2部
第1話 魔法の都
朝日が王都の白亜の城壁を照らす頃、エリスと私を乗せた馬車は南門へと到達した。
「着いた……」
窓から身を乗り出し、息を呑んだ。
城壁が、聳えている。
高さは二十メートルを優に超える。真っ白な石材が整然と積み上げられ、表面には無数の魔法陣が刻まれている。
青白い光が脈動するように明滅し、壁全体が生きているかのようだ。
門には巨大な双頭の鷲の紋章。エルドリア王国の象徴。その周囲にも複雑な魔法陣が幾重にも配置されている。
前世の知識に当てはめて考えるなら、これは「多重防御システム」だ。物理攻撃を弾き、魔法攻撃を無効化し、侵入者を検知する。
何百年も前に構築されたインフラが、今もなお完全に機能している。
「こんなに大きな街……」
声は、自然と小さくなった。
「私の故郷よ。五年ぶりね」
隣に座るエリスが、懐かしそうに微笑んだ。
彼女の瞳には、複雑な感情が宿っている。喜び、郷愁、そして――わずかな不安。
馬車が門の前で停止した。
門番が近づいてくる。紺色の制服、胸には王国の紋章。腰には剣。引き締まった表情。
御者が召喚状を差し出した。
門番はそれを確認し、顔を上げた。
「セリア・アーデル殿ですね。お待ちしておりました」
その声は丁寧で、敬意が込められている。
辺境の村から来た十二歳の少女に対して。
緊張で喉が渇くのを感じた。
「はい」
門番は一礼し、背後の門へ合図を送った。
魔法陣が一斉に輝く。
低い駆動音。石が軋む音。
巨大な門が、ゆっくりと開き始めた。
その向こうに――
街が、広がっていた。
◆
石畳の道。
三階建て、四階建ての建物が立ち並ぶ。
屋根は赤い瓦。壁は白い漆喰。窓枠は木製で、ステンドグラスが朝日を受けて輝いている。
道の両脇には魔導灯が等間隔で設置されている。村で見たものより大きく、より洗練されたデザインだ。
すでに街は活気に満ちていた。
商人たちが店先に商品を並べ、職人たちが工房で作業を始めている。
子供たちが路地を駆け回り、馬車が行き交う。
そして――魔法が、至る所にあった。
水車が魔法で回転している。
看板が浮遊し、ゆっくりと回転しながら店名を示している。
小型の魔導機が空を飛び、荷物を配達している。
全てが、魔法で動いている。
「王都は魔法文明の中心地。全てが魔法で動いているわ」
エリスが説明した。
「魔導灯、水道、下水、暖房――生活の全てが魔法に支えられてる」
窓に額を押し付けて、街を観察した。
効率が悪い。
その思考が、自然と浮かんだ。
水車を回すのに魔法を使う必要があるだろうか。水流を利用すれば、魔力を消費せずに済む。
看板を浮遊させる必要があるだろうか。支柱で固定すれば、メンテナンスが容易になる。
魔法は便利だ。だが、それは「魔力がある者」にとっての便利さだ。
魔力がない者は――
「あの馬車……王国の紋章が」
市民の一人が、私たちの馬車を指差した。
「誰か、偉い人?」
「いや、後ろを見ろ」
振り返った。
自分たちの馬車の後方に、もう一台の大型輸送馬車が続いている。
そこには、ブラス・ウルフが載せられていた。
固定具で慎重に固定され、防護布で覆われている。
輸送用の馬車は通常のものより大きく、車輪の下には強力な浮力魔法陣が展開されている。
重量物を運ぶための特殊仕様だ。
「あれは……機械?」
「魔導機装じゃないか?」
「動くのか、あれ?」
市民たちの視線が集まる。
少し居心地の悪さを感じた。
注目されすぎている。
馬車は街の中心部へと進んでいく。
やがて、遠くに塔が見えた。
大魔導塔。
百メートルを超える高さ。尖塔の先端には、巨大な霊素結晶が輝いている。
青白い光が、朝の空に溶け込んでいる。
「あれが王都の心臓、大魔導塔よ」
エリスが言った。
「王都全体に霊素を供給してる。あの塔がなければ、この街は機能しない」
塔を見上げた。
単一障害点。
システム全体の命運を握る、唯一の弱点。
もし、あの塔が止まったら?
もし、結晶が破壊されたら?
