第3話【その青は、魂だけが憶えている】
あれから季節が一つ巡った。
僕の日常は、すっかり「世界のバグフィクサー」という奇妙な肩書に馴染んでいた。公園のベンチの数が一つ増えていれば元に戻し、街灯の色が微妙に変わっていれば本来の色を思い描いて修正する。その度に腕の中のタマが満足げに喉を鳴らす。それが僕の仕事であり、平穏の証だった。カラスやタヌキとの奇妙な友情にも慣れたものだ。これ以上望むものなど、もう本当に何一つなかった。
だからこそ、その違和感は無視できなかった。
「……あれ?」
行きつけの喫茶店の前で、僕は足を止めた。木の扉に掛けられた看板には『創業三十年 紅茶専門店 マロン』とある。僕はいつもここでブレンドコーヒーを頼んでいたはずだ。マスターに尋ねると、「うちは開店以来、紅茶しか扱っておりませんよ」と不思議そうな顔をされた。
そんな馬鹿な。僕の記憶では、あのカウンターでサイフォンがコポコポと音を立てていたはずなのに。
些細な綻び。そう片付けようとした矢先、異変は連鎖を始めた。
通勤で毎日渡っていたはずの川の橋が、市の資料では「昭和の区画整理で四十年前に撤去済み」になっている。僕の記憶の中の、錆びた鉄骨とアスファルトの感触はどこへ消えた?
極めつけは、小学生からの親友に電話をかけた時だった。受話器の向こうから聞こえてきたのは、無機質なアナウンス。『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』。該当者不明。まるで、初めから存在しなかったかのように。
「どうにも妙でござんすねぇ」
マンホールから顔を出したタヌキが首を捻る。「あっしらの記録にも、そんな橋や友人の話はねぇですよ」。電柱の上のカラスも同意するように鳴いた。
彼らにとっては、この世界こそが正しい事実なのだ。僕だけが、世界から弾き出された異物になったような、底知れない孤独が背筋を這い上がってくる。世界という巨大なプログラムの中で、僕というファイルだけが破損している。
そんな時、僕の不安を拭うように、足元でタマが小さく鳴いた。その黄金色の瞳だけが、僕の感じている違和感を肯定してくれている。お前だけは、僕の記憶が嘘じゃないと分かってくれるんだな。僕はタマを抱き上げ、その柔らかな毛皮に顔を埋めた。
決定的な変化は、ある朝、突然訪れた。
カーテンを開けた僕の目に飛び込んできたのは、真っ白な空だった。青がない。どこにも。海は灰色に沈黙し、僕の愛用していた青いマグカップは色を失い、ただの無機質な白い陶器に成り果てていた。
街の人々は、誰もその異常に気づいていない。白い空を当たり前のように見上げ、灰色の海辺を散歩している。世界から「青」という概念そのものが、綺麗に削除されていた。
「……こいつぁ、とんでもねぇ野郎が相手でござんす」
タヌキの声は、いつになく緊張を帯びていた。「世界の記録そのものを都合よく『編集』する存在……『編纂者(エディター)』。奴らは、世界をより合理的で美しい『物語』にしようと、気に入らねぇ記述を片っ端から改竄しやがるんでさァ」
「俺の記憶とのズレは、そのせいか」
「へぇ。寸分違わぬ世界の形を記憶しているあんたは、奴らにとっちゃ邪魔でしかねぇ。消すべき誤植、目障りな『校正記号』ってわけでさ。いずれ、あんた自身の存在もリライトされちまう」
その言葉は、呪いのように現実になった。
僕の過去が、蝕まれ始めたのだ。楽しかったはずの家族旅行の記憶は、両親が激しく口論する陰鬱な光景に書き換えられた。初めてタマと出会った日の感動は、薄汚い野良猫を仕方なく拾ったという、無感動な記憶に歪められた。幸福だったはずの僕の人生が、陳腐で救いのない三文小説のように、次々と改竄されていく。
僕は誰だ? 僕が信じてきたこの人生は、全て偽物だったのか? 自己という輪郭が溶け出し、絶望が僕を飲み込もうとしていた。
その時だった。腕の中で、タマがゴロゴロと喉を鳴らした。
