「僕らは、よく燃える。」
宮沢
第1話 神木
家を出て、駅前のロータリーを歩く頃には既に、ぽつりぽつりと小雨が降り出していて、鼻先を
……それは憂鬱な匂いだった。たださえブルーな気持ちを更に青く染め上げるような。そんな青い心情がもうここ何ヵ月もの間、胸の中で冷たく固まったままだった。
原因ははっきりとしている。それは自分の書いている「小説」にあった。
二か月後に控えている、大型のネット小説コンクール「
小説が書けないから、ずっとブルーなまま。なんて単純で分かりやすいんだろう。
だが、道理が単純な悩み程、解決に至るまでが難しいものはない。
その理屈もまた、憂鬱を作り上げる一要素になっていた。
鉛の如く、重たくて冷たい感覚を胸に抱えて、僕はふと反対側の歩道に視線を動かした。十数メートル先の道にはバス停があって、駅構内へと向かう人の列がぞろぞろと波の様になって、続いている。
思えば、時間帯は通勤通学時のピークにあった。
それならば、この人の波は不自然じゃない。むしろ当たり前の光景だ。
……当たり前、か。ぼんやりと眺めながら、脳内で言葉を
自分の中にある当たり前の意味を今一度、考え直す必要がある気がした。
数年前まで僕も、あの当たり前の中にいた。人の波に紛れ、改札を潜り、電車に乗り、高校がある駅へ着くまで揺られる日々を過ごしていた。
今は、他人の当たり前を
……要は怠慢だ。僕は無計画にモラトリアムの中を生きている。
将来のしの字ですら、思い浮かばない。過去も今も未来もずっと不明瞭だ。
やがて、列は綺麗さっぱりと無くなった。僕は最後尾の人を見送り、再び歩き始める。いくら怠惰とはいえ、向かうべき場所があった。
「──おはようございます」
朝の挨拶をしながら、扉を開ける。返事は帰ってこないが、マスターは店の奥にいるはずだ。その証拠にコーヒーの豊かな香りが店の中を漂っている。
背負っている鞄をカウンター席に置き、店内を見回す。すると「おはようございます」とマスターであるアスミさんの声が背後から、聞こえた。
基本的にこの人は誰に対しても敬語なのだが、その美しい言葉遣いが気持ちよくもあり、どことない恐ろしさでもあった。
振り返り、マスターから深緑色のエプロンを受け取る。仕事着に身を包み、置いていた鞄を片付けると、「朝からジメジメとしていますね」とマスターは呟いた。
僕は、そうですね。と軽く相槌を打ち、店の大窓越しの風景に目をやる。
確かに外はジメジメムシムシとしていた。六月の梅雨真っ盛りな時期なので仕方がないとはいえ、予報が外れて、朝から雨が降るなんて思わなかった。
「もう降り始めてましたよ」と言うとマスターは「そうですか」と言い残し、また店の奥へと消えていく。一人になった僕も作業に取り掛かるべく、動き始める。
現在の時刻は【9:00】を少し過ぎた所で、この店の開店時刻は【10:30】だった。つまりこの一時間半の間に、客を入れられるように準備をしなければならない。
まずは店内清掃から始めた。その次は足りない備品や材料を近所で購入し、他には飾ってある観葉植物に水をやったり、マスターの新メニューの試食をしたりする。
最後に関しては、美味しい料理を食べるだけで本当に仕事になっているのか、給料を貰っても良いのかと思ったが、それはマスターが強く望んだことだった。
そうこうしていると今日、一人目の客がやって来た。初老の女性だ。
彼女は眼鏡をかけていて、右腕にクリーム色のトートバッグを提げていた。
「いらっしゃいませ」僕は軽くお辞儀をして、窓際のソファ席に案内をする。
席に着くなり、彼女は「ホットコーヒーを一つ下さい」と注文した。
僕はその注文を受け、カウンターに立っているマスターに届ける。
コーヒーを淹れたり、料理を作ったりするのはマスターの仕事だった。
何の技術も持たない僕は、潰しの効く誰にでも出来る仕事を、出来る限り完璧にこなせるように努めることが仕事だ。それは誰かの当たり前になるという事だと思う。
コーヒーを持っていくと、文庫本を読んでいた彼女は眼鏡を外し、小声で「ありがとう」と礼を言う。その後、角砂糖を二つ、黒い渦の中へぽとんと落とした。
カチャカチャとスプーンで砂糖を溶かす音がした。それは何らかの文学的な暗喩を思わせた。直観的に僕は胸ポケットに入れているメモ帳に言葉を書き記すためにペンを走らせる。
この習慣は自分が小説を書き始めてから、間もない頃に思いついた事で、日常生活のあらゆる物事が自分の文学性の糧になるのではないかと思って、始めた。
おかげで今はどこに行くにしても、メモ帳が手放せない生活で、何も知らない人からしたら、一介の記者の様に思われているかもしれない。
すると三人の大学生らしき、若者が店にやって来た。
賑やかな話声で、何やら専門的な単語を駆使して、会話をしている。
もう少し、賢ければ内容が理解できたのだろうが、今は仕方がない。