王都は、一瞬で機能不全に陥る。
魔導灯が消え、水道が止まり、暖房が効かなくなる。
街全体が、闇に沈む。
「……脆い」
小さく呟いた。
「え?」
「いえ、何でもありません」
首を振った。
だが、心の中では確信していた。
この街は、魔法に依存しすぎている。
そして、その依存は――いつか、崩壊を招く。
◆
馬車は、やがて一つの建物の前で停止した。
王国第一技術局。
五階建ての石造建築。
外壁には防御と魔力供給のための魔法陣が刻まれている。
正面玄関は立派な石柱で支えられ、扉には双頭の鷲の紋章が掲げられている。
「ここが……」
建物を見上げた。
「王国第一技術局。魔法技術研究の最高機関よ」
エリスが説明した。
「ここで、王国の全ての魔法技術が開発される」
エリスと私は馬車を降りた。
後方の輸送馬車からは、技術局の職員たちがブラス・ウルフを慎重に降ろしている。
大型のクレーン魔法陣が展開され、機体がゆっくりと地面へと下ろされていく。
職員たちの動きは手慣れている。大型の魔導機装を扱うことに、慣れているのだろう。
正面玄関へと向かった。
扉を開けると、広いロビーが広がっていた。
大理石の床。高い天井。壁には歴代の技術局長の肖像画が並んでいる。
受付には、若い女性が座っていた。
「お名前をどうぞ」
「セリア・アーデルです」
受付係は名簿を確認し、顔を上げた。
「セリア・アーデル様ですね。お待ちしておりました」
彼女は立ち上がり、一礼した。
「副局長がお待ちです。5階へどうぞ」
「ブラス・ウルフは?」
「中庭へ運搬いたします。こちらで責任を持ってお預かりします」
「ありがとうございます」
エリスと私は、階段を上り始めた。
一階、二階、三階――
各階からは、様々な音が聞こえてくる。
魔法陣を描く音。金属を叩く音。詠唱の声。
技術者たちの、日常。
胸が、高鳴った。
ここが、私の新しい職場だ。
◆
五階。
廊下の突き当たりに、「副局長室」の表札が掛かった扉がある。
ノックした。
「どうぞ」
落ち着いた声が応えた。
扉を開けると――
広い部屋が広がっていた。
大きな机。その上には、整然と並べられた書類と設計図。
本棚には、魔法技術に関する文献が隙間なく並んでいる。
窓からは、王都の街並みが一望できる。
そして、机の前に――
一人の男性が立っていた。
四十代前半。眼鏡をかけた、落ち着いた雰囲気の紳士。
髪は黒く、わずかに白髪が混じっている。
制服は整然としており、姿勢は真っ直ぐだ。
アルフレッド・クラウス。
王国第一技術局・副局長。
「君が、セリア・アーデルか」
彼は穏やかに微笑んだ。
「はい。お呼びいただき、ありがとうございます」
緊張しながら一礼した。
アルフレッドは机の前から歩み出た。
「魔導機装を再起動させた少女」
彼は私を見つめた。
その視線は鋭いが、温かい。
「報告書を読んだ。見事だ」
「辺境の村で、たった一人で成し遂げた」
「いえ、ガランさんや村の皆さんの助けがあって……」
「謙虚だな」
アルフレッドは微笑んだ。
「だが、設計図は君が描いた。制御系は君が構築した」
「それは、紛れもなく君の功績だ」
何も言えなかった。
アルフレッドの言葉には、嘘がない。
彼は本当に、私の技術を評価している。
「では、実物を見せてもらおう」
アルフレッドは窓の方を向いた。
「中庭で待っている」
◆
技術局の中庭は、広大だった。
訓練場としても使用されているらしい。地面は平らに整地され、周囲には観覧席が設けられている。
すでに、十五人ほどの技術局員が集まっていた。
彼らは皆、期待と好奇心に満ちた目でブラス・ウルフを見つめている。
機体は中庭の中央に立っていた。
全高九メートル超。真鍮色の装甲。双耳状のアンテナ。
胸部の霊素結晶は、まだ光っていない。
「おお……」
「本当に、あれが動くのか?」
技術局員たちがざわめく。
深呼吸をした。
緊張する。
だが、同時に――わくわくする。
ここにいる人たちは、全員が技術者だ。
魔法を研究し、新しい技術を開発し、世界を前に進めようとしている人たち。
彼らに、ブラス・ウルフを見せられる。
コクピットへと歩いた。
