ママの日記

 倉田七海くらた ななみ、9歳。 ナナミにとって、ママ(和美)は世界で一番優しくて、一番大好きな人だった。


 ナナミが学校で描いた、賞にも入らなかった絵を、ママはいつもリビングの一番目立つ場所に飾ってくれた。 「ナナミは天才ね」と、本気で言ってくれる。 ナナミがテストで悪い点を取っても、パパ(孝史)のように怒鳴ったりしない。 「大丈夫。次は頑張ろうね」と、温かいココアを入れてくれる。


 ママは、ナナミの自慢だった。


 だから、あの日のママの姿は、ナナミにとって信じられないものだった。


 それは、先週の日曜日。 ナナミは、リビングでママが大切にしているアンティークのカップを、誤って床に落として割ってしまった。


(どうしよう、怒られる……)


 震えながら謝ろうとしたナナミの耳に、突き刺さったのは、聞いたこともない甲高い声だった。


「なにしてるの!!」


 ナナミは、顔を上げられなかった。 違う。 これは、ママの声じゃない。


「あんたは……! あんたは、いつもいつもいつも! 私の大事なものばっかり壊して!」


 肩を掴まれ、激しく揺さぶられる。


「もう、いい加減にして! 出ていってよ!」


 ヒステリックな金切り声。 ナナミが怯えながら顔を上げると、そこに立っていたのは、目を血走らせ、髪を振り乱し、鬼のような形相をした、知らない「女」だった。


「……ママ?」


 ナナミがそう呟いた瞬間。


「女」の動きが、ピタリ、と止まった。


「……あ」


 ママは、自分の手を見つめ、それからナナミの怯えた顔を見て、はっと息をのんだ。


「……ご、ごめんなさい……ナナミ……ママ、ちょっと、疲れちゃって……」


 いつもの優しいママの声に戻っていた。


「大丈夫? 痛くなかった?」


 ママは、割れたカップの破片もそのままに、ナナミを抱きしめた。


「ごめんね、ごめんね……」


 ママの体は、小刻みに震えていた。 ナナミは、ママの腕の中で、「うん」と頷くことしかできなかった。


 あの日以来、ナナミはママの顔色をうかがうようになった。 (今のママは、どっちのママだろう)


 優しいママは、相変わらず優しい。 けれど、時折、何かの拍子で「あのママ」が顔を出すようになった。


 ナナミが牛乳をこぼした時。 ナナミがテレビのチャンネルを勝手に変えた時。


「いい加減にしなさい!」


 ほんの一瞬。 殺意にも似た憎悪の目でナナミを睨みつけ、すぐに「ごめんなさい」と我に返る。


 ママは、何かに怯えているようだった。


 そして、ナナミはもう一つ、ママの「秘密」に気づいていた。


 屋根裏部屋だ。


 普段は物置になっている、二階の廊下の突き当り。 ママは、週に一度、必ずそこに一人で入っていく。 いつも、小さな銀色の鍵で錠を開け、30分ほど出てこない。


 パパが「何してるんだい?」と聞いても、「古いアルバムの整理よ」としか答えない。


(あの中に、何かあるんだ)


 ナナミの好奇心と不安が、膨らんでいった。


 チャンスは、突然やってきた。


 水曜日の午後。 ナナミが学校から帰ると、ママはリビングでうたた寝をしていた。


(……疲れてるんだ)


 ナナミが、そっと毛布をかけようとした、その時。


 ママのエプロンのポケットから、カラン、と軽い音を立てて、床に何かが落ちた。


(あ)


 あの、小さな銀色の鍵だった。 屋根裏部屋の鍵だ。


 ママは、起きない。


 ナナミは、唾をごくりと飲み込んだ。 (……今なら)


 心臓が、早鐘のように鳴っている。 (ダメ。見ちゃダメ) でも、知りたい。 ママが、あんなに怖く変わってしまった理由が、あそこにある気がした。


 ナナミは、鍵を拾うと、抜き足差し足で二階へ向かった。


 屋根裏部屋の扉。 古い南京錠に、銀色の鍵を差し込む。


 カチャリ


 乾いた音がして、錠が開いた。


 扉を開けると、カビと、古い紙の匂いがした。


 部屋は、思ったよりも広かった。 古いミシン。 使われなくなった扇風機。 パパのゴルフバッグ。


 そして、部屋の隅に、小さな書き物机が置いてあった。


 そこに、一冊の、古いノートが置かれていた。


 表紙は、濃い赤色。 金色の文字で『DIARY』とだけ書かれている。


(……日記?)


 ナナミは、それに手を伸ばした。


 恐る恐る、表紙を開く。


 一ページ目。 そこには、ママの、丸くてきれいな字が並んでいた。


『十月三日(晴れ) ナナミが、ハイハイをした。天才かもしれない! 孝史さんも大喜び。本当に、生まれてきてくれてありがとう』


(……わたしの、日記?)


 育児日記だ。 ナナミは、ほっとして、ページをめくった。


『十一月一日(雨) ナナミが初めて「ママ」と言った(気がする!)。 嬉しくて泣いてしまった』


『四月十日(晴れ) ナナミ、三歳の誕生日。プレゼントのクマのぬいぐるみ、すごく喜んでくれた』


 幸せな記憶ばかりが、そこにはあった。


(なーんだ。これだけか)


 ナナミは、安心して日記を閉じようとした。


(……あれ?)


