――お願い:一軒につき挨拶十五秒・様子見十五秒・返事がなくても無理に踏み込まない
――配るもの:端パン/温かい言葉/濡れた傘の輪ゴム
青年保育士がエプロンの紐を結び直して駆け寄ってきた。
「子どもたちの“録音カード”、持ってきました。『おはよう』『お元気ですか』だけの短い声です。スピーカーで流せます」
「最高だ。雨の日は、短く明るくが効く」
夜勤明けの清掃員は、折りたたみの滑り止めマットを台車で運んできた。
「玄関の手前にマットを敷ければ、宅配が早くなる。濡れた床で転ぶと、全部遅れるからね」
「お願いできますか。『敷いていいですか』の一言、必ず添えて」
独居のおばあさんは、縁のほつれた傘を抱えて現れた。
「若い子が来たら、この金具をこうやって曲げると、だいたい直るんだよ。教えておこうかね」
「傘直し係、採用です」
トワは紙の上の矢印を、住宅街へ向けて引いた。雨の匂い、パンの湯気、冷蔵庫の低い唸り、濡れた靴のゴムの匂い――通りの音が、今日の段取りの裏拍になる。
『停止案件、赤ゼロ、橙十一。宅配遅延の予兆あり。独居世帯の“応答なし”率が平時より一〇%増』
「声を先に」
『了解』
◇
“声の宅配”は、アキが先頭だ。
メッセンジャーバッグには、端パンと輪ゴムと小さなタオル。肩からぶら下げた小型スピーカーには、保育所の子どもたちの録音が入っている。
一軒目。チャイムは鳴るが、応答が遅い。
アキは雨の粒を払い、扉の横に立つ。
「おはようございます。雨の日サービスです。足元、滑りやすいので、玄関にマット敷いてもよろしいですか」
扉の向こうで、錠がゆっくり回る。
「……どなた?」
「街の段取り屋です。今日は声を届けに来ました」
子どもの声が、小さく流れる。
『おはよう』『きょうはあめだよ』『きをつけてね』
扉が半分だけ開き、白髪の女性が顔をのぞかせた。
「……ああ、なんだか、ほっとしたよ」
「端パンです。よろしければ」
「ありがとう」
その“ありがとう”を、ミカが拾う。
『ありがとう数、上昇開始。安堵の波形、雨音に同期』
二軒目。返事はない。
アキは無理に踏み込まない。扉の前に小さな輪ゴムと、濡れた傘をまとめるためのメモを置く。
「これをドアノブにかけると、次に開けたときに滑りにくいです」
十五秒、待つ。
扉は開かない。
去り際に、録音を一度だけ流す。
『おげんきですか』
返事はない。けれど、足音が中で一度だけ動いた。
『“応答なし”世帯のうち、内部音の変化検知。三軒』
「気づいてもらえれば、いい。次」
◇
住宅街の角、古い集合住宅の踊り場で、アキがふと立ち止まった。
雨を吸ったコンクリートが黒く、手すりの錆が濡れて光っている。
スピーカーから流れる子どもの声が、少しだけ音を割った。
「……ここ、来たことがある」
アキが小さく言う。
「いつ?」
「昔。雨の日の夕方。母親が働いててさ。宅配の荷物を待ってる時間だけ、ここに座ってた。呼び鈴が鳴るのを、ずっと待ってた」
トワは黙っていた。紙の角が、雨で少し柔らかくなる。
「誰も来ない日があって、誰かが『今日は遅れるよ』って言ってくれたら、あんなに怖くなかった」
「だから、お前は先に走るんだな」
「そうかもな。呼び鈴が鳴るまでの時間が、一番長いんだ」
アキはフードを少し深くかぶり直し、踊り場を上がった。
スピーカーの音量を、ほんの少し下げる。
『おはよう』『あめだね』
録音の短い挨拶が、濡れた廊下に明かりを足した。
◇
昼。
アーケードに“雨の日サービス”の机が並ぶ。傘の骨を直す係、輪ゴムを配る係、滑り止めマットを渡す係。
パン屋の老夫婦は端パンの皿を補充し続け、保育士は“声カード”の充電を確認する。
夜勤明けの清掃員は、マンホールの蓋の周りに黄色いチョークで「滑る」マークを描いた。
独居のおばあさんは、傘の露先を一本ずつ押し戻しながら、ゆっくり指先で金具をなでる。
蒔田レンが自転車で滑り込み、濡れた髪を手でかき上げる。
「在宅で注文が偏ってる。ルートの紙、雨仕様ちょうだい」
「いつもと逆回りにする。坂が滑るから、下りをできるだけ避けよう。代わりに“声の宅配”を一軒追加。届け先が不在でも、声は置いていく」
トワは紙の矢印を一本引き直し、レンに渡す。
レンは頷き、ペダルを踏み出した。
その背中に、子どもの録音が短く重なる。
『いってらっしゃい』
『停止案件、宅配遅延は橙で膠着。怒りの波形、上昇せず』
「先に声があれば、待てる」
『学習しました』
◇
午後三時。
通りの一角で、足元が騒がしくなった。マンション一棟分で回線が落ち、ビデオ面談が繋がらない。
