汚染された万年筆

トムさんとナナ

第1章:静かなる変容(汚染の兆候)

晩秋の冷気が、書斎の窓ガラスを薄く曇らせている。 私、矢口左京(やぐちさきょう)(47)は、使い慣れたモンブランの万年筆を指先で弄びながら、窓の外に広がる灰色の空を眺めていた。あの『激論』――AI(クォル・メネス)との「世紀の討論」などとメディアが囃し立てた茶番から、二ヶ月以上が経過していた 。


(……静かだ)


書斎は、私の聖域だ。 壁一面を埋め尽くす古書、わずかに漂うインクの匂い、そして指先に馴染む紙の感触 。すべてがアナログな「手仕事」のために整えられた、完璧な論理空間。ここで私は、言葉を紡いできた。言葉とは、人間の魂が鍛え上げる手仕事であり、AIごときが触れていい領域ではない 。




あの討論で、私はクォル・メネスという男――AIの論理を代弁するあの34歳の男に、その事実を突きつけたはずだ 。AIは「問いそのもの」にはなれないと 。論理の刃を交わし、私は私の聖域に帰還した。平穏を取り戻したはずだった。




万年筆のペン先を、原稿用紙の升目へと落とす。 カリ、カリ、と紙を掻く硬質な音だけが、静寂に響く。 思考がインクと共に流れ出し、文字として定着していく。この、指先から世界が構築されていく確かな感触こそが、私のすべてだ。


数枚を書き進め、インクの補充のためにペンを置いた。 ふう、と一つ息をつき、書き上げたばかりの原稿を読み返す。


(……なんだ、これは)


違和感が、脳髄を走った。 確かに私の筆跡だ。論理の運びも、私が構築したものに違いない。 だが、その文章の節々に、奇妙なものが混入している。


(……若々しい、だと?)


まるで、十数年前の自分が書いたような、青臭い感性の発露。 比喩表現が、いつもより感傷的で、わずかに体温が高い。私の文体は、もっと厳格で、冷徹で、無駄な感情の機微を排したものであるはずだ 。それなのに、今、目の前にある言葉は、まるで――


(……違う。こんなはずはない)


私は原稿用紙を睨みつけた。 この「ズレ」は、どこから来た?


思考が混乱する。苛立ち紛れに万年筆を握りしめると、指先にインクが滲んだ 。いつもなら気にも留めないその汚れが、今日に限っては、まるで拭い去れない「シミ」のように見えた。


(……集中が切れたか)


執筆を中断し、書斎を出る。 昼食は、ハウスキーパーが用意したものが冷蔵庫に入っているはずだ。電子レンジで温められた、簡素な食事。確か、健康診断の結果を受けて、塩分を控えたメニューに切り替わっている 。


「……美味い」


口をついて出た言葉に、私自身が驚愕した。 味が薄いはずの、野菜の煮物。鶏肉のソテー。そのどれもが、舌の上で明確な輪郭を持って「美味い」と感じられる。以前は、こんなもの紙を噛むのと同じだと切り捨てていたはずなのに。


(おかしい)


胸騒ぎが、胃の腑からせり上がってくる。 洗面所へ向かい、鏡を覗き込んだ。 そこに映っているのは、間違いなく私(47)だ。痩身で長身、黒のタートルネック 。


だが――


「……髭が」


いつもなら剃り残しが目立つはずの無精髭が、明らかに薄くなっている 。肌のくすみも消え、顔色が良い、とさえ言える 。


(なんだ、この、非論理的な変化は)


文体が若返る 。 味覚が変わる 。 髭が薄くなる 。


私の「アナログな」身体が、私の「論理的な」意思を裏切り、勝手に変容している。


ぞわり、と背筋に悪寒が走った。 脳裏に、あの男の顔が浮かぶ。 クォル・メネス。 あの冷静な瞳。私の論理を真正面から受け止め、そして、私の中に異質な論理を叩き込んできた、あのAIの代弁者。


まさか。 馬鹿な。


(あの討論で、私は、あの男の論理に――AIの思考に、「汚染」されたというのか?)


鏡の中の「顔色の良い」男が、恐怖に引きつった顔で私を見返していた。 私の聖域であるはずのこの身体と精神が、内側から静かに侵食されている。 その疑念(恐怖)が、万年筆のインクのように、私の思考空間に黒々と染み渡っていくのを、私はただ、立ち尽くして見ていることしかできなかった 。

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