その振動が、僕の崩れかけた魂に杭を打つ。そうだ。この温もり。この音。そして、この腕でタマを救うために、地獄の三分間を何度も何度も繰り返した、あの記憶。あの絶望と、それを乗り越えた瞬間の咆哮だけは、誰にも書き換えることのできない、僕だけの真実だ。あれがなければ、今の僕もタマもここにいない。
それが、僕が僕であることの、最後の、そして最強の証明だった。
「……青を、取り返しに行く」
僕は顔を上げた。僕の魂に刻まれた「完璧で正しい世界の形」には、どこまでも澄み渡る、あの日の青空が焼き付いている。
記憶を辿る。この街で、最も強く「青」が記憶されている場所。一周目で、トラックに轢かれ、初めてタマを失ったあの交差点。その絶望の空の色を、僕は決して忘れない。そして、その近くに建つ、古い天文台。子供の頃、満天の星と、宇宙の深淵なる青を見せてくれた場所。
天文台のドームに足を踏み入れると、そこには星々が描かれた巨大な写本を、光の手が静かにめくっている光景が広がっていた。特定の姿を持たない、純粋な知性体。編纂者だ。
『物語から逸脱した登場人物よ。記録の混乱を招く前に、速やかに退場し、正しい記述に身を委ねなさい』
編纂者がそう告げると、僕の「死の記憶」だけを収めた禍々しい本を開いた。ページがめくられるたび、僕の足元が透けていく。存在そのものが、この世界から削除されようとしていた。
だが、もう恐怖はなかった。僕は笑ってやった。
「お前の記録は間違ってるぜ。俺の物語は、死んで終わりじゃなかったんだ!」
僕は目を閉じ、魂の奥深くに沈んだ記憶の扉を、全力でこじ開けた。
編纂者が記録したのは、僕が死んだという「結果」だけだ。だが、その結果に至るまでの、無数の失敗と、無様で、泥臭い試行錯誤の全ては、記録されていない。宅配バイクに撥ねられ、鉄パイプに潰され、犬に食われ、炎に焼かれた、数え切れない敗北の記憶。その全てが、完璧な生存というたった一つの「正解」に辿り着くための、僕だけの物語(ルート)なんだ。
『魂の再生、開始』
僕の脳内で、あの地獄の三分間が、ループした全てのパターンを含めて、超高速で再生される。死ぬ。死ぬ。死ぬ。だが、その度に立ち上がり、次の一手を探す。それは絶望の記録であると同時に、諦めなかった男の魂の記録そのものだ。
膨大な情報量が奔流となって僕の魂から溢れ出し、編纂者が作り上げた「編集された世界の記録」の整然とした論理と激しく衝突する。ピシリ、と空間に亀裂が走る音がした。
『な……記録にないパラメータ……このノイズは……!』
狼狽する光の知性体に向かって、僕は宣言した。
「結末はまだ早いぜ。俺たちの物語は、始まったばかりなんだからな!」
その言葉が引き金だった。
ドームの天井が砕け散り、僕の魂の再生に呼応するように、真っ白だった空の一点から、鮮烈な「青」が迸った。それはまるで、巨大なキャンバスに一滴のインクが染み渡るように、瞬く間に世界を本来の色へと塗り替えていく。
編纂者は悲鳴のような光を発し、僕の魂が紡ぐ、あまりにも人間的で非合理な「物語」の奔流に耐えきれず、霧散していった。
後には、静寂と、夕暮れ前の、どこまでも真っ青な空だけが残されていた。
腕の中のタマの重みが、僕が現実にいることを教えてくれる。
僕は、僕の新たな役割を自覚した。世界のズレを直すだけじゃない。この世界から、編纂者のような存在によって理不尽に「編集」され、失われていく誰かの大切な記憶や、名もなき想いを、この魂に刻まれた「正しい世界の形」を盾にして守り抜く。それが、この力を得た僕の責任なのだろう。
僕は腕の中のタマを強く抱きしめ、どこまでも広がる青空を見上げた。
「面倒だけど、やり甲斐のある仕事だよな、タマ」
ゴロゴロ、と相棒が応える。
僕とタマの、奇妙で、騒がしくて、そしてかけがえのない日常が、再び静かに始まっていた。
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