第二章:仮面と真実
翌週、朔耶は華音の行動パターンを分析し始めた。
彼のアプローチは常に同じだ。まず、標的の日常を完全に理解する。
習慣、交友関係、好み、弱点——すべてを把握してから、最も効率的な方法を選択する。
華音の場合、彼女の生活は驚くほど規則的だった。
平日は午前八時に自宅を出て、地下鉄で研究所へ。昼食は研究所内のカフェテリア。夕方六時から七時の間に帰宅。週末は図書館か、時折、美術館。交友関係は限定的。恋人の気配はない。
朔耶にとって、これは理想的なパターンだった。
孤独な標的は、常に扱いやすい。
しかし、観察を続けるうちに、朔耶は奇妙なことに気づいた。
華音は、時折、まるで誰かに見られていることを察知しているかのように、突然立ち止まって周囲を見回すのだ。その視線は鋭く、焦点が定まっている。
ある日、朔耶は研究所近くのカフェから華音を観察していた。彼女が建物から出てきたとき、彼女は一瞬、カフェの方向を見た。
その視線が、朔耶を捉えた。
朔耶は動じなかった。彼はコーヒーカップを手に取り、自然な動作で飲んだ。華音は数秒間彼を見つめた後、歩き出した。
だが、朔耶は理解した。彼女は知っている。少なくとも、何かを感じ取っている。
これは、予想よりも興味深い展開だ。
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華音もまた、朔耶を観察していた。
彼女の観察は、より深層的なものだった。彼女は自分の能力を使い、朔耶の心の動きを探ろうとした。
しかし、それは困難だった。朔耶の心は、まるで要塞のように閉ざされている。感情の流れがない。通常、人間の心は川のように流れている——喜び、悲しみ、怒り、恐怖、欲望——それらが絶えず波打っている。
だが、朔耶の心は凍った湖のようだった。表面は滑らかで、何の波紋もない。
ある夜、華音は研究所の図書室で、サイコパシーに関する最新の論文を読んでいた。
「一次性サイコパスは、扁桃体と前頭前皮質の機能的結合性が著しく低下している。これにより、恐怖や罪悪感といった情動的反応が欠如する」
華音は、朔耶の脳内で何が起こっているかを想像した。彼の神経回路は、おそらく通常の人間とは異なる配線をしている。共感を生み出す回路が、機能していない。
だが、それだけではない。朔耶は単なるサイコパスではない。彼は高度に知的で、戦略的だ。おそらく、成功したサイコパス——社会に適応し、表面的には魅力的で有能な人物として機能している。
そして、何らかの理由で、彼は華音を標的にしている。
華音は論文を閉じた。彼女の高いIQは、この状況を論理的に分析することを可能にする。だが、同時に、彼女は感じていた。この対決は、単なる生存をかけた戦いではない。これは、二つの異なる意識のあり方が衝突する、稀有な機会なのだ。
華音は立ち上がり、図書室の窓から夜の街を見た。
「あなたは私を殺そうとしている。だが、あなたは知らない。私があなたの心を読めることを」
彼女は静かに微笑んだ。これは、確実に知的な戦いになるだろう。
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十二月も半ばを過ぎた頃、朔耶は最初の接触を試みることにした。
それは、研究所近くの書店でのことだった。朔耶は、華音がよく立ち寄る店であることを知っていた。
華音が認知科学の棚を見ているとき、朔耶は自然な様子で近づいた。
「失礼。その本、面白いですか?」
華音は振り返った。そこに立っているのは、あの男——茨野朔耶——だった。
「……ええ、専門書ですが」
「認知科学ですか。私も興味があるんです。意識の問題、特に」
朔耶の笑顔は完璧だった。親しみやすく、知的で、誠実に見える。
だが、華音は感じ取っていた。その笑顔の裏に、何もないことを。彼は演じている。完璧に、寸分の狂いもなく。
「そうですか。では、この本をお勧めします」
華音は一冊の本を手に取った。『共感の神経科学』というタイトルだった。
朔耶の表情に、一瞬、何かが過ぎった。それは、ほとんど知覚できないほどの微細な変化だったが、華音は見逃さなかった。