 日記は、まだ半分以上残っている。


 ナナミは、真ん中あたりのページを、ぱらりと開いた。


 途端に、インクの匂いが濃くなった。


 そこから、ママの字が、変わっていた。


 さっきまでの丸い字とは違う。 殴り書いたような、乱暴で、角ばった字。


『五月四日(雨) イライラする。ナナミが私を見る。あの目が憎い。 なんで、あの子は、あんな目で私を見るんだ』


 ナナミは、息が止まった。


『五月七日(晴れ) 今日は、あの子が牛乳をこぼした。 殺してやろうかと思った。 あのカップを割った時も、そう思った。 あの子さえいなければ。あの子が生まれてこなければ。私の人生は……』


(……うそ)


(……うそだ)


 ナナミは、震える手でページをめくった。


『五月十日(曇り) もう限界だ。 あの子が私を「ママ」と呼ぶ。 反吐が出る』


 ナナミの目から、涙がこぼれ落ちた。


(……なんで)


(ママ……)


 ナナミは、そのページの日付を見て、ハッとした。


『五月十日』


 今日は、五月九日だ。


(……え?)


 ナナミは、慌てて前のページに戻った。


『五月七日』 ナナミが牛乳をこぼした日。 それは、一昨日のことじゃない。


(……うそだ。だって、牛乳こぼしたのは、昨日……五月八日だ)


 日記の日付が、一日、ズレている?


 いや、違う。


 ナナミは、恐怖に引きつりながら、さらに次のページをめくった。


『五月十一日(雨) ナナミが、階段から落ちる。 二階の廊下で、私とぶつかって。 すごい音がした。 あの子、腕の骨が折れたみたい。 ざまあみろ』


(……明日だ)


『五月十二日(晴れ) ナナミが高熱を出している。 骨折したところが、化膿したのかもしれない。 うるさく泣いている。うるさい。うるさい。うるさい』


 これは、未来の日記?


 ママが、これから起こることを書いている?


 いや、違う。


(ママが、書いたから、そうなるんだ)


 ナナミは、本能的に悟った。 あの、アンティークカップの日。 ママは、カップが割れることを「知っていた」んだ。


 あのヒステリックなママは、日記に操られていた?


 ナナミは、震えが止まらなかった。


(逃げないと)


 ナナミは、日記を閉じようとした。


 だが、その手が、好奇心に、あるいは運命に引かれて、最後のページをめくってしまう。


 まだ、乾いていない、濡れたインクの文字。


 今、まさに、書かれたばかりの文字。


 そこには、こう書かれていた。


『五月九日(水) 曇り』


『ナナミが、屋根裏部屋に入ってきた』


(え)


『今、この日記を読んでいる』


 ナナミは、凍りついた。


『とても、怯えている』


 ギィ……


 すぐ背後で、床板が軋む音がした。


 ナナミは、振り返ることができない。


 日記帳の、空白だったはずの行に、


 まるで、見えないペンが走るかのように、


 新しい文字が、じわり、と浮かび上がってきた。


『今、ママが、うしろに立っている』


 冷たい空気が、ナナミの首筋を撫でた。


 ママの、優しい、シャンプーの匂い。


「……ナナミ」


 聞こえてきたのは、あの、知らない「女」の、低く、押し殺した声だった。


「……見ちゃったのね」


「……ママ、ちが……ごめんなさ……」


「いいのよ」


 ママは、ナナミの肩に、そっと手を置いた。


「やっと……やっと、読んでくれたのね」


(……え?)


「ママね、ずっと迷ってたの」


 ママは、ナナミの耳元で、楽しそうに囁いた。


「あの日記に、なんて書こうか。ナナミが階段から落ちるだけじゃ、物足りないでしょう?」


(……違う、ママは、日記に操られてたんじゃ……)


「操られてる? まさか」


 ママは、クスクスと笑いをこらえている。


「あのね、ナナミ。あのアンティークカップ……ママ、自分で割ったのよ。ナナミのせいにして、怒鳴りたくて」


「……うそ」


「あのね、ナナミ。あの『日記』はね……」


 ママは、ナナミの手から日記帳を優しく抜き取ると、机の上の、万年筆を手に取った。


「書いたことが、本当になるのよ」


 ママは、恍惚とした表情で、日記帳の新しいページを開いた。


「最初はね、『宝くじが当たる』とか、そういうこと書いてたんだけど……全然、つまらないの」


 サリ、サリ、と。 ママが、日記に何かを書き込む音だけが、屋根裏部屋に響く。


「やっぱりね、一番楽しかったのは、こうやって……」


「……ナナミが、私を憎んで、私を怖がってくれること、だったの」


「……いや」


「さあ、できたわ」


 ママは、書き終えた日記を、ナナミの目の前に突き付けた。


 今、書き終えたばかりの、未来の記録。


『五月九日。屋根裏部屋で、ナナミの首を絞めた。あの子、すごく苦しそうだった。すごく、すごく、楽しかった』


「……さあ、ナナミ」


 ママが、笑った。


 いつもの、優しい、大好きなママの笑顔で。


「日記の通りにしなくっちゃね」


 ママの、細く、冷たい両手が、ナナミの首にかかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る