5.────気配
老人はゆっくりと歩いている。だが、その足取りには一切の迷いがなかった。
背筋はまっすぐで、灯りを掲げた手も揺れず、まるで目的地がはっきりと定まっているかのようだった。
「夜のお散歩ってわけじゃなさそうだな……」
健人が低くつぶやく。
昼間は見晴らしのいい一本道も、今は闇に包まれ、二人の姿をすっかり隠していた。
月は雲に隠れ、周囲はほとんど輪郭を失っている。
数十メートル進んだ時、灯りの揺れが止まり、老人の姿が不意に消えた。
「……どこ行った!?」
蓮司が焦りを含んだ声で辺りを見回す。
目を凝らすと、微かにザッザッと草をかき分ける音が聞こえた。
風が止み、音だけが夜の静けさを裂いていた。
「脇道があんのか」
健人が地面を見下ろす。
草の間に踏みならされた細い道が、闇の中へと続いている。
「どうする?追うか?」
「……いや、音でバレんだろ」
二人は息を潜め、その場に立ち止まった。
土の匂いが濃くなり、夜の湿気が肌にまとわりつく。
しばらくすると、老人の向かった先から、微かに──キィィィン……キィィィン──と、金属が擦れるような音が響いてきた。
「なんだこの音……」
健人がぼそりと呟き、視線を闇へと向ける。
蓮司は音の方へ意識を向け、草むらに足を踏み入れる。
乾いた葉がこすれ、静寂の中にガサガサという音が広がった。
その音に、老人がぴたりと歩みを止める。
ゆっくりと手元の灯りを掲げ、音のした方へ向けてかざす。
淡い光が草むらをなぞるように揺れ、木の幹や茂みがぼんやりと浮かび上がった。
健人と蓮司は身を低くし、息を殺す。
灯りの輪がすぐ近くまで迫ったが、彼らを捉えることはなかった。
やがて、老人は再び歩き出す。
その背が闇に溶けるように遠ざかっていく。
二人は、作戦失敗だと言うように顔を見合わせる。
健人が首を振り、蓮司が小さく舌打ちした。
草むらの中での物音が、老人に気づかれたのは間違いない。
これ以上の接近は危険だと判断し、二人は慎重にその場を離れた。
足音を殺しながら、来た道をゆっくりと引き返す。
背後に気配はない。
老人が追ってくる様子もなく、闇は再び静寂を取り戻していた。
遠くで虫の声が細く鳴いている。
やがて、仲間の待つ場所へと戻る。
目印として残しておいたランタンの光が、ぼんやりと地面を照らしていた。
その温かな光に、二人はほっと胸を撫で下ろす。
時間はすでに深夜一時を過ぎていた。
空には雲が流れ、星の瞬きもまばらになっている。
二人は寝床として使っている廃屋へと足を踏み入れた。
木造の壁はところどころ朽ちており、隙間から夜風が入り込んでくる。
蒸し暑い空気が室内にこもっていて、床に寝転がった仲間たちは静かに寝息を立てていた。
扇風機の代わりに開け放たれた窓から、時折涼しい風が入り込み、カーテンがふわりと揺れる。
健人と蓮司は音を立てないようにそっと腰を下ろし、ようやく緊張がほどけていくのを感じた。汗ばんだ背中がシャツに張りつき、夜の静けさが二人を包み込む。
「……あのジジイ、なんか隠してんな。絶対」
健人が小声で言うと、蓮司がにやりと笑った。
二人は言葉もなく、そっと拳を突き出し、コツンとぶつけ合う。
闇の中で見た老人の行動と金属音──すべてが、何かの始まりを告げているように思えた。
──そして夜が明けた。
青く澄んだ空の下、健人と蓮司は眠そうに寝床から這い出した。
頭をかきながら、のそのそと縁台へ向かう。
縁台には、すでに三人が集まっている。
直也は地図を広げ、ペン先で線をなぞりながら首をかしげていた。
「あのお爺さん、なんでこんな所に住んでるんだろう。他に住民はいなさそうだし」
澪は日焼け止めを手の甲で伸ばしながら、気の抜けた声で返す。
「さあ? 人間嫌いなんじゃない? あたしらにもあんま関わりたくないオーラ出してたじゃん」
健人と蓮司が近づき、「おはよ~」と声をかける。
真結が顔を上げ、少し心配そうに尋ねた。
「……大丈夫だった? 昨夜」
二人は顔を見合わせ、示し合わせたように薄笑いを浮かべる。
「まぁ、ね~」
「うん、全然余裕~」
澪はじっと二人を見つめ、眉をわずかに上げた。
「……まだなんかやる気でしょ、あんたら」
その視線に、健人と蓮司は目をそらしつつ、口元を緩める。
軽い朝食を囲みながら、縁台の上にはゆるやかな会話が流れていた。
木漏れ日が縁台に落ちて、みんなの表情を穏やかに染めていた。
澪は少し離れた場所で、自分の腕をくんくんと嗅ぎながらぼやいた。
「……大丈夫? あたし汗臭くない?」
真結は笑いながら「昨日の夜に比べたらマシ」と返す。
澪はうんざりしたように首を振りながら、空を見上げた。
近くで地図を広げていた直也の声が聞こえてきた。
「…ああ、その辺なら川だよ」
健人が地図を覗き込みながら、何気なく言う。
「へぇ~、川かぁ。ちょっと涼みに行ってみるのもアリかもな」
わざとらしく蓮司へと視線を移す。
どこか芝居がかった笑顔で、蓮司も「水遊びついでに、な!」と返す。
その言い方は軽く、逆に何かを隠しているようにも聞こえた。
直也はちらりと二人を見たが、何も言わず地図に視線を戻した。
健人が、澪と真結の方へ顔を向けて、
「なぁ、これから川行かねぇ~?」と声をかけた。
澪は一瞬きょとんとしたが、すぐに目を輝かせて立ち上がる。
「……え? うん、行く行く!」
その声に真結も笑顔で頷いた。
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