月光の歩廊

霧原ミハウ(Mironow)

月光の歩廊

 雪は積もらない。粉になって舗道で砕け、夜の街灯にだけ白く光った。

 寄宿学校の塀は、凍てた蔦の骨のように黙り、門番小屋の窓に薄い月が刺さっていた。

 ユリアンがここへ来た日、革靴の底はまだ都会の乾いた埃を覚えていたが、その記憶は一週間で剥がれ落ち、靴紐の結び目まで規律の匂いに染まった。

 朝礼。冬の冷気は喉を刺し、肺を凍らせる。子どもたちは背丈順に列を作り、ゆっくりと空に昇る赤い旗を見る。拡声器が微かに唸り、割れた声が繰り返す。

「君たちは国家の誇りだ」

 朝礼とこの言葉は一対だ。ユリアンは「誇り」という音の響きが、いつか自分の名前と同じに空洞になるのではないかと恐れた。

 寮生活は簡素というより軍務だった。ベッドの角は直角、鉛筆は芯を上に、枕は南へ。遅刻の罰は、廊下の端から端までの雑巾がけ。誤答の罰も厳しい。罰を言い渡された生徒は、半時間中庭の雪の上に立たされる。

 校舎では、教師の声に混じって、いつもどこかで金属の擦れる音がしていた。それは、装具と手すりの音だ。訓練室の床板は油の匂いを吸い、そこに汗が落ちるたび、木目が濃くなっていった。

 ユリアンの診断名は長いラテン語で、進行性の神経の病気を意味した。医師は「進行は緩やか」と説明したが、ここではすべてが駆け足だった。ユリアンは優等生の習慣をまるごと持ち込んだまま、声の高さと歩幅だけを矯正された。褒められることはなく、テストで満点を取ったとしても記録されるだけ。「国家の誇り」はやはりここでは空虚だ。午後の訓練では、軽度の子どもらと二列になって行進。2時から4時までこれを繰り返す中で、壁の鏡に一瞬だけ映る自分の姿を何度も見た。


 その日、夕方の自由時間、音楽室の扉は半分だけ開いていた。中から、ひときわ細い糸のような声が伸びてくる。息が壁紙を撫で、古いピアノの塗装の傷に触れて、光の粉を起こす。


 ――アヴェ・マリア。


 少年の声だ、とユリアンは思った。ガラスの縁のように澄み、月の冷たさと火の温度を同時に含んだ声。譜面台には何も置かれていない。窓には薄い霜