「共感……興味深いテーマですね」
「ええ。共感がない世界を想像できますか?」
華音の質問は、挑発的だった。彼女は朔耶の反応を観察した。
「想像できます。おそらく、非常に効率的な世界でしょう。感情に左右されず、論理的に最適な選択ができる」
「しかし、それは人間の世界でしょうか?」
「人間の定義次第ですね」
二人は互いを見つめた。
その瞬間、華音は朔耶の心の奥底に、わずかに触れることができた。
そこにあったのは、計算だった。変数、確率、リスク評価——華音の存在を、どう「処理」するかという、冷徹な計算。
そして、もう一つ。彼女には理解できない、何か別のもの。それは、計算の奥に隠れていた。
「私は茨野朔耶と申します。よろしければ、コーヒーでもいかがですか?」
華音は一瞬考えた。そして、決断した。
「正真華音です。ええ、いいですよ」
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書店近くのカフェで、二人は向かい合って座った。
朔耶は、この出会いが偶然であるかのように振る舞った。だが、華音は知っている。これは彼の計画の一部だ。
「華音さんは、認知科学の研究者なんですね」
「ええ。意識の問題を研究しています」
「意識……それは哲学的な問いでもありますね。私たちは本当に自由意志を持っているのか、それとも脳の化学反応の結果に過ぎないのか」
朔耶の言葉は知的で、洗練されていた。だが、華音には分かる。彼は本当の興味からではなく、彼女との関係を構築するための「ツール」として、この話題を選んでいる。
「あなたはどう思いますか、茨野さん?」
「私は後者だと考えています。自由意志は幻想です。私たちは、遺伝子と環境によってプログラムされた生物学的機械に過ぎない」
その言葉は、朔耶の本心だった。彼は本当にそう信じている。そして、その信念が、彼の行動を正当化している。
「興味深い見解ですね。では、道徳や倫理も幻想だと?」
「ええ、社会的な契約です。機能的には有用ですが、絶対的な基盤はない」
華音は、朔耶の心の中を覗いた。そこには、罪悪感の欠如があった。彼にとって、殺人は単なる問題解決の一手段だ。
「それは、危険な考え方ですね」
「なぜですか?」
「それは、他者を道具として扱うことを正当化してしまう」
朔耶は微笑んだ。
「華音さんは理想主義者なんですね。現実には、私たちは常に他者を道具として利用しています。ただ、それを認めるかどうかの違いです」
華音は、朔耶の本質を理解した。彼は自分を「正直な」人間だと考えている。感情や道徳という「偽善」に縛られない、純粋に合理的な存在。
だが、華音は知っている。彼の「合理性」は、脳の機能不全に基づいている。彼は選んでそうなったのではない。生まれつき、共感する能力を持たなかっただけだ。
「茨野さん」
華音は彼の目を見た。
「あなたは私を殺そうとしている」
時間が止まった。
朔耶の表情は変わらなかった。だが、華音は感じた。彼の内部で、計算が再起動されたことを。
数秒の沈黙の後、朔耶は笑った。
「面白い冗談ですね」
「冗談ではありません。私には分かります」
「どうやって?」
「それは秘密です」
朔耶は華音を観察した。彼女は嘘をついていない。本当に、何かを感じ取っている。
これは、予想外の展開だった。だが、朔耶にとって、予想外は必ずしも悪いことではない。それは、ゲームをより面白くする。
「では、仮にそうだとしましょう。あなたはどうするつもりですか?」
「観察します。そして、理解しようとします」
「私を?」
「ええ。あなたのような存在を」
朔耶は興味を覚えた。彼女は恐れていない。通常、人は自分の命が狙われていると知れば、恐怖する。警察に行く。逃げる。
だが、華音は違う。彼女は、これを知的な挑戦として捉えている。
「あなたは変わっていますね、華音さん」
「あなたもです、茨野さん」
二人は微笑み合った。それは、表面的には友好的な笑顔だった。だが、その裏で、二つの意識が激しく衝突していた。
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