オトブクロ
11歳の
団地の四階、404号室。 眠りにつこうとすると、チヒロの耳には、あらゆる「音」が流れ込んでくる。
504号室の、夫婦ゲンカの怒鳴り声。 403号室(隣の部屋)の、赤ん坊の夜泣き。 304号室の、深夜のテレビの笑い声。
そして、もっと小さな音。
壁を這う、ゴキブリの足音。 水道管を流れる、誰かの排泄物。 鉄筋コンクリートが、夜の冷気で収縮する、ギシ… という軋み。
「うるさい」
チヒロは、ヘッドフォンで耳を塞いで、無理やり眠る。
医者は「聴覚過敏症」だと言った。 「思春期によくあることです」
両親(共働きで、いつも疲れている)も、「気にしすぎよ」と、チヒロの訴えを真剣には取り合わなかった。
(違う。これは、病気じゃない)
チヒロにはわかっていた。 自分は、世界に溢れる「音」を、人より少し多く拾ってしまうだけだ。
異変は、梅雨に入った頃に始まった。
新しい音が、混じるようになったのだ。
……サ…
……サ……サ……
砂嵐のような、ホワイトノイズ。
それは、チヒロが一人でいる時にだけ、聞こえてくる。
……サ……サ……『たすけて』……サ……
(え?)
自分の部屋で、宿題をしていた時。 ノイズの中に、確かに「声」が聞こえた。
……サ……『いたい』……『つめたい』……サ……サ……
チヒロは、耳を澄ませた。
声は、とても弱々しい。
部屋の、どこから?
チヒロは、音の発生源を探した。 ベッドの下? クローゼットの中?
違う。
音は、もっと近く……
チヒロは、自分の左耳に、そっと指を当てた。
……サ……『ここにいるよ』……サ……
声は、チヒロの「耳の奥」から、直接聞こえていた。
その日から、チヒロは「声」と暮らし始めた。
声は、自分を「レナ」と名乗った。
『チヒロちゃん、算数のドリル、そこ間違ってる』
『ママ、またパパとケンカしてる。聞きたくないね』
レナは、チヒロが「聞きたくない音」がすると、それをかき消すように、優しく話しかけてくれた。
聴覚過敏で、いつも一人ぼっちだったチヒロにとって、レナは初めてできた「親友」だった。
チヒロは、学校の休み時間も、一人でうつむき、耳の奥のレナと会話して過ごすようになった。
『レナちゃんは、どうしてそこにいるの?』
チヒロが、頭の中で尋ねる。
『わからない。気づいたら、ここにいたの』
『前は、どこにいたの?』
『……暗くて、狭いところ。たくさん、いた』
『たくさん?』
『うん。私みたいなのが、いっぱい。でも、みんな、消えちゃった。私だけ、チヒロちゃんのところに、来られたの』
ある日、チヒロは、都市伝説に詳しいクラスメイトから、奇妙な噂を聞いた。
「なあ、山田さん。『オトブクロ』って知ってる?」
「……なに、それ」
「この団地、昔、ヤバかったんだって。建て替えられる前、ここで一家惨殺があったらしくてさ」
チヒロは、背筋が寒くなるのを感じた。
「殺されたのは、10歳くらいの女の子。犯人は、その子の……『耳』だけを、どうしても見つけられなかったんだって」
「……」
「それで、その子の『音を失った無念』が、この団地に残ってるんだと」
「……どういうこと?」
「寂しい子の耳に、その霊が入り込むんだってさ。そして、その子から、少しずつ『音』を集めるんだ。『耳』の代わりにするために」
「……音を集める?」
「そう。入り込まれた子は、だんだん耳が聞こえなくなっていく。最後に、自分の『声』をオトブクロに取られて、おしまい。……なんてね、ただの噂!」
クラスメイトは笑ったが、チヒロは笑えなかった。
(まさか、レナちゃんが……?)
その日の帰り道。
けたたましいサイレンの音。 救急車が、チヒロの横を通り過ぎていく。
ピーポー、ピーポー、ピーポー……
(うるさいな……)
チヒロが眉をひそめた、その時。
……ピ……ポー……ピ……
サイレンの音が、急に、遠くなった。
(え?)
救急車は、まだ目の前を走っている。
なのに、音が、右側からしか聞こえない。
チヒロは、立ち止まった。
左耳に、手のひらを当てる。
自分の、手のひらが、皮膚に擦れる音。
聞こえない。
(……レナちゃん?)
