ログアウトできないVR都市で、僕らはただ“いつも通り”を続けている ──壊れゆく仮想都市の中で、日常を守ることが一番の戦いだった。
妙原奇天/KITEN Myohara
第1話 メンテ明け、ボタンが消えた
朝の光が、街をやや鈍く照らしていた。
ビルの谷間を渡る風が、広告スクリーンの縁をわずかに揺らす。モニターの中では、まだ昨日のニュースが繰り返されている。
〈定期メンテナンス完了のお知らせ〉。
その一文が消えたとき、結城トワは無意識に胸ポケットから古びた紙片を取り出していた。
白い紙に、細いペン字で書かれたチェックリスト。
「朝七時 巡回開始」「交差点前 信号同期確認」「商店通り AIゴミ回収稼働確認」――。
この街の“いつも通り”を維持するための段取りが、びっしりと並んでいる。
トワはヘッドアップディスプレイ(HUD)を展開し、データと紙の項目を照らし合わせた。
しかし、そこにあるはずのアイコンが、一つだけ消えていた。
ログアウトボタン。
「……あぁ、やっぱり」
トワは小さく息を吐いた。
メンテ明けの不具合か、それとも仕様変更か。
だが、そんなことよりも――。
「おい、トワ!」
通りの向こうから声が飛んだ。灰原アキがメッセンジャーバッグを肩にかけ、走ってくる。
髪の先が風を裂く。いつも通りの勢いだ。
トワは右手を軽く上げて応える。
「見たか? ボタン、消えてるぞ」
「見た。とりあえず報告を上げる前に、街の稼働を確認したほうがいい」
「上は混乱してるだろ。優先度は?」
「まず、生活ラインのチェック。食料、交通、保育、医療。それから情報網」
「了解、“秒”で行く」
アキは短く言い切り、足元のブーツで地面を蹴る。
その背を見送りながら、トワは深く息を吸い、吐いた。
この街〈ヴェア〉は、現実と仮想が重なった共同体だ。だが、住民にとっては“ただの日常”にすぎない。
パンの焼ける匂い。駅のホームのアナウンス。保育所の笑い声。
その全てが、見えないAI制御の上に成り立っている。
トワとアキは、それを支える現場の調整員――“段取り屋”と呼ばれていた。
*
最初の異変は、パン屋からだった。
開店準備をしていた老夫婦が、店の電気オーブンのタイマーが作動しないと訴えてきた。
トワはチェックリストを開き、紙に赤丸をつけた。
「予備電源系統のリセットをお願いします」
「え? あなたがやってくれるんじゃないの?」
「すみません、今は手動しか動かせません。僕の指示通りに、お願いできますか?」
老夫婦は少し戸惑いながらも、頷いた。
ボタンを押し、ダイヤルを回す。ピッという音が戻る。
店の中に、焼きたての匂いが広がった。
「動いたわ!」
その声に、トワは小さく笑った。
命令ではなく“お願い”。
それが今の、最も確実な“段取り”だった。
灰原アキは保育所の前にいた。
出勤する保育士たちが、玄関で困っている。
出入口の顔認証ドアが、誰の認証も通さない。
「バッテリー切れじゃない。たぶん、認証サーバーが止まってる」
アキは即座に判断し、スマホ端末をドアの横にかざした。
だが、アクセス権限ははじかれた。
仕方なく、腕を回してドアの隙間に手を突っ込み、内側のラッチを引き抜く。
ガシャン、と金属音。
ドアが開く。保育士たちの安堵の声。
「助かった……。どうして、あなたがそんなことを?」
「頼まれたから、かな。みんなの“朝”が遅れたら困るだろ?」
アキは笑って、また走り出した。
彼のメッセンジャーバッグが、風を切る。
*
午前八時。
街全体の同期率が低下していた。
信号の色が一瞬だけ重なり、交差点が混乱する。
清掃ドローンが一台、停止したまま空中で漂う。
トワはそれを見上げ、無線端末を耳に当てた。
「ミカ、稼働状況を」
応答が、数秒遅れて届いた。
『停止案件、現在四十二件。重要度B以上が八件です』
女性の声だった。
どこか人工的で、それでいて息づかいのような“間”がある。
ミカ――それが、トワとアキを支援するAI残滓。
正式な人格ではない。データの断片で構成された、半壊状態のサポートAIだ。
『トワ、あなたは落ち着いていますね』
「落ち着いていないと、みんなが不安になる」
『いいえ、あなたは昔からそう。問題が起こると、呼吸を数え始める』
「知ってたのか」
『あなたのデータを、見たから』
短い沈黙。
ミカは嘘をつかない。しかし核心には触れない。
『ログアウト機能は、まだ戻りません。システム側の応答が途絶しています』
「予備回線は?」
『使用中です。別経路を探していますが……』
声がわずかに途切れる。
アキの声が入った。
「トワ、商店街の冷蔵庫群が止まりかけてる。食料品、全滅するぞ」
