第2話【ありふれた日常のバグフィクサー】
あれから一週間が過ぎた。
僕の世界は、あの地獄の三分間が終わったことで、驚くほど平穏な日常を取り戻していた。朝になれば目が覚め、夜になれば眠る。時間はよどみなく流れ、死は理不尽に牙を剥くことなく、ただ遠い概念としてそこにある。僕の腕の中では、愛猫のタマが満足げに喉を鳴らしている。これ以上望むものなど、何一つなかった。
はずだった。
「……ん?」
コーヒーを淹れようとキッチンに立った時、ふと視界の端に違和感を覚えた。壁紙の木目模様。その一部が、ほんの一瞬、蠢いたように見えた。瞬きをすると、それはただのシミに戻っている。気のせいか。だが、そんな「気のせい」が、最近やけに増えていた。横断歩道の青信号がコンマ数秒だけ長く感じる。すれ違う人の会話に、ありえない単語が混じって聞こえる。世界という完璧なプログラムに生じた、ごく微細なバグ。僕の魂に刻み付けられた「午後五時十七分の正しい世界の形」が、その僅かなズレを敏感に検知してしまうのだ。
そして、最も気がかりな変化は、タマに起きていた。あれほど食いしん坊だったのに、最近は餌を残すことが多い。日向ぼっこをしていても、時折、何かに耐えるように小さく体を震わせ、苦しげに蹲るのだ。
その姿は、僕の胸をナイフで抉るように痛めつけた。いてもたってもいられなくなり、僕はタマを抱き上げると、あの日以来近づいていなかった場所へと足を向けた。
「よぉ、そこの御仁。息災のようで何よりでカァ」
電柱の上から、カラスが古風な挨拶をよこす。僕は単刀直入に切り出した。
「タマの様子がおかしいんだ。あんた、何か知らないか?」
僕の腕の中のタマを一瞥すると、カラスは少しだけ黙り込んだ。やがて、重々しく口を開く。
「……無理もあるまい。前の一件で、この世界の理には、決して消えぬ『綻びの記憶』が刻まれてしもうた。それが今、街のあちこちに小さな『亀裂』となって現れておる」
「亀裂?」
「うむ。『守り手』様は、その亀裂をその身一つで塞ぎ続けておられるのだ。世界の均衡を保つために。故の消耗よ」
マンホールの蓋がカタリと鳴り、ひょっこりとタヌキが顔を出した。
「へっ、健気でござんすねぇ。だが、このままじゃ守り手様がもたねぇ。亀裂は全部塞がなきゃならん。だがねぇ、お客さん。そいつがどこにあるか、あっしたちにもよう分からんでさァ」
絶望的な言葉に、僕はタマを抱く腕に力を込めた。どうすればいい。このままタマが弱っていくのを見ていることしかできないのか。
すると、タヌキは僕の顔をじっと見て、ニヤリと笑った。
「だが、あんたなら話は別でござんす。あんたの魂には、あの三分間の、寸分の狂いもねぇ『完璧で正しい世界の形』が焼き付いてる。世界のほんの僅かな『ズレ』を見つけ出せるのは、今やこの街であんた一人。……どうでぇ、お客さん。今度は世界を救う側、『世界のバグフィクサー』と洒落込んでみやせんか?」
僕が世界のバグを直す? 馬鹿げた話だ。だが、それがタマを救う唯一の道だというなら、答えは決まっていた。
「……どこへ行けばいい?」
「亀裂が開きやすいのは、綻びの記憶が最も強く残っている場所。つまり……お客さんが、何度も死んだ場所でござんすよ」
