第3話 職人の記憶

朝霧がまだ消えきらない。

工房の前に立ち、私は息を整えた。

金属を叩く音が内側から聞こえる。

リズムは正確。力は均一。

職人の手の音。

扉を叩く。

低い音。

中の作業が止まる。

足音。

扉が開いた。

ガランが立っていた。

無表情。瞳だけが鋭い。

火傷だらけの腕。厚い胸板。

鉄のような男。

私を見る目。

――小さい子供を見るような。

「昨日のこと……」

声を張る。

小さく見られたくない。

「誰にも言わないでください」

沈黙。

十秒。二十秒。

「……入れ」

炉の熱が、顔を打った。

私は足を踏み入れる。

工房は、静かだった。

壁一面に工具。

整然と吊るされたハンマー、ノミ、やすり、ノギス。

炉の火が弾けるたび、影が動く。

秩序の中に、孤独があった。

「座れ」

古い椅子に腰を下ろす。

木肌が磨かれて滑らかだ。

火がぱちりと鳴る。

金属の匂い、油の匂い。

呼吸が重なる音だけが残った。

「……なぜ、動かしたい」

低い声。

私は答えた。

「魔法がなくても、人は作れます」

立ち上がる。

「理屈で動くものなら、誰にでも扱える」

言葉を選びながら、慎重に。

火の粉が飛ぶ。

ガランは動かない。

「私の魔力は四百五十。平均以下です」

拳を握る。

「でも、理屈は平等です。魔力がなくても、理解できる」

沈黙。

やがて、ガランが口を開いた。

「……俺も、昔はそう思っていた」

炉の光が彼の横顔を照らす。

皺の刻まれた頬。

その奥に、まだ熱があった。

「三十年前。王都の学院で『霊素を使わない製鉄法』を研究していた」

ガランの声は低く、一定だった。

「純粋な熱と力だけで鉄を作る方法だ」

棚から一本の鉄棒を取り出し、差し出す。

「これが、その最後の一本だ」

受け取る。

重い。

指先が沈むほど密度が高い。

表面は鏡のように滑らか。

光が跳ね返る。

「温度管理と成分調整だけで打った。魔法は使っていない」

私は棒を持ち上げた。

密度7.8。導熱率60W/mK前後。

――純粋な鋼。

「評議会に提出した」

ガランの声がわずかに揺れた。

「三日後、教会から通達が来た。『神の恵みを否定する技術は異端である』」

火が跳ねる。

その光に、拳の影が揺れた。

「俺は反論した。だが、無駄だった」

「研究室は閉鎖され、資料は没収された」

「俺の名は『異端者リスト』に載った」

ガランの声が乾いていく。

鉄が冷える音がした。

「友は離れた。恩師も沈黙した」

「……技術で人を幸せにしたかっただけだ」

その言葉に、私は何も返さなかった。

火の熱が、少し痛い。

「だからお前もやめろ」

彼の手が肩に置かれた。重い手。

「この世界は理屈を許さない」

沈黙。

長い時間。

炉の音だけが、律動のように響く。

私は顔を上げた。

「許してもらう必要はありません」

声は小さかった。

だが、確かだった。

「動かしてみせます」

鉄棒を置く。乾いた音。

「言葉じゃなく、動く理屈で証明します」

火が跳ね上がる。

「理屈は、誰にでも開かれた扉です」

ガランの瞳に、わずかな光が戻る。

「……そうだな。そう言ってた、昔の俺も」

彼は深呼吸をし、炉の前に立つ。

「お前、世界と戦う覚悟はあるか」

「はい」

即答。

間は要らない。

「なら、見せてやるものがある」

ガランは棚の側面を押した。

金属音。

壁が横に滑る。

その奥に階段。

暗い口。

湿った空気。

「地下室だ」

階段を下りる。

足元の石が軋む。

十段、二十段。空気が冷える。

ガランが壁に手を伸ばした。

カチリ。

ランプが次々と灯る。

オレンジの光が、闇を押しのけた。

広い空間。

整然と並ぶ工具。

歯車、軸受け、ノギス、マイクロメータ。

魔法の気配はない。

どれも純粋な機械。

作業台には試作品。

金属の骨格。小さな関節。

測定器具の隣に、古い設計図。

紙は黄ばんでいるが、線は精密だ。

数値、寸法、トルクの式。

魔法陣の代わりに数式が並ぶ。

「読めます……」

思わず呟く。

線の意味が分かる。

荷重方向、応力分散、回転比。

ガランが腕を組んだ。

「歯車式伝達装置。力を速さに変える」

別の図を指差す。

「差動機構。入力を統合する。自律駆動式だ」

壁一面の図面。

中心に――人型。

膝関節。二重シリンダー。

トルク係数、2.4。

安全率、3.0。

(過剰設計。でも確実)

冷却流路。

胸部→腰部→足底。

容量、推定8.2L。

熱交換率、82%。

(……完璧だ)

指が震える。

これは、動くはずだ。

私は手を伸ばした。

紙の上に影が落ちる。

「……これは、完成していたんですね」

ガランは静かに頷いた。

「完成直前に止められた」

「だが、理屈は正しかった」

彼の手が震えた。

「三十年、閉じ込めてきた技術だ」

作業台の隅に、二つのガラス。

細い金属枠で繋がれている。

「これは?」

「視力補正具だ」

私は光にかざす。

屈折角が違う。

焦点距離は20cm。

単純な球面レンズ。

――眼鏡。

「魔力なしで視界を補う道具だ」

ガランの声に、かすかな誇りがあった。

机の上のレンズが光を反射した。

火の色を取り込み、柔らかく返す。

小さな光。

でも確かに、理屈の火だった。

「全部持っていけ」

ガランの声が響いた。

「道具も、図面も、全部だ」

「いいんですか」

「ああ。俺はもう年を取りすぎた。だが、お前には時間がある」

肩を叩く音。

「お前の手で、もう一度火をつけろ」

私は頷いた。

目頭が熱い。

だが、泣かない。

涙は、熱を冷やす。

「必ず、動かしてみせます」

拳を握る。

「理屈で動く機械を」

ガランは笑った。

長い間、使われなかった表情で。

「期待してるぞ、セリア」

ランプの火が揺れた。

地下の空気がわずかに震える。

熱が戻る音がした。

――技術が、再び呼吸を始めた。

その夜。

私は一人、地下工房に残った。

ガランは先に上がった。

「好きなだけ見ていけ」

そう言い残して。

ランプの灯りの下。

私は設計図を一枚一枚、見ていった。

歯車。軸受け。バネ。カム。

どれも精巧な設計。

理屈で動く。

紙をめくる音だけが響く。

時間を忘れる。

――これが、夢の残骸。

――これが、敗北の記録。

――これが、諦めた希望。

でも――

私の手の中で、これらは再び息を吹き返す。

三十年の沈黙を破って。

鉛筆を取る。

ノートを開く。

線を引く。

数字を書く。

式を並べる。

ブラス・ウルフの構造と、この技術を組み合わせる。

魔法と機械の融合。

古代の叡智と、現代の理屈。

図面が埋まっていく。

計算式が増えていく。

(動かせる)

(必ず、動かせる)

窓のない地下室。

だが、私の胸には光があった。

理屈の光。

技術の炎。

――希望の熱。

鉛筆の音が、静寂を満たす。

地上では夜が更けていく。

でも私は止まらない。

止まれない。

この手で、世界を変える。

理屈で、夢を掴む。

ガランの夢を。

私の夢を。

――誰もが持てる、希望の道具を。

朝まで、私は描き続けた。

未来の設計図を。

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