第3話 職人の記憶
朝霧がまだ消えきらない。
工房の前に立ち、私は息を整えた。
金属を叩く音が内側から聞こえる。
リズムは正確。力は均一。
職人の手の音。
扉を叩く。
低い音。
中の作業が止まる。
足音。
扉が開いた。
ガランが立っていた。
無表情。瞳だけが鋭い。
火傷だらけの腕。厚い胸板。
鉄のような男。
私を見る目。
――小さい子供を見るような。
「昨日のこと……」
声を張る。
小さく見られたくない。
「誰にも言わないでください」
沈黙。
十秒。二十秒。
「……入れ」
◆
炉の熱が、顔を打った。
私は足を踏み入れる。
工房は、静かだった。
壁一面に工具。
整然と吊るされたハンマー、ノミ、やすり、ノギス。
炉の火が弾けるたび、影が動く。
秩序の中に、孤独があった。
「座れ」
古い椅子に腰を下ろす。
木肌が磨かれて滑らかだ。
火がぱちりと鳴る。
金属の匂い、油の匂い。
呼吸が重なる音だけが残った。
「……なぜ、動かしたい」
低い声。
私は答えた。
「魔法がなくても、人は作れます」
立ち上がる。
「理屈で動くものなら、誰にでも扱える」
言葉を選びながら、慎重に。
火の粉が飛ぶ。
ガランは動かない。
「私の魔力は四百五十。平均以下です」
拳を握る。
「でも、理屈は平等です。魔力がなくても、理解できる」
沈黙。
やがて、ガランが口を開いた。
「……俺も、昔はそう思っていた」
◆
炉の光が彼の横顔を照らす。
皺の刻まれた頬。
その奥に、まだ熱があった。
「三十年前。王都の学院で『霊素を使わない製鉄法』を研究していた」
ガランの声は低く、一定だった。
「純粋な熱と力だけで鉄を作る方法だ」
棚から一本の鉄棒を取り出し、差し出す。
「これが、その最後の一本だ」
受け取る。
重い。
指先が沈むほど密度が高い。
表面は鏡のように滑らか。
光が跳ね返る。
「温度管理と成分調整だけで打った。魔法は使っていない」
私は棒を持ち上げた。
密度7.8。導熱率60W/mK前後。
――純粋な鋼。
「評議会に提出した」
ガランの声がわずかに揺れた。
「三日後、教会から通達が来た。『神の恵みを否定する技術は異端である』」
火が跳ねる。
その光に、拳の影が揺れた。
「俺は反論した。だが、無駄だった」
「研究室は閉鎖され、資料は没収された」
「俺の名は『異端者リスト』に載った」
ガランの声が乾いていく。
鉄が冷える音がした。
「友は離れた。恩師も沈黙した」
「……技術で人を幸せにしたかっただけだ」
その言葉に、私は何も返さなかった。
火の熱が、少し痛い。
「だからお前もやめろ」
彼の手が肩に置かれた。重い手。
「この世界は理屈を許さない」
沈黙。
長い時間。
炉の音だけが、律動のように響く。
◆
私は顔を上げた。
「許してもらう必要はありません」
声は小さかった。
だが、確かだった。
「動かしてみせます」
鉄棒を置く。乾いた音。
「言葉じゃなく、動く理屈で証明します」
火が跳ね上がる。
「理屈は、誰にでも開かれた扉です」
ガランの瞳に、わずかな光が戻る。
「……そうだな。そう言ってた、昔の俺も」
彼は深呼吸をし、炉の前に立つ。
「お前、世界と戦う覚悟はあるか」
「はい」
即答。
間は要らない。
「なら、見せてやるものがある」
◆
ガランは棚の側面を押した。
金属音。
壁が横に滑る。
その奥に階段。
暗い口。
湿った空気。
「地下室だ」
階段を下りる。
足元の石が軋む。
十段、二十段。空気が冷える。
ガランが壁に手を伸ばした。
カチリ。
ランプが次々と灯る。
オレンジの光が、闇を押しのけた。
◆
広い空間。
整然と並ぶ工具。
歯車、軸受け、ノギス、マイクロメータ。
魔法の気配はない。
どれも純粋な機械。
作業台には試作品。
金属の骨格。小さな関節。
測定器具の隣に、古い設計図。
紙は黄ばんでいるが、線は精密だ。
数値、寸法、トルクの式。
魔法陣の代わりに数式が並ぶ。
「読めます……」
思わず呟く。
線の意味が分かる。
荷重方向、応力分散、回転比。
ガランが腕を組んだ。
「歯車式伝達装置。力を速さに変える」
別の図を指差す。
「差動機構。入力を統合する。自律駆動式だ」
壁一面の図面。
中心に――人型。
膝関節。二重シリンダー。
トルク係数、2.4。
安全率、3.0。
(過剰設計。でも確実)
冷却流路。
胸部→腰部→足底。
容量、推定8.2L。
熱交換率、82%。
(……完璧だ)
指が震える。
これは、動くはずだ。
私は手を伸ばした。
紙の上に影が落ちる。
「……これは、完成していたんですね」
ガランは静かに頷いた。
「完成直前に止められた」
「だが、理屈は正しかった」
彼の手が震えた。
「三十年、閉じ込めてきた技術だ」
◆
作業台の隅に、二つのガラス。
細い金属枠で繋がれている。
「これは?」
「視力補正具だ」
私は光にかざす。
屈折角が違う。
焦点距離は20cm。
単純な球面レンズ。
――眼鏡。
「魔力なしで視界を補う道具だ」
ガランの声に、かすかな誇りがあった。
机の上のレンズが光を反射した。
火の色を取り込み、柔らかく返す。
小さな光。
でも確かに、理屈の火だった。
「全部持っていけ」
ガランの声が響いた。
「道具も、図面も、全部だ」
「いいんですか」
「ああ。俺はもう年を取りすぎた。だが、お前には時間がある」
肩を叩く音。
「お前の手で、もう一度火をつけろ」
私は頷いた。
目頭が熱い。
だが、泣かない。
涙は、熱を冷やす。
「必ず、動かしてみせます」
拳を握る。
「理屈で動く機械を」
ガランは笑った。
長い間、使われなかった表情で。
「期待してるぞ、セリア」
ランプの火が揺れた。
地下の空気がわずかに震える。
熱が戻る音がした。
――技術が、再び呼吸を始めた。
◆
その夜。
私は一人、地下工房に残った。
ガランは先に上がった。
「好きなだけ見ていけ」
そう言い残して。
ランプの灯りの下。
私は設計図を一枚一枚、見ていった。
歯車。軸受け。バネ。カム。
どれも精巧な設計。
理屈で動く。
紙をめくる音だけが響く。
時間を忘れる。
――これが、夢の残骸。
――これが、敗北の記録。
――これが、諦めた希望。
でも――
私の手の中で、これらは再び息を吹き返す。
三十年の沈黙を破って。
鉛筆を取る。
ノートを開く。
線を引く。
数字を書く。
式を並べる。
ブラス・ウルフの構造と、この技術を組み合わせる。
魔法と機械の融合。
古代の叡智と、現代の理屈。
図面が埋まっていく。
計算式が増えていく。
(動かせる)
(必ず、動かせる)
窓のない地下室。
だが、私の胸には光があった。
理屈の光。
技術の炎。
――希望の熱。
鉛筆の音が、静寂を満たす。
地上では夜が更けていく。
でも私は止まらない。
止まれない。
この手で、世界を変える。
理屈で、夢を掴む。
ガランの夢を。
私の夢を。
――誰もが持てる、希望の道具を。
朝まで、私は描き続けた。
未来の設計図を。
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