『なあに、チヒロちゃん?』
レナの声だけは、左耳の奥で、はっきりと聞こえる。
『今、うるさかったでしょ? だから、音、消してあげた』
「……消した?」
『うん。私ね、チヒロちゃんが嫌いな音を、食べることができるの』
レナは、楽しそうに言った。
『うるさいサイレンの音、食べてあげた。これで静かになったね』
「……返して」
『え?』
「わたしの耳、返して!」
『……やだ』
レナの声が、急に低くなった。
『これは、もう、私のものだもん』
ブツン
まるで、テレビの電源が切れたかのように。
チヒロの左耳から、すべての「外の音」が消えた。
チヒロは、半狂乱になって家に帰った。
「ママ! ママ! 耳が! 左耳が聞こえないの!」
母親は、慌てて耳鼻科にチヒロを連れて行った。
検査の結果は、「異常なし」。
「鼓膜はきれいです。聴力検査も、反応はあります。……おそらく、精神的なものです」
医者は、また「思春期」という言葉を使った。
母親は、泣き叫ぶチヒロを「大げさなんだから」と叱りつけた。
違う。
異常はある。
左耳は、レナに「食べられた」のだ。
その夜。
左耳は、外の音を一切遮断し、レナだけの声が響く、専用のスピーカーになっていた。
『チヒロちゃん、ママ、ひどいね』
『信じてくれないんだね』
『大丈夫。これからは、私が、チヒロちゃんの聞きたい音だけ、聞かせてあげる』
レナは、チヒロの耳の中で、歌を歌い始めた。
きれいな、澄んだ声。 チヒロが、昔、好きだったオルゴールのメロディ。
不思議と、心が落ち着いていく。
騒がしい504号室も、うるさい403号室も、もう聞こえない。
(……これなら、いいかも)
チヒロは、その夜、久しぶりにぐっすりと眠った。
次に奪われたのは、「右耳」だった。
翌朝、目が覚めると、世界は完全に「無音」になっていた。
『おはよう、チヒロちゃん』
レナの声だけが、両耳に響き渡る。
「……ああ」
チヒロは、声を出そうとした。
だが、自分の声が、自分に聞こえない。
(レナちゃん、やめて! 右耳まで!)
『だって、チヒロちゃん、昨日、気持ちよさそうだったから』
『右耳にも、うるさい音、いっぱい詰まってたよ。電車の音、車の音、パパのイビキ。全部、食べてあげた』
『ああ、おいしかった』
(やだ、やだ、返して!)
『もう、返せないよ。ぜんぶ、私のおにくになったもん』
目の前で、ママが、何かを叫んでいる。 「早く起きなさい!」と言っているのだろうか。
まるで、音のない映画を見ているようだ。
『ママ、怒ってるね。でも、声が聞こえないから、怖くないね』
チヒロは、その場にうずくまった。 怖い。 怖い。
『怖くないよ、チヒロちゃん』
『私がいるよ』
『私が、チヒロちゃんの「音」になってあげる』
レナは、また歌い始めた。 オルゴールのメロディが、頭蓋骨全体に響き渡る。
チヒロは、学校を休んだ。 「突発性難聴」の疑いで、大きな病院に入院することになった。
真っ白な病室。
チヒロは、もう、外の世界とコミュニケーションが取れなかった。
医者も、看護師も、パントマイムをしているようにしか見えない。
パパとママが、泣きながら何かを訴えている。
チヒロには、もう、何も届かない。
『かわいそうに。パパもママも、チヒロちゃんを病気だと思ってる』
『チヒロちゃんは、病気じゃないのにね』
(……わたしは、どうなっちゃうの)
『大丈夫だよ』
『私と、ずっと一緒だよ』
レナの声は、少しずつ、変わってきていた。
幼い女の子の声だったはずが、
低い、大人の女のような声、
苦しそうにうめく、老人のような声、
いくつもの声が、混じり合い、重なり合って、
『ワタシタチ』
と、聞こえるようになった。
(……レナちゃん、だけじゃ、ないの?)
『ワタシタチハ、ズット、サミシカッタ』
『オトガ、ホシカッタ』
『チヒロチャンノ、ミミ、モラッタ』
『イイ「フクロ」ニナッタ』
(オトブクロ……)
噂は、本当だった。
『チヒロチャン、アリガトウ』
『デモ、マダ、タリナイ』
(……なにが?)
『「コエ」ガ、ホシイ』
(え……)
『チヒロチャンノ、「コエ」ガ』
「や……」
チヒロは、声を出そうとした。
だが、
喉が、ヒュッと鳴った。
声帯が、震えない。
息が、漏れるだけ。
(あ……あ……)
声が、出ない。
『アア、コレダ』
『チヒロチャンノ、コエ』
『キレイナ、コエ』
『コレデ、ヤット……』
無音の世界。
耳の奥で、「オトブクロ」が、チヒロの「声」を使って、甲高い産声を上げた。
――山田千尋(11)は、聴覚と発声能力を、同時に失った。
理由は、不明。
彼女は、真っ白な病室のベッドの上で、時折、何かに怯えるように体を震わせる。 だが、医者も両親も、彼女が何に怯えているのか、もう知る術はない。
彼女の頭の中には、
奪った「声」で歓喜の歌を歌う「オトブクロ」と、
叫び声さえ失った、彼女自身の、
永遠に続く「無音の絶叫」だけが、響き渡っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます