空の青、約束の庭

壱乗寺かるた

第1話


 空は、なんていうか、ひどく退屈な場所だった。

 どこまで行っても同じような青が広がっていて、時々、ちぎれた綿みたいな雲が浮かんでいるだけ。


 兄さんは、空はでっかい散歩道だ、なんて笑っていたけれど、それはきっと景気のいい嘘だ。

 こんなに寂しい散歩道があるものか。


 コックピットの中、計器類のか細い光が、死にかけの蛍みたいにアキの顔を照らしている。

 パイロットスーツは、まだ少し、袖が余る。

 兄さんのお下がりだからじゃない。ただ、アキがまだ、このスーツを着るには小さすぎるだけだ。  

 操縦桿を握る手に力はない。ほとんど自動操縦オートパイロットに任せきりで、ただぼうっと、地平線という名の縫い目に向かって流れていく景色を眺めている。

 膝の上で、三毛猫のハルが窮屈そうに身じろぎをした。

 ごめん、と声にならない声で呟いて、少しだけ体勢を変えてやる。

 ハルは「にゃうん」と小さな、しかし明確な抗議の声を上げて、また丸くなった。

 その生温かい重みだけが、アキが今、この高度一万フィートの孤独な鉄の箱の中にいる、唯一つの証明みたいだった。



 ――なんつーか、今回は正直ちょっと厳しめ。エースが六機にその他が十五機。そりゃ無理無理絶対に無理! こっちの体は一つだってば!



 不意に、ノイズ混じりの声が頭の中で再生される。

 もう聞こえるはずのない、陽気で、軽薄で、そして誰よりも空が似合った声。

 空色の戦闘機「フユ」の主翼が、太陽の光をアクリル板みたいに鈍く反射した。

 これは兄さんの機体で、兄さんの空で、兄さんの声が一番似合う場所だった。左眼と左手が不自由になったって、誰より空が似合った、アルト最強の、世界で一番かっこよくて、ひどい音痴のパイロット。



 それでも死ぬ気なんてさらさらねーぞ。自己犠牲なんてまっぴらゴメンだ。生き残ってこその人生だろ? まだまだやり残したことはいくらでもあるからな。元気に来週また会おう! シーユー! ナツでした!



 結局それは、守られることのない、ひどく軽い約束になった。

 兄さんはいなくなった。

 あの放送を最後に、空色の戦闘機はアルトの空から消えた。

 いや、正確には消えていない。

 今、こうして自分が乗っている。

 ただ、凱歌を唄うパイロットが、あのひどい音痴の兄さんから、歌なんて知らない妹に代わっただけだ。

人々は噂する。

 ナツは生きている、と。

 今も誰かを守るために飛んでいるんだ、と。

 それは、半分だけ本当で、そして半分は残酷な嘘だった。


「……ハル」  

 

 呼びかけると、猫は眠そうに耳だけをぴくりと動かす。


「お腹、すいたね」  

 

 にゃあ、と心の底からの肯定が返ってくる。

 燃料計の針が、ゆっくりと、しかし確実にエンプティに傾いでいる。

 そろそろどこかに降りなければならない。

 補給と、少しばかりの、人間らしい休息が必要だった。  


 眼下に、緑深い半島の、その先に小さな入り江が見えた。

 古い海図にだって載っていないような、世界から忘れられた港町。

 煙は一つも上がっていない。

 まるで、世界地図の上から綺麗に消しゴムで消されてしまったかのような、完璧な静けさ。


「……あそこにしようか」  


 アキは操縦桿を握り、機体を緩やかに降下させる。

 ハルが不安そうにアキの顔を見上げた。大丈夫、と喉を撫でてやる。

 もう、一人で泣いたりはしない。

 だって、空の上は、泣くにはあまりにも広すぎるのだから。

 空色の機体は、吸い込まれるように、静寂の街へと高度を下げていった。

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