第2話 鉄の狼、眠る

警鐘が鳴った。

図書館の静寂を引き裂く、鋭い音。

私は本を閉じ、外へ飛び出した。

石畳の広場。

人が走る。叫ぶ。

全員、鉱山の方を見ていた。

「どうしたの!?」

「落盤だ!」

心臓が、止まる。

リオン――

思考より早く体が動いた。

私は走っていた。

鉱山の入口。

人だかり。

埃の匂い。

煙のような空気。

「リオンは!?」

村長が振り返った。白髪、眼鏡の奥の目が暗い。

「……中だ」

目の前の闇が膨らむ。

私は拳を握った。

怖い。でも行くしかない。

救助隊が動いていた。

魔法師たちが岩を砕き、浮かせ、動かす。

だが進まない。

岩が多すぎる。

誰かの声が震えていた。

「二次崩落の危険がある!」

(そんなの、関係ない)

私は走り出した。

誰かが止める声。

もう遅い。

闇の中に飛び込む。

坑道は冷たかった。

水の滴る音。

魔導灯の光が点滅している。

影が脈打つように動く。

足が滑る。

岩に手をつく。

掌に血が滲む。

それでも進む。

「リオン!」

声が跳ね返る。

返事はない。

もう一度叫ぶ。

喉が痛い。

息が荒い。

それでも止まらない。

奥で光が揺れた。

地鳴り――

耳をつんざく音。

世界が崩れる。

床が抜ける。

視界、回転。

――落下。

痛み。

それが最初の感覚だった。

全身が軋む。

息ができる。

生きている。

魔導灯はまだ光っていた。

青白い光。

周囲が照らされる。

見たことのない空間だった。

壁は滑らか。

床は石ではなく、何かの構造体。

人工物。

そして――

光の中に、影があった。

巨大な人型。

金属の装甲――継ぎ目、見えない。

狼の耳――アンテナか、センサーか。

胸部の結晶、拳大。

脈動周期、約1.2秒。

駆動方式、不明。

魔法陣、見当たらない。

(これは……魔法じゃない)

指先が触れる。

冷たい。でも――

かすかな振動。0.8Hz。

心拍に近い。

(生きてる?)

機械。

それは眠っていた。

何百年も、誰にも見つからずに。

私は前に進んだ。

足が震える。

でも、止まれなかった。

触れた。

冷たい金属。

指先に、かすかな鼓動。

まるで生きているようだった。

胸の結晶が、わずかに明滅した。

心臓が跳ねた。

「セリア……」

背後から声。

振り向くと、リオン・ブレイが倒れていた――汗と土で顔を汚しながら、それでも笑おうとしている。

「リオン!」

駆け寄る。

腕に擦り傷、息はある。

生きている。

息が、漏れた。

「お前、何で来たんだよ……」

「……心配だったから」

「馬鹿だな」

「うん」

二人で笑った。

でもその笑いは、少し震えていた。

リオンが周囲を見回す。

「ここ、どこだ?」

「遺跡……たぶん、古代の」

彼の視線が、鉄の狼を捉えた。

その瞬間、息を呑む音がした。

「うわ、なんだよこれ……」

「魔導機装。古代の兵器」

「動くのか?」

「分からない。でも……生きてる気がする」

私の言葉に、リオンは笑った。

「また変なこと言ってる」

「うん。でも、見て。心臓みたいに光ってる」

青白い光が、二人の顔を照らしていた。

静かな空間。

遠くで水が滴る音だけがする。

まるで、時が止まったようだった。

救助隊の声がした。

「誰かいるか!」

リオンと一緒に叫ぶ。

ロープが降りてきた。

地上の光が遠くに見える。

私は振り返った。

鉄の狼は、まだ膝をついたまま、眠っていた。

だがその胸は、確かに光っていた。

(待っててね。必ず、また来る)

地上に戻ると、村人たちが駆け寄ってきた。

息が白く散る。足元に埃。

「無事か!」

「怪我は!」

声が重なる。

村長、エリス――顔が並ぶ。

「大丈夫。かすり傷だけ」

そう答えると、エリスが抱きしめてきた。

白いローブが土で汚れる。

「心配したのよ……」

「ごめんなさい、先生」

リオンは笑っていた。

「俺は丈夫ですから」

村長が頷く。

だが周囲の空気が変わった。

「……下に何があった?」

誰かの声が震える。

村人たちの目が、同じ方向を見ていた。

私は短く息を吐く。

「古い遺跡がありました。――人の形をした、大きな機械です」

ざわめき。

「機械……」

「呪われたものかもしれん……」

老人が震えながら呟く。

不安が広がる。

音のない波のように。

村長は低い声で言った。

「当分、立入は禁止だ。二次災害を防ぐ」

私は頷いた。

「……分かりました」

それ以上、言えなかった。

けれど、胸の奥ではもう決まっていた。

――絶対に、また行く。

――あれは遺物じゃない。

――理屈で動くものだ。

振り返ると、鉱山の上に月があった。

光が灰のように薄く落ちていた。

地下には、鉄の狼が眠っている。

胸の結晶はまだ光っていた。

生きている。

(待っててね)