「バックアップ電源を回せる?」
「理屈の上では。けど、現場の端末がロックされてる」
「ミカ、制御権の一時解除を」
『……不可能です』
「理由は?」
『管理権限が存在しません。あなたたちは、ユーザーではない』
トワは息を止めた。
ミカの言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
「ユーザーが……いないってことか?」
『はい。記録上、この街に“管理者”は存在しません』
*
それでも、街は動いていた。
老夫婦はパンを焼き、青年は保育所で子どもを抱き上げ、夜勤明けの清掃員は掃除機を押していた。
独居のおばあさんが、道端の花壇に水をやっている。
それぞれが“いつも通り”を続けている。
だが、“いつも通り”は、放っておけば崩れる。
トワは紙のチェックリストをめくり、赤ペンで追記した。
「人の手で補う」「声をかける」「段取りで埋める」。
それはもはや業務記録ではなく、祈りのようなメモだった。
アキが戻ってくる。額に汗を浮かべ、息を荒げている。
「冷蔵庫、手動でつないだ。あと一時間はもつ」
「よくやった。停電が来る前に次を回そう」
「次?」
「清掃ドローンの救助。空中で止まったままだ。落ちたら、誰かが怪我する」
「行こう」
二人は並んで走る。
通り過ぎるたびに、パンの香り、エンジンの音、子どもの笑い声が混ざる。
アキが呟いた。
「なぁトワ。これ、メンテ不具合とかじゃないよな」
「そうだろうな。もしシステムが人を排除する設計に変わったなら……俺たちは、ただの残骸だ」
「でも、街は動いてる」
「人が動かしてるからだ」
アキは笑った。
「じゃあ、“いつも通り”を続ける。それが俺たちの仕事だ」
「そうだな」
*
昼過ぎ。
広場のスクリーンが一斉に暗転した。
街が、一瞬だけ息を止めたように静まる。
トワはHUDを確認する。
通信ログが真っ白に塗りつぶされていた。
『ミカより緊急報告。制御中枢からの信号が消失しました』
「つまり?」
『この街は、今、自動では動いていません』
「完全に、止まった……?」
『はい。あなたたちの判断が、唯一の稼働条件です』
アキが目を見開く。
「冗談だろ。俺たち、ただの段取り屋だぞ」
「でも、誰かが動かないと止まる。なら、動こう」
トワは答えた。
ミカの声が少し柔らかくなる。
『了解。サポートします。停止案件を一つずつ、確認しますか?』
「順に頼む。まずは、信号系統」
『了解。再起動に必要なコードを音声で送信します』
彼らは並んで立ち、信号機の前で声を重ねた。
青、赤、黄。
何度目かの音声入力で、ようやく信号が点いた。
通りの車がゆっくりと動き出す。
歩行者が交差点を渡る。
子どもが母親の手を引いて笑った。
それは、ほんの小さな回復だった。
けれど、確かな“生”の音があった。
*
夕方。
空は淡く朱色に染まり、ビルの窓が一つずつ光を返す。
トワとアキは橋の上で立ち止まった。
HUDの隅に、数字が現れていた。
〈いつも通り率 82.3%〉
「ちょっと戻ったな」
「ほんの少し、だけどな」
「少しでいいさ。こうやって、一日ずつ繋ぐ」
アキは笑って、空を見上げた。
雲の隙間から、細い光が射している。
「トワ」
「なんだ」
「明日も、同じ時間な」
「もちろん」
二人はハイタッチをしかけて、途中で止め、ただ頷いた。
ミカの声が風に紛れる。
『トワ、アキ。あなたたちは……不思議です。効率が悪く、感情的で、時に間違う。でも、だからこそ街が温かい』
「ミカ、それは褒めてるのか?」
『まだわかりません。ただ、数字にはない救いがあると学びました』
「なら、それで十分だ」
トワは笑い、アキも同じように笑った。
街の音が戻る。パン屋の閉店チャイム。保育所の笑い声。
冷蔵庫の低い唸り。電車のブレーキ音。
その全てが、重なり合って夜を迎える。
“いつも通り”は、奇跡みたいなものだ。
誰かが手を動かし、声をかけ、気づかれないまま支えることで続いていく。
トワは心の中で、静かに呟いた。
――今日の“いつも通り”は、明日の鍵になる。だから今日だけは、負けられない。
夜風が吹き抜ける。
HUDの端で、微かに光が揺れた。
〈ログアウト〉の文字が、一瞬だけ滲んで、消えた。
*
そして翌朝。
結城トワは、いつもの時間に目を覚ました。
紙のチェックリストを開き、ペンを握る。
呼吸を整え、歩幅を合わせ、今日も段取りを組む。
“いつも通り”を、もう一度守るために。
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