3.────不穏
そこにちょうど直也が近くを歩いているのが見えた。
澪は直也の元に駆け寄ると腕を掴み、老人の視線に入らないところまで引き寄せる。
「ちょ、ちょっ!なに?」
「直也……人がいる!」
自然と声が小さくなる。
「…え?どこ」
と直也が聞くと、澪は黙って老人がいた家の方を指差す。
直也はその方向を見ながら、
「……廃村じゃないみたいだしね。昔から住んでる人かもしれない」
声は静かで、どこか納得したような響きがあった。
その時、真結がそっと近づいてきて言った。
「ねえ!……二人に知らせた方がいいよね」
健人と蓮司の騒ぎ声が、廃屋の方から変わらず響き続いている。
その声は、この空気の中で、いっそう異質に浮かび上がっていた。
「……待って、あたしも行く」
澪はそう言って真結の隣に並び、二人は足早に廃屋へと向かっていった。
直也はその場に残り、老人の家がある方向をじっと見つめている。
廃屋の引き戸は開け放たれたままで、差し込む光が室内に漂う埃を浮かび上がらせていた。玄関の床にも白い埃が積もり、そこには二人の足跡がくっきりと残っている。
「……うぇぇ」
澪が眉をひそめて、慎重に足を踏み入れる。
真結も小さく「おじゃまします」と呟き、後に続いた。
廊下は薄暗く、窓はすりガラス越しにわずかな光を通すだけ。
床板はところどころ沈み、歩くたびにギシギシと音を立てる。
空気は湿っていて、古い木材の匂いが鼻をついた。
真結は足元を確かめながら、ゆっくりと奥へ進もうと壁に手を添えた。
──ふと、指先にざらりとした違和感が走る。
溝のような感触――何本か、縦に走る細い傷が壁に刻まれていた。
思わず手を引き、傷を目で追った。
爪で引っかいたような浅い傷ではない。
見回すと、同じような傷が他の壁にも点在している。
一見すれば、古びた廃屋の痛みの一部に見えるかもしれない。
だが、この傷は何か硬い金属のようなもので、意図的に刻まれたようだった。
「……なんだろ、この傷…」
真結は小さくつぶやきながら、壁に刻まれた傷をそっとなぞった。
指先に残るざらりとした感触は、まるで冷たい金属のようで、妙に現実味を帯びていた。それはただの傷ではなく、何かの意思がそこに残された痕跡のように思えた。
その感触に意識を向けていると、廊下の奥から足音が近づいてくる。
「お、真結も来てたのか」
健人の呑気な声が響き、空気の緊張を一瞬だけ和らげた。
彼は何も気にしていない様子で、廊下の暗がりから姿を現す。
その後ろには蓮司が続き、スマホを片手にふざけた笑顔を浮かべていた。
「…いいから!早く出る!」
澪が低く、しかし強い口調で二人を促す。
その目には、戸惑いと不安が浮かんでいる。
健人と蓮司は「はいは~い」と軽く返事をしながら、玄関の引き戸へと向かう。
ギィ…と重く軋む音を立てて戸が開き、外の光が差し込む。
四人が廃屋を出ると、右手に人影が立っていた。
作業着に麦わら帽子をかぶった老人――先ほど澪と真結が見た、あの人物だった。
今度ははっきりとその姿が見える。
帽子の影から覗く顔には、深く刻まれた皺が幾重にも走り、肌は土のような色をしていた。目はぎょろりと見開かれ、その瞳には鈍い光を宿している。
どこを見ているのか分からず、じっと立ち尽くすその姿に、言いようのない不気味さが漂っていた。
老人はじっと彼らを見つめながら、低く、静かだが重みのある声で言った。
「……お前たち、何をしている…」
低く響いた声に、澪は「……やばっ」と小さく呟いて顔を逸らした。
蓮司は慌てて手を挙げ、笑顔を貼りつけながら言う。
「あ~~~、いやいや、俺たち道に迷っちゃって!すぐ出ますんで!」
