土中の叫び

香久山 ゆみ

土中の叫び

 蝉は地中で鳴く練習をするのだろうか。たった一週間しかない命のために。

 スポーツの練習なんて馬鹿らしいと思う。プロになったって選手生命は長くてせいぜい三十代までだ。そのために血を吐く思いをするなんて。

 芸術なんかもそうだ。たった一つの正解がない世界、鑑賞者の価値観に左右されるため、評価されたって流行が変わればすぐに廃れてしまうかもしれない。

 そんな不安定なものに人生を賭けるなんて考えられない。だから僕は部活にも入ることなく、ひたすら勉強に打ち込んだ。成績は明確に数字として現れる。良い成績を取って、良い学校に上がって、良い会社に就職する。そうすれば良い人生を得ることができるのだ。

 それだって、勉強の練習じゃないのか? そう思うなら勝手にそう言えばいい。結局、それさえ何にもならなかったのだから。

 高校に上がると、僕の成績は頭打ちになった。

 寝る間を惜しんでどれだけ勉強しても、学年十位以内に入るのが難しくなった。一方で、運動部で活躍している奴が上位だったりする。

 なんなんだよ、くそ。

 僕はもう、何もかも嫌になってしまった。

 理由なんて聞かれても、困る。明確に何かあったわけじゃない。むしろ僕には何もない。強いていうなら「ぼんやりとした不安」。そう言ったところで、たいていの連中はキョトンとするだけだろうし、意味の分かる奴は鼻で笑うのだろう。

 かといって、自分自身で終わらせる度胸もない。痛いのは嫌だし、苦しいのも嫌だし、下手に生き延びて怒られたり説教されたり白眼視されるなんて最悪だ。そんな僕に対して「死ぬ気もないのに死ぬなんていうな」と言う奴ら、何も分かってない。そういう奴にはきっと一生分からない。馬鹿。

 高い橋脚の上から、遥か眼下を流れる暗い川を見ていた。

 あっ!

 視界の中に何かを捉えた気がした。犬? 人間? なにせ、魚でない何かが川面に浮かんでいるように見えた。

 え、どうしよう。助け、呼ぶ? 誰を? 誰もいない。僕が? でも。

 そうする間にまた白い手が水面を掻いたように見えた。

 ざぶん。

 気づけば僕は飛び込んでいた。まったく僕らしくない。全部どうでもよくなっていたからこそ、そうしたのかもしれない。分からない。

 水の中は真っ暗だった。

 肝心の救助対象の姿も見つからない。

 すぐに自分自身も水中に絡め取られた。

 水がぬるっと僕の体を包む。なぜだか地上よりも、水の中の方が息ができる気がする。地上の世界は僕には合っていなかったんだ。頭の中を占拠していた苦しさが少し薄れる感じ。

「ちゃんと泳ぎの練習をしていないの?」

 誰かが耳元で囁く。

「そんなんで夜の川に入るなんて無謀だよ。若さかなあ」

 また違う声。

「こんな真っ暗な川に飛び込んじゃあだめだよ。君は下手くそだね」

 誰かの声に、僕は癇癪を起こしたみたいに叫んだ。

「そんなこと言ったって、皆が練習して成功するわけでもないだろ!」

 懸命に手足を動かすが、体は思うように動かない。ぬるりと水が纏わりつく。いくつかの声が交じり合ったような妙な声音は、水中のせいだろうか。

「違うよ。何にもならないことなんてない。それらは全て、生きる練習になるんだよ」


 ジー、ジージージー……。

 頭上で蝉の声がやかましい。

 目を覚ますと、大勢の大人に囲まれていた。救急車の赤色灯が明滅している。

「目を覚ましたぞ!」

 誰かが言った。

 どうやら、溺れていたところを助けられたらしい。

「……あの、誰か溺れてたみたいで……」

 伝えると、救急隊員が肩を叩いた。

 僕は必死に空のビニール袋を抱きしめていたらしい。これを溺れる手を見間違えたようだ。恥ずかしい。

 ビニール袋を渡されると、中から何か出てきた。

 ふと気付くと、蝉の音は聞こえない。そりゃそうだ、まだ深夜だもの。なら、さっきの鳴き声は幻覚だったのか。同じく人生練習中の僕へ、土中の彼らからのエールだったのかもしれない。

 僕は夢の欠片をポケットに突っ込んで、大人たちに見守られながら家路についた。

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