「いらっしゃいませ」
僕はスムーズに一人目の客と同じ様に席に案内し、注文をうける。
どうやら三人は友人関係にあるようで、親しげにメニューを見ていた。
三人が注文したのは全員同じメニューだった。サラダとオムライスのセット。
オムライスはこの店一番の看板メニューで、一番人気の料理だった。
「お持ちいたしました。三色オムライスです」
僕は器用に運んできた、三つのオムライスの皿とサラダの小鉢をテーブルに並べ、手書きの伝票を裏向きで端に置いた。
目の前に料理が置かれると、若者たちは一斉に食事にありついた。パクリパクリと食べ進め、あっという間に皿は空。僕は片付けに皿を回収しに行く。
皿を回収している途中、三人はとあるシンガーソングライターの話をしていた。
盗み聞くつもりなど無かったが、偶然聞こえてしまったのだ。
「……ごちそうさま。ところでお前の推してる、Yuricoちゃんって、最近どうなの?何かの映画の主題歌やるって話題だったじゃん」
「確かに推しではあるけどさ、その言い方、妙におっさん臭いな」
「良いだろ別に、それでどうなの?」
「……まぁ、人気だな。その映画の主題歌ってのもすげー売れてるし」
「そうそう、すごい人気だぞ。俺もこいつから教えてもらって、オンラインライブとか見てみたけど、コメントとか凄まじい勢いだったからな」
「……へぇ。まぁ今度聞いてみようかな」
「それ、絶対聞かないやつだろ。一度でいいから聞いてみろって。CМとかにも起用されてて、本当に良いんだよ」
「ネットに現れた、新星のシンガーソングライターねぇ。まだ10代だろ。なんか若い才能に触れると、なぁ……」
「なんだよ、コンプレックスか?」
「いやぁ、別に……」
そこから会話の先は聞かなかった。いつまでも汚れた皿を両手にその場に立ちつくすのは不自然だし、彼らの会話のトーンがどうも気に食わなかった。
自分と同年代の彼らが、楽しそうに話している姿を見ると動悸がする。
安い嫉妬心である事は自分でも理解していたが、制御が効かない。
あっという間に真っ青な心臓は、更に深い青に侵食された。
僕はその場を離れ、持っていた食器をカウンターの流しに置き、黄色のスポンジで丁寧に皿を洗い始める。
精神にこべりついた汚れも、こうやってするすると洗い流せたら良かったが、この世界に人間用の精神洗剤なんて物は無くて、ただただ汚れが蓄積していくばかりだ。
僕は僕の中にある「汚れ」から解放される日を今か今かと、待っている。
……そんな日が来るわけない事を知りながら、ずっと待っている。
家に着いたのはアルバイトを終えて、店を後にしてから40分後の【15:42】だった。夕飯の買い物に少し手こずってしまい、予想以上に時間が掛かってしまった。
僕は古い冷蔵庫の中に、2Lボトルの水を2本と半額になっていた弁当を入れる。
その後すぐにパソコンを起動させて、執筆ソフトを開き、小説を書くために姿勢を整えた。
ソフトを起動させたのは良いものの、画面はこれ以上ない程、真っ白だった。
あの字すらない、未踏の新雪のような白が目に映る。
……実のところ、少し前から小説が書けない症状に陥っていた。
いざ書こうと画面を前にすると、キーボードを叩こうとする指が止まり、プロットを想像しようとする脳が機能を止めてしまう。
それでも無理やり文字を打ち込んでみても、画面に表示されるのはただの黒いシミのような、つまらない駄文の羅列だけだった。
それ以来、小説を書く意欲を慰めるかの如く、僕はソフトを立ち上げ、文字が打ち込まれる前のブランクな画面をじっと眺める時間を過ごしている。
おそらく今日も、僕はその場にじっと座ったまま、画面を見つめるだけの生産性のない時間を過ごすことになるだろう。
そう思うと身体の力が一気に抜けた。上半身は床に倒れ込み、天井を見つめる。
全てをほっぽって、このまま寝てしまおうか?
幸い、労働のストレスのおかげで身体はそれなりに疲れていた。
でも現実から、目を背けてどうする?才能の無い僕みたいな物書きは書いて書いて、死が傍に迫るまで書き続けて、やっとスタートラインに立てるんじゃないのか?
それなら、惰眠を貪る時間なんて無いはずだ。
……余裕なんて、あってはいけないはずだ。
それなのに。なのに。今は眠ってしまいたい。
ストレスと眠気に抗えず、僕は目を閉じて暗闇の中でかつての友を想う。
なぁ、ミズシマ。お前は今、どこで何をしてるんだ?
たった一人だけの、友達と呼んでも良い人間。それが許される人間。
「なぁ、ミズシマ……」
懐かしい名前を口にしながら、意識は次第に抜け落ちていく。
かつての友人と会う夢は、まだ見れそうになかった。
「僕らは、よく燃える。」 宮沢 @fuwasawa
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