胸部装甲を開く。
狭い空間に身を滑り込ませる。
座席に座る。
操縦桿を握る。
計器盤を確認。
全てのシステムが、待機状態だ。
「起動します」
魔導炉の接続端子に手を当てた。
魔力を注入する。
胸部の霊素結晶が、青白く輝き始めた。
光が全身に走る。
魔導流体筋肉が蠢く。
油圧シリンダーが圧力を得る。
関節が、わずかに軋む。
そして――
ブラス・ウルフが、立ち上がった。
「動いた!」
「本当に動く!」
技術局員たちの歓声が上がる。
操縦桿をゆっくりと動かした。
右足が前に出る。次に左足。
ブラス・ウルフが、歩き始めた。
重い足音が地面に響く。
だが、その動きは滑らかだ。
機械的なぎこちなさはない。
まるで生きているかのように、自然に。
旋回させた。
機体が左へ向きを変える。
バランスを崩すことなく、流れるような動き。
次に、腕を動かした。
右腕が上がる。肘が曲がる。指が開く。
精密な制御。
誤差は、ミリメートル単位。
アルフレッドが、じっと観察している。
彼の目は、専門家のそれだ。
魔法陣の配置、関節の動き、バランス制御――全てを、見逃さない。
ブラス・ウルフを停止させた。
コクピットから降りる。
アルフレッドが近づいてきた。
「魔法式が……最適化されている」
彼は呟いた。
「無駄な構成要素が削られている」
アルフレッドはブラス・ウルフの脚部を見つめた。
「この関節部の魔法陣……従来の設計より三割は簡素化されている」
「だが、出力は落ちていない」
彼は顔を上げ、私を見た。
「これは……古代の原型を超えている」
「君は、本物だ」
その言葉には、確信が込められていた。
技術局員たちが、拍手を始めた。
少しだけ照れくさかった。
だが――嬉しかった。
認められた。
技術者として。
その時――
拍手が、止まった。
◆
一人の男が、中庭に入ってきた。
長身。銀髪。鋭い青の瞳。
整った制服の襟元まで、完璧に張りつめている。
ただ、その顔は――冬の空気のように冷たかった。
「局長……!」
技術局員たちが一斉に敬礼する。
その声に、かすかな緊張が混じった。
レオナルド・フォン・エルドリア。
王国第一技術局局長。三十五歳。
王族の血を引く、才覚と地位を兼ね備えた男。
「アルフレッド、これが例の者か」
「はい。セリア・アーデルです」
レオナルドの視線が私をとらえた。
冷たい。けれど、何かを量るように静かだった。
「……平民の小娘か」
背筋が凍る。
その時、背後で小さな呟きが漏れた。
「空持ちが、技術局に……?」
レオナルドの青い瞳が、すぐにそちらを射抜く。
空気が一瞬で張り詰めた。
「その呼称は使うな」
声は低く、しかし明確に響いた。
「“空持ち”などという俗語は侮辱だ。
正確な言葉を使え――“非魔導適性者”だ」
若い局員が蒼ざめて敬礼する。
その静けさの中で、レオナルドだけが微動だにしなかった。
「魔力の有無は生まれの偶然だ。
そのことで誰かを貶める資格は、誰にもない」
その言葉は、思いがけず温かかった。
けれど次の瞬間には、再び氷のような口調に戻る。
「……だが、魔導機装を動かしたと聞いた」
レオナルドの視線が、ブラス・ウルフへと流れる。
「所詮は古代の遺物。過去の栄光に縋る行為だ」
「そんなこと……!」
思わず声が出た。
レオナルドはわずかに目を細めた。
「魔法こそが文明の礎。機械など過去の幻影にすぎない。
この王都では、魔法がすべてを支配する」
彼の声には確信があった。
信念の冷たさ――だが、そこに嘲りはない。
「君のような技術者は……まだ、この場所には早い」
胸の奥が痛む。
悔しさよりも、なぜか寂しさが先に来た。
レオナルドは踵を返し、去っていった。
残されたのは、風と沈黙。
「……すまない、セリア」
アルフレッドが肩に手を置いた。
「彼は保守的だが、悪意はない。君の技術を理解できる日が来るさ」
私は小さく頷いた。
けれど胸の奥では、違う言葉が燃えていた。
――いつか証明してみせる。
魔法がなくても、光はともせるということを。
◆
アルフレッドは私を三階の研究室へと案内した。
廊下を歩きながら、考えていた。
