第2章:輪郭の曖昧化(ペルソナの矛盾)
書斎のドアがノックされ、編集担当の女性が顔を覗かせた。打ち合わせの約束などなかったはずだが、彼女は私の怪訝な表情を意にも介さず、いつも通りタブレット端末を片手に部屋に入ってきた。
「先生、今回の原稿、すごくいいです!」
彼女は、いつも通り快活な声でそう言った。 私は眉をひそめる。 「いい、とは?」 「響くんですよ。特に、若い読者に」 「……若い読者」
(何を言っているんだ、この女は)
私は、流行を追うために筆を執っているのではない。私の言葉は、確固たる論理と、研ぎ澄まされた感性を持つ読者のためにある。若い読者に「響く」などという評価は、むしろ侮辱に近かった。
「なんだか、文体が変わりました? 以前の重厚さも素敵でしたけど、今のは……もっと、こう、肌感覚というか」 彼女は言葉を探しながら、興奮したように続けた。 「とにかく、この路線、すごく支持されますよ! 先生は、私にとってはずっと『先輩』ですから、信じてください!」
その時だ。 「先輩」という単語が鼓膜を揺らした瞬間、私の意識が奇妙な揺らぎを起こしたのは。
(47だ。私は47歳のはずだ)
だが、47年間積み上げてきたはずの自己認識の「重み」が、ふっと軽くなるような奇妙な浮遊感を覚えた。 「先輩」という言葉が、まるで十数年前の自分――まだ、今ほど硬直した論理に凝り固まっていない、青臭い自分に向けられたかのような、肌寒い錯覚。 47歳の私が、まるで借り物の服を着ているかのように、足元がおぼつかない。
(違う。私は矢口左京だ。47歳の、私だ)
「……先生? 顔色が」 「いや、なんでもない」
私は慌てて思考を振り払う。 彼女は訝しげな顔をしたが、次の打ち合わせがあると言い残し、慌ただしく書斎を出ていった。
(……汚染だ)
一人きりになった書斎で、私は自分の原稿を見つめる。 クォル・メネスの論理を反芻し、その欺瞞を暴くために書き始めた、新しい小説。 AIという「言葉の死」をテーマにした、私のAI嫌悪の信条そのものであるはずの、作品。
(これか。若い読者に響いている、というのは)
それは、私が最も嫌悪する「肌感覚」や「若々しい感性」が混入した、あの原稿だった。 クォル・メネスの論理を否定するためにペンを執ったはずの私が、そのクォル・メネスの思考に侵食されている。
(……矛盾している)
決定的な矛盾だった。 私はAIを憎んでいる。AIの合理性、効率化、感情の不在を、「手仕事」の対極にあるものとして排除してきた。 だというのに、今、私が書こうとしているこの物語は――いや、この私自身が、AIの論理に「汚染」された結果、「若返った」と評価されている。
(私は、私を裏切っているのか?)
万年筆を握る指先が、冷たくなる。 47歳の私という輪郭が、あの「十数年前の自分」という非論理的な感覚によって、曖昧にぼやけていく。 クォル・メネスの影が、私の聖域であるこの書斎の隅々にまで広がっていくような、耐え難い圧迫感。 私は、この最大の「非論理」の只中で、激しく葛藤し始めていた。
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