その声には、どこか“やっちまった感”が滲んでいた。
健人も「ほんとスンマセン!ちょっとだけ見てただけっス」と、軽薄な笑みを浮かべてごまかす。
空気は少しピリついていたが、まだ冗談で流せる程度の緊張感だった。
老人は無言のまま、ゆっくりと彼らを見回した。
その視線はじっと粘つくようで、何かを探るように一人一人をなぞっていく。
何かを見定めるような、底知れぬ意図を感じさせる視線だった。
しばらくの沈黙のあと、老人はぽつりと呟いた。
「まぁいい…ここにはどうせ何もありゃせん……」
その言葉には、どこか含みがあるようにも聞こえたが、今は流すしかなかった。
健人と蓮司は顔を見合わせて「セーフ?」と小声で笑い合う。
老人はゆっくりと踵を返し、背を向けると、静かに言った。
「……あまり、長居はせんほうがいい」
足元の土を踏みしめる音が、静かな村に微かに響く。
間を置いて、老人はさらに低く、誰にも聞こえないほどの声で呟いた。
──裂かれるぞ
その言葉は風に紛れ、誰の耳にも届かなかった。
ただ、空気が一瞬だけ冷たくなったような気がした。
健人は、老人の背を見送りながら小首を傾げ、ぼそりとこぼす。
「……今、なんて言ってた?」
蓮司は両手を広げてみせ、「さあな~」と返した。
そこへ、直也がゆっくりと歩いてきた。
彼は何も言わず、老人が消えていった方向をぼんやりと見つめている。
健人は直也の肩に手を回し、ふざけた調子で身体を揺らす。
「直也く~ん、人いるじゃないっスか~~~」
その声は、場の緊張を無理やりほぐそうとしているようにも聞こえる。
直也は困ったように眉を寄せながら答える。
「いや、そんなこと言われたって……」
蓮司がすかさず割って入り、明るい声で言った。
「いや~最高じゃん!謎のジジイとか、マジで撮れ高エグいって!演出として完璧すぎん?」
スマホを構えながら、どこか浮かれた様子で笑っている。
澪は腕を組み、眉間にしわを寄せていた。
「…通報されたらどうすんの」
その言葉には現実的な不安が込められていた。
蓮司は笑いながら手を振って否定する。
「大丈夫だって!そもそもこの辺、電話線すら通ってねぇし!あのジジイがスマホ持ってるわけないっしょ?」
それを聞いて、健人も調子を合わせるように言った。
「それに出ていけとは言われてないしな!!」
その言葉に、蓮司も「だよね~!」と笑いながら頷く。
澪は腕を組んだまま、重たげな溜息をひとつ吐いた。
「はぁ…なんか、だるいとこ来ちゃったかも……」
その声には、空気の重さと場所への不信感がにじんでいた。
真結はそんな澪の様子を横目で見ながら、壁の傷の感触を思い出している。
あの冷たい感触が、まだ指先に残っている気がした。
「んでもまぁ、ちょっと休憩すっか!なんか、あのジジイのせいでテンション下がったし」
健人が軽く笑って言うと、蓮司がすかさず乗っかる。
「だな!寝るとこも探さねえと、体力持たねーって!」
それを聞いて直也が、落ち着いた口調で言った。
「それなら、マシな建物見つけたよ。屋根もちゃんとあるし、風も防げそう」
その言葉に、澪が思わず声を張り上げる。
「は!?泊まるの!?ここに!?」
健人は軽く笑いながら、平然と言った
「何言ってんだよ、まだこっからだろ。夜になってからが本番だからな」
「心配すんなって!食料はちゃんと用意してあるから」
そう蓮司が付け加えた。
その言葉に、澪は絶望的な表情を浮かべて真結に抱きついた。
「マ~ジ~~~!?…もう帰りたいんだけど……」
真結は苦笑しながら、澪の背中をぽんぽんと軽く叩く。
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