第2話

 空色の戦闘機「フユ」が車輪を降ろしたのは、街の外れにある、ひび割れたアスファルトが広がる埠頭だった。

 湿った潮風が、機体にこびりついた硝煙の匂いを、まるで許すかのように優しく洗い流していく。

 アキはキャノピーを開け、じっとりと汗ばんだ額に当たる風の心地よさに、小さく息を吐いた。


「……行こうか、ハル」


 肩に乗せたハルが「にゃ」と短く応える。

 アキは戦闘機から飛び降りると、振り返り、機体にそっと触れた。

 冷たい鉄の感触。

 それは兄さんの体温とは似ても似つかないけれど、今はこれが唯一の、確かな繋がりだった。


 街は、死んでいた。

 そうとしか思えないほど、静かだった。

 石畳の道では、たくさんの猫たちが、世界の終わりなんて関係ないとばかりにひなたぼっこをしている。

 アキたちの姿を見ても、逃げるどころか、欠伸ひとつするだけだ。

 ショーウィンドウには埃をかぶったマネキンが、虚ろな瞳で立ち尽くし、パン屋の看板は錆びついて傾いでいる。

 みんないなくなってしまったのだ。

 あまりに静かで、綺麗で、完璧な廃墟。

 だからハルバルの連中も、ここを爆撃する価値なんてないと判断したのだろう。

 攻撃する意味もないほどに、この街はとっくに終わっている。  

 それでも、どこか不思議なほど、哀しくはなかった。まるで、街全体が穏やかな、長すぎる昼寝についているみたいだった。


 アキとハルは、引き寄せられるように坂道を上った。

 その頂上に、一軒だけ、時間が止まっていないかのような場所があった。

 蔦の絡まるレンガ塀に囲まれた、大きなお屋敷。

 庭には、管理されているのかいないのか、色とりどりの花が咲き乱れ、芝生が青々と広がっている。

 ここだけが、世界の終わりから取り残されている。  


 重厚な樫の木の扉は、押すと呆気なく、きぃ、と優しい、錆びついていない音を立てて開いた。


「……ごめんください」  


 誰かがいるとは思えなかったけれど、そう言わずにはいられなかった。

 しんと静まり返ったホール。

 高い天井から差し込む光が、床のチリを、銀河のようにきらきらと照らし出している。  

 その、時が止まったような静寂を、破壊する音が響いた。


 まるで小さな軍隊が突撃してくるような、けたたましい足音。


「どっ、どどどど、どなたですかーっ!?」  


 廊下の奥から、光の帯を突っ切って、ホコリ一つ立てずに、彼女は現れた。

 白いフリルのついたエプロンに、黒のワンピース。

 銀色に近い、さらさらの白髪をショートボブに揺らし、大きな、好奇心にきらめく猫みたいな目が、アキを真正面から捉えていた。

 小柄だが、全身がばね仕掛けみたいに活気に満ちている。メイド服姿の少女、と呼ぶほうがふさわしいかもしれない。


「あ!」


 彼女はアキの姿を認めると、勢いよく急ブレーキをかけ、きゅ、と靴音を鳴らして止まった。

 そして、目をこれでもかと丸くして、次の瞬間、太陽が爆発したみたいに笑った。


「お客さんです! わー! お客さんが来ましたよーっ! やったー! ようこそおいでくださいましたっ! 私、ユキと申します! 旦那様はあいにくご不在ですが、どうぞどうぞ、お入りください!」


 あまりに場違いな、あまりに嵐のような歓迎の言葉。

 アキは戸惑い、何か言おうとして、口をぱくぱくと動かすだけだった。

 そんなアキの肩から、ハルが「こいつはヤバそうだ」とでも言いたげに、ひらりと床に飛び降りる。

 そして、警戒しながらユキの足元に近寄った。


「まぁ! 可愛いお客さんもご一緒でしたか! にゃんこ! にゃんこじゃないですか! もふもふ! もふもふ許可、願います!」


 ユキは、アキの返事も待たずに屈み込むと、ハルの喉をわしわしと、しかし驚くほど優しく撫で始めた。   

 ハルは最初こそ「ふー」と威嚇していたが、その絶妙な手つきに、すぐに「ゴロゴロゴロ……」と喉を鳴らし、戦闘を放棄した。


「ふふふ、陥落ですね! さすがユキ印のゴッドハンドです! それでは旦那様直伝、秘技『猫転がし』!」


 ユキが指先を器用に動かし、ハルの腹をくすぐり始める。

 ハルは足をじたばたさせながら、あっという間に床にごろんと転がった。


「完璧です!」

 ユキが勝利のVサインを決める。


「さあさあ、お二人ともお疲れでしょう! お食事! お風呂! ふかふかのベッド! フルコースでご用意しますから! こちらへどうぞ!」


 ユキは立ち上がると、アキの手を掴む。その手は、不思議と温かかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る