忌まわしい記憶が脳裏をよぎる。だが、もう恐怖はなかった。あの記憶は、今やタマを救うための羅針盤なのだ。
僕はまず、二周目に鉄パイプの豪雨に圧殺された、建設中のビルの前に立った。目を閉じると、今でも金属の軋む音や、骨が砕ける感触が生々しく蘇る。
「ここだ。何かがおかしい」
僕の感覚が、ビルの裏手にある薄暗い路地を指し示していた。そこには、打ち捨てられた古いポストが一つ、ぽつんと置かれている。本来、そこにあるはずのないものだ。それが「ズレ」だった。
ポストに近づくと、中からカサカサと奇妙な音がする。タヌキから受け取った「聞き耳ずきん」を被ると、小さな声が聞こえてきた。
『……届けたい。届けなければ。あの人へ、最後の言葉を……』
ポストの投函口から現れたのは、古びた万年筆だった。インクはとうに枯れているが、そのペン先には強い念が宿っている。持ち主を失くした付喪神だ。
僕はカラスの情報網を頼りに、この万年筆の持ち主が、何十年も前にこの街で亡くなった小説家だと突き止めた。彼は最期の恋文を投函する直前に、病で倒れたのだ。その無念が、万年筆をこの世に留めていた。
僕はタヌキに用意してもらった紙とインクを差し出した。
「僕が、届けるよ」
万年筆は震えながら宙に浮かび、流れるような筆致で、愛する人への言葉を紙に綴った。僕がその手紙を、今は資料館となっている彼の恋人の家へ届けると、万年筆は満足げに光を発し、塵となって消えていった。同時に、僕の足元にあった空間の歪みが、すうっと霧散していく。亀裂が一つ、修復されたのだ。アパートに帰ると、タマが少しだけ元気な顔で僕を迎えてくれた。
それから僕は、自らの「死の記憶」を辿る旅を続けた。犬に引き裂かれた公園では、取り壊された祠の化身である石の蛇を宥め、元の山の社へ還した。火事で焼け死んだアパートでは、孤独に亡くなった老人の遊び相手だった、古い碁石の付喪神たちの話を聞き、鎮めた。
亀裂を修復するたび、タマは目に見えて回復していった。僕の心は安堵と、この力への確かな手応えで満たされていく。このまま、全ての亀裂を塞げば、本当の日常が戻ってくる。そう、信じていた。
「……どうにも、腑に落ちんでカァ」
ある晩、電柱の上からカラスが呟いた。
「亀裂は順調に塞がっておる。世界の歪みも収束に向かっているはず。なのに、儂の胸騒ぎが収まらぬ。まるで、大きな歪みを隠すために、小さな歪みをわざと正させているような……」
その言葉に、タヌキもマンホールから顔を出し、厳しい表情で頷いた。
「黒幕の狙いは、世界の法則を書き換えること。前回は守り手様をどかすことで世界を不安定化させた。だが、今回は違う。お客さん、あんたに世界の修復をさせることで、守り手様とあんたの繋がりを、意図的に、異常なまでに強化させているんでござんすよ」
「繋がりを強くして、どうするんだ?」
「繋がりすぎたもんは、どっちがどっちだか分からなくなる。守り手様を通して、あんたという『穴』から、世界の法則そのものを乗っ取る気だ! あんたは世界の安全装置(セーフティ)を内側から破壊するための、最高のトロイの木馬に仕立て上げられたんでござんすよ!」
タヌキの言葉に、全身の血が凍る思いがした。僕がタマを救うためにしてきたことは、全て黒幕の掌の上だったというのか。僕らの絆が、世界を壊すための道具にされている?