夜。

体は重いのに、眠れなかった。

灯を消しても、あの姿が頭から離れない。

真鍮の装甲、関節の構造、青白い心臓。

目を閉じても、脳裏に残る。

机の上にノート。

鉛筆を取る。

線を引く。

頭部、双耳状アンテナ、胸の結晶、脚の関節。

紙が擦れる音が部屋を満たす。

「どうやって動いてるんだろう」

呟きが空気に溶けた。

魔法だけではない。

どこかに物理の論理がある。

それが分かれば、きっと動く。

線を重ねながら、眠気が消えていく。

興奮ではない。

呼吸が速い。

胸の奥が熱い。

(必ず、調べる)

三日後の夜。

村が眠る頃、私は鉱山へ向かった。

月明かりが石畳を照らす。

立入禁止の札。

風で揺れる。

無視して中へ。

坑道は冷えていた。

魔導灯を灯す。

光が壁をなぞる。

崩落現場。

簡易の柵を越え、ロープを結ぶ。

結び目を二度確かめる。

体を預ける。

掌が痛い。

それでも降りる。

地面に着く。

静寂。

光を向けると、そこにいた。

鉄の狼。

真鍮の装甲は月光を受けて微かに反射していた。

胸の結晶は、まだ呼吸をしているように明滅している。

私は歩いた。

金属に手を置く。

冷たい。

けれど、ただの死ではない。

わずかな温度がある。

関節を覗き込む。

円筒状の駆動装置。

油圧ではない。内部に魔法陣。

「……魔導流体?」

低く呟く。

魔力の流れを圧力に変換している。

魔法と機構が、並列に働く。

装甲の内側にも魔法陣の痕跡。

痕跡は幾何学的で、回路のように精密だ。

理論が層をなしている。

ノートを開く。

線を引く。

構造を記録。

魔法陣の配置。

関節の角度。

脚部のトルク構成。

時間を忘れる。

音は呼吸と鉛筆の摩擦だけ。

数日後。

夜ごと通った。

パネルを外し、内部を覗く。

魔導流体筋肉。細い繊維が束になっていた。

魔力を流すと収縮する。

だが、出力は不足している。

補助に油圧が組まれている。

魔法と物理、双系統駆動。

「完璧な設計だ」

声が漏れる。

冷却と潤滑も一体化している。

理屈がここにある。

ノートに数字を記す。

寸法、比率、配置。

わずかな誤差も逃さない。

紙面が埋まる。

胸部の結晶――魔導炉。

光は弱い。

出力残量、ほぼゼロ。

私は手を置いた。

魔力を流す。

結晶が淡く光る。

だがすぐに戻る。

「足りない」

吐息。

自分の魔力では届かない。

必要出力は数千。

桁が違う。

鉛筆を回す。

机がわりの石の上に、式を描いた。

供給線の太さ、抵抗、損失率。

理屈を追う。

夜が明けるまで。

朝。

リオンに会った。

「セリア、顔色悪いぞ」

「大丈夫」

「嘘つけ」

指で目の下を指された。

影がある。

「まさか、遺跡に?」

声が低い。

私は頷いた。

「怒られるぞ」

「分かってる」

リオンは短く息を吐いた。

「お前、止めても聞かないだろ」

「うん」

「……じゃあ、気をつけろ」

彼は笑った。

その笑いは、少し疲れていた。

六日目の夜。

また地下。

装甲を調べていると、背後から声。

「何をしている」

振り向く。

光の中に、鍛冶師の男。

ガラン・ホークウッド。

銀髪、火傷の腕。

鍛えた体。

言葉が出なかった。

「村長に知らせるべきか」

冷たい声。

私は首を振った。

「違うんです、これは――」

必死に説明する。

「古代の技術なんです。魔法と機械の融合。理屈で動いている」

沈黙。

ガランの瞳がわずかに揺れた。

「……また夢を見る子供か」

背を向ける。

「この世界は、理屈を許さない」

「待ってください!」

言葉がこぼれた。

「私は、誰でも使える道具を作りたいんです。魔力がなくても、理解で動かせる世界を」

ガランは立ち止まった。

長い沈黙。

「……好きにしろ」

声は低く、乾いていた。

「だが、見つかっても俺は知らん」

足音が遠ざかる。

残された空気が、熱を失っていく。

私はその場に立ち尽くした。

怖さはあった。

けれど、止まる理由にはならなかった。

手の中の鉛筆が震えている。

それでも、次の線を引いた。

鉄の狼の胸部構造。

回路の結節点。

次の夜に、また確かめるために。

窓の外で、月が輝いている。

その光の下で、私は決意した。

この機械を、必ず動かす。

理屈で。

祈りではなく、論理で。

それが――私の戦い方。

魔法が神のものなら。

機械は、人間の希望だ。

鉛筆の音だけが、静寂を満たしていた。

地下では今も、鉄の狼が眠っている。

だが、もうすぐ目覚める。

私の手で。

理屈の力で。

――その日は、近い。

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