レオナルドの言葉。
魔法が全てを支配する。
技術者は不要だ。
――違う。
そう思った。
魔法だけでは、足りない。
この世界には、魔力がない人たちがいる。
リオンのような、真面目で優しい人たちが。
彼らのために、技術が必要なんだ。
「ここだ」
アルフレッドが扉の前で立ち止まった。
扉には、「セリア・アーデル研究室」のプレートが掛かっている。
扉を開けると――
広い部屋が広がっていた。
二十畳ほどの空間。
作業台、工具棚、設計用の大きな机。
窓からは、中庭が見える。
「こんなに立派な……」
驚きの声を上げた。
「君の研究に必要なものは、遠慮なく申請してくれ」
アルフレッドが言った。
「予算は確保してある」
「資材、工具、文献――何でも手配する」
「ありがとうございます」
深く頭を下げた。
「明日から、正式に技術局員だ」
アルフレッドは微笑んだ。
「期待している」
彼はそう言って、部屋を出て行った。
一人残された。
窓の外を見る。
中庭には、ブラス・ウルフが立っている。
私の相棒。
共に戦い、共に歩んできた機械。
「……大丈夫」
小さく呟いた。
「私たちなら、できる」
夕日が、王都を照らしている。
◆
その夜。
技術局付属の宿舎。
自分の部屋で、窓辺に立っていた。
清潔で快適な部屋。
ベッド、机、本棚――全てが揃っている。
窓からは、王都の夜景が見える。
魔導灯の光が、街を照らしている。
青白い光が、無数に瞬いている。
美しい。
だが、同時に――脆い。
魔法が止まれば、全てが消える。
その光景を見ていると、レオナルドの言葉が蘇った。
機械は過去の遺物。
技術者は不要だ。
「……違う」
拳を握った。
「機械は、過去の遺物じゃない」
機械は、未来への希望だ。
魔法に頼らない力。
理屈で動く技術。
誰でも使える道具。
それがあれば――
この世界は、もっと良くなる。
「魔法だけが全てじゃない」
窓に手を当てた。
「私が、それを証明する」
ノックの音がした。
「セリア、入るわよ」
エリスの声。
「はい」
扉が開き、エリスが部屋に入ってきた。
手には、温かいお茶のカップを二つ持っている。
「初日、お疲れ様」
エリスは微笑んで、カップの一つを私に渡した。
「エリス先生」
「局長のこと、気にしてる?」
エリスは、すぐに核心を突いた。
「……少しだけ」
正直に答えた。
「大丈夫よ」
エリスは優しく言った。
「あなたには、アルフレッド副局長がついてる」
「それに……私もいるわ」
エリスを見た。
彼女の目には、温かい光がある。
「……ありがとうございます」
「明日から、頑張りましょう」
エリスは微笑んだ。
「あなたなら、きっとできるわ」
「はい!」
微笑み返した。
二人は、お茶を飲んだ。
温かい液体が、喉を通る。
心が、少しだけ落ち着いた。
エリスが帰った後、再び窓辺に立った。
遠くに、大魔導塔が見える。
青白い光が、夜空に輝いている。
魔法文明の象徴。
そして――私の挑戦の対象。
「レオナルド局長」
小さく呟いた。
「あなたは間違ってる」
「魔法だけでは、この世界は救えない」
「私が、それを証明してみせる」
拳を握りしめる。
決意が、胸に満ちていく。
「技術で――」
目が、輝いた。
「世界を、変えてみせる」
夜風が、窓から吹き込んできた。
カーテンが揺れる。
魔導灯の光が、横顔を照らした。
琥珀色の瞳に、決意の炎が宿っている。
新しい戦いが、始まろうとしていた。
私は、王都で――
理屈と祈りを、融合させる。
魔法と機械を、融合させる。
そして――
誰もが夢を追える世界を、作る。
「待っててね、リオン」
小さく呟く。
「ガランさん。村長さん。みんな」
「必ず、証明してみせるから」
理屈は、誰にでも開かれた扉だと。
技術は、魔法に勝るとも劣らないと。
そして――
魔力がなくても、誰もが強くなれると。
王都の夜は、静かに更けていく。
だが、少女の心には、熱い炎が燃えていた。
挑戦の炎が。
希望の炎が。
そして――変革の炎が。
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