その時、タマが僕の足元で激しく嘶いた。見ると、街の外れの、あの忌まわしい場所から、禍々しい黒いオーラが立ち上っている。
最後の亀裂だ。僕が一周目で死んだ、因縁の車道。
現場に駆けつけると、そこには絶望的な光景が広がっていた。アスファルトに開いた黒い亀裂から、僕がループの中で経験した無数の「死の記憶」を吸収し、具現化した、タマそっくりの巨大な「影の化け物」が這い出てきていた。
『ギ……ヂャ……アア……』
それは僕の絶望と苦痛を餌に生まれた、紛い物。影の腕が歪な鉄パイプに変わり、牙はあの野良犬たちのものに、その体は僕を焼いた炎のように揺らめいている。
「タマ……」
僕が呟くと、影は僕の声を模倣して嗤った。
『――ああ、タマ。ごめんな。』
一周目の僕の、最期の言葉。
絶望が心を塗りつぶす。どうすればいい。物理的な攻撃など、死の概念そのものであるこいつには通じない。
だが、その時、僕は気づいた。そうだ。こいつは僕の「死」でできている。僕の絶望と敗北の記憶そのものだ。ならば、倒す方法は一つしかない。
物理で壊せないなら、概念で否定すればいい。
「死」でできているなら、「完璧な生存」をぶつければいい。
僕は深く息を吸い、現実のタマを安全な場所に避難させると、影の化け物に向き直った。
「もう一度、始めようぜ。午後五時十四分からのお前のための三分間だ」
記憶の扉を開く。脳内に叩き込まれた、完璧な死のマップ。
ここからは、僕の、僕らだけの、究極のタイムアタックだ。
『再現、開始』
僕は心の中で呟き、走り出した。
影の化け物が咆哮し、その体から宅配バイクの幻影が飛び出す。僕は体を捻って回避する。風圧。肌を撫でる感覚まで、あの時と寸分違わない。
次に、巨大なトラックの幻影が轟音と共に迫る。僕は躊躇なくその下をスライディングで潜り抜けた。背後で、幻影がアスファルトに激突し、黒い飛沫を上げる。
「カラス!」
僕が叫ぶと、本物のカラスが上空から応えた。
『交差点、左から信号無視!』
「分かってる!」
僕は記憶通りに地面を蹴り、交差点の上を跳び越えた。影の化け物が苦悶の声を上げる。僕が死の運命を乗り越えるたび、その存在が揺らいでいくのだ。
頭上で金属の軋む音。足場崩落の幻影。僕は死と踊るように、完璧なステップで鉄パイプの雨を駆け抜ける。クレーン車のアームが薙ぎ払う。僕はタヌキから貰った本物の「目くらましの葉」を投げつけ、幻影の隙を作り出し、回避する。
僕の完璧な生存劇は、確実に影の化け物の存在基盤を削り取っていた。その巨体はみるみるうちに小さくなっていく。
そして、ついに最後の運命が訪れる。
影の化け物が、その核である「最初の死」を再現しようと、トラックの幻影となって僕に襲いかかってきた。
一周目の僕。タマの名を呼び、焦って車道に飛び出した、愚かな僕。
だが、今の僕は違う。
僕は車道の手前でぴたりと足を止め、幻影のトラックを冷静に見据えた。そして、その向こう側、路地の入り口にいるはずの、僕が愛してやまない存在に向かって、穏やかに呼びかけた。
「タマ。おいで。うちに帰ろう」
僕の本当の声。焦りも絶望もない、ただ愛猫を家に迎えるだけの、当たり前の日常の言葉。
その瞬間、トラックの幻影が、僕に届く寸前で、甲高い悲鳴と共に霧散した。影の化け物の核が、僕の「完璧な日常」という概念によって完全に否定され、消滅したのだ。
黒い亀裂は光と共に塞がり、後には静かな夕暮れの道だけが残された。
悪夢の三分間の、本当の終わり。
僕は、タマを、日常を、そしてあのループの中で失いかけた自分自身を、完全に取り戻したのだ。
腕の中に戻ってきたタマを、僕は強く、強く抱きしめた。ゴロゴロという喉の音が、世界で一番優しい音楽のように響く。
電柱の上でカラスが一つ鳴き、マンホールの蓋が小さく揺れた。
僕の日常は戻ってきた。だが、それはもう、かつての無知で平凡な日常ではない。
この世界の些細なズレを観測し、愛する猫と共に、奇妙で騒がしいこの均衡を守っていく。
面倒くさがりな僕には少し荷が重い、けれど、悪くない。そんな新しい日常だ。
「さあ、帰ろうか、タマ」
僕は呟き、夕暮れに染まる道を、確かな足取りで歩き始めた。
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