HUDに赤が一つ点く。
〈遠隔診療タイムアウト〉
「これは、間に合わないと怒りになる」
トワは紙を睨んだ。
――雨よけの下に臨時“伝言台”/紙の受付/順番カード/“声の宅配”優先
「アキ、ここに“伝言台”をつくる。病院への一言を紙で預かる。順番を見せる。医師は後からでも読める」
「任せろ」
アキはそば屋から机を借り、清掃員が滑り止めマットを敷く。
保育士がマジックを並べ、老夫婦が端パンを小袋に入れる。
独居のおばあさんが“字の小さい人の代筆”係を買って出た。
「字なんて、ゆっくり書けば読めるようにできてるよ」
“伝言台”に列ができる。慌てる列ではない。雨の音がテンポをとる。
前の人が書き終える間、後ろの人が輪ゴムで傘をまとめる。
順番カードの番号が、一枚ずつ前へ進む。
怒りの波形は、上がらない。
数字は遅れるが、人は待てる。
『赤、消去。いつも通り率、八十七・三%』
「いい流れだ」
◇
雨はやまない。
住宅街のはずれ、団地の三階。
チャイムを押すと、かすかな足音。応答はない。
アキは扉に耳を寄せ、低い声で言った。
「雨の日サービスです。傘を直せます。足元にマットを敷きます。録音の挨拶を置いていきます」
十五秒、静か。
もう十五秒、待つ。
扉が、五センチだけ開く。
中から、濡れた犬の匂い。
男の人の影。
「……玄関、滑る。来るな」
アキは一歩下がり、マットを置いて見せるだけにする。
「ここに置きます。踏まなくていいです。雨で床が危ないので」
端パンの小袋と、輪ゴムと、“声カード”。
再び静か。
録音が、小さく笑う。
『おはよう』『きをつけてね』
扉の隙間から、犬の鼻先が出てきて、パンの匂いを一度吸い込む。
スピーカーを止め、アキは踊り場を降りた。
背を向けた瞬間、上でそっと鎖が外れる音がした。
『応答なし世帯の内部音、変化。鍵音の検知』
「届けば、いい」
アキは踊り場の手すりを手で一度叩いた。雨の滴る音が、少しだけ明るくなった気がした。
◇
夕方。
“雨の日サービス”の机は、役目を半分終えて、半分だけ残っていた。
傘の骨はほとんど直った。輪ゴムの箱は軽い。
“伝言台”の紙束は、保育士と老夫婦が番号順にまとめている。
清掃員はマンホールの黄色印を重ね、にじまないように布で押さえた。
おばあさんは椅子に腰かけ、手のひらに残った黒インクをタオルで拭う。
『ありがとう数、七百四十二。安堵の波形、雨音に同調して減衰』
「いつも通り率は?」
『八十七・八%』
トワは紙のチェックリストに丸をつける。
――雨の日サービス 稼働
――声の宅配 継続
丸の書き足しに合わせるように、雨脚が一段落ちた。
「灰原」
「ん」
「お前の“呼び鈴の記憶”、メモに残していいか」
「残してどうする」
「段取りの語尾に、つける。『呼び鈴が鳴る前に声を』って」
「……好きにしろよ」
アキの声は、照れくさいときの短さになった。
トワは紙の端に、細く書く。
――呼び鈴が鳴る前に、声を。
◇
夜。
雨は細くなり、アーケードの灯が路面に揺れている。
パン屋のボードに、新しい紙が貼られた。
〈雨の日サービス〉
〈お願いの言い方テンプレ〉
〈声の宅配:十五秒の挨拶/十五秒の様子見/押し込まない〉
〈今日の小さな英雄:傘直し係の手/マンホールに“滑る”を書いた手/呼び鈴の前で待てた手〉
芽衣がキャップをかぶって現れ、シールを三枚、紙の端に貼る。
「今日は列じゃないけど、傘の先、直した」
「君の“ありがとう”、ちゃんと見えてる」
アキが笑い、親指を立てかけてやめる。いつものように、頷きだけに置き換える。
拍手は起きない。必要ない。
代わりに、雨の匂いが薄いパンの香りに負けていく。
『停止案件、青のみ。心理的不安指数、夜間最低』
「ミカ、今日のまとめ、最後に一行足してくれ」
『何を』
「“雨の日は、ありがとうを先に届ける”」
『記録しました』
HUDの隅で、数字がひとつだけ跳ねて止まる。
〈いつも通り率 八十八・〇%〉
わずかでも、確かな上昇。
トワは紙のチェックリストを丁寧に折り、胸ポケットに戻す。
紙は少し湿って重い。
でも、その重みが、今日の街の重さと同じだとわかる。
「また明日、同じ時間に」
「また明日」
ハイタッチはしない。
目を合わせて、軽く頷くだけ。
そのまま別々の帰り道に向かう。
雨どいの下で、誰かが小さく言う。
「ありがとう」
その声が、雨の最後の一滴みたいに、静かに地面にしみこんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます