7.────犠牲

闇の中に、丸い物体がぼんやりと吊り下がっている。


それは銅鏡のような形をしており、古びた金属の表面が鈍く光っていた。

中心には緑色の硝子玉がはめ込まれている。

銅鏡全体がわずかに揺れ、その硝子玉はまるで生きた目のように、じっとこちらを見ているようだった。光の届かない祠の奥で、それだけが、不気味な存在感を放っている。


真結は思わず息を呑んだ。


「……ふぅ」

一仕事終えたように健人が腰を伸ばし、立ち上がった。

額の汗をぬぐいながら、再び祠に近づくと、膝に手を当てて中を覗き込む。


その動きに合わせて、蓮司も横から覗き込もうと身を乗り出すが、

健人は「俺が先だ」と言わんばかりに右手を伸ばし、蓮司の胸元を軽く制した。


祠の奥に見える銅鏡に目を留めると、健人は口元に手を当てた。

「……これだけってことはないよな?」

そう呟きながら、指先で鏡面をコツンと叩く。乾いた音が祠の中に響いた。


――キィィィン。


直後、風を切るような鋭い音が空気を裂いた。


だが、誰も風を感じていない。

空気は重く、湿っていたはずなのに。


ぽとり、と何かが健人の足元に落ちた。

その直後、彼は左耳に鋭い熱を感じ、「痛ッ!!」と叫んだ。

反射的に左耳に手を当てるが、そこには皮膚の感覚がない。

代わりに、ぬめりのある何かが靴の甲に触れている。


健人が恐る恐る目を向けると、それは彼自身の耳だった──

切断された耳が血に濡れ、靴の上に落ちていた。


「お、どした?虫でも飛んできたか?」

蓮司が軽い調子でスマホを健人に向ける。

スマホに映る健人の手の隙間からは、赤い血が一筋、頬を伝って流れ落ちていた。


その光景に、空気が一瞬で凍りついた。


「ちょ……は? え、マジで……え?」

蓮司は口元に笑いの名残を残したまま、困惑したように一歩だけ後ずさった。


その笑みは、戸惑いの中で引きつったまま、消えずにいた。

誰も何が起きたのかを把握できていない。

ただ、ぞくりとする嫌な感覚が、まるで霧のように周囲を包み込んでいた。


「何だよ、これ……」 健人が呟く。

左耳があった場所から、ジンジンとした痛みが広がり、顔の左半分が熱を帯びていく。 血の匂いが濃くなり、空気が重く、湿った鉄のような味が喉にまとわりついた。


次の瞬間──


健人の腹部に、鋭い痛みが走った。 息を吸う間もなく、祠の闇から何かが飛び出した。


──それは刃だった。 細く、黒く、木造の構造に溶け込むような色と質感。

まるで祠が意思を持っているかのように、刃が闇から突き出された。


刃は健人の腹部を正確に貫いている。

肉を裂き、骨を避け、血に濡れた切っ先が、腹部を突き破って姿を現した。

健人の目が見開かれ、声にならない息を漏らす。

血が口元から泡のようにこぼれ、足元に落ちた耳と混ざり合う。


誰も動けなかった。

祠の奥にある銅鏡が、微かに揺れながら、鈍く光っていた。


ねばりつくような音を立てながら、刃がゆっくりと引き抜かれていく。

健人の腹部から、黒く濡れた剣先がぬるりと姿を現す。


一瞬の静寂。


─── そして刃は、再び健人の身体を勢いよく貫いた。 肉を裂く、深く、深く刃が食い込む。

──また、ゆっくりと引き抜かれる。 血と肉片をまとった刃が、ぬるりと外気に触れる。

─再び、突き刺さる。


三度。


四度。


──機械のように、正確に、淡々と。


貫かれる度に、健人の身体が、反射的にびくりと震える。

容赦なく、冷たく、肉を裂いていく。

目は見開かれたまま、瞬きひとつせず、虚空を見つめている。

口も半開きで、呼吸の気配はない。

腕はだらりと垂れ、指先は微かに震えているように見えた。


──ざくり


──ざくり


──ざくり


刃物が肉を裂く音だけが、静まり返った川辺に響き渡る。

誰も声を出せず、動くこともできなかった。

祠から目を離すことができず、その場に縫いとめられたように、ただ立ち尽くしていた。


澪の手から、白いスニーカーの片方が滑り落ちる。

乾いた音が地面に響き、まるでその音だけが現実に引き戻すかのようだった。

健人の足元には、じわりと血が広がっていく。

赤黒い液体が、土の上に染み込み、赤と白のコントラストを浮かび上がらせる。


そして──音が止んだ。


肉を裂く鈍い音も、血が滴る湿った響きも、すべてが闇に吸い込まれたように消えた。

ゆっくりと、静かに、刃が祠の影に引き込まれていく。

黒い刃は、闇に溶けるように、跡形もなく消えていった。


健人の肉体だったものは、膝から崩れ落ちるようにゆっくりと倒れた。

赤黒い液体が砂利の上に、歪んだ輪郭を残しながらじわじわと広がっていく。


祠は、再び沈黙した。

まるで何事もなかったかのように、ただそこに佇んでいる。

風もなく、音もなく、ただ重い空気と血の匂いだけが、その場に残っていた。


誰も言葉を発せず、ただ健人の変わり果てた姿を見つめていた。

その沈黙は、恐怖よりも深く、理解を拒むほどに冷たかった。


その時、背後から、砂利を踏む音がした。

乾いた音が静寂を破るようにに響き、蓮司は反射的に振り返る。

そこに、昨日見かけた麦わら帽子の老人が、いつの間にか立っていた。

帽子の影に隠れたその目は、深い井戸の底のように暗く、感情の揺らぎは一切読み取れない。


「……お前達…祠を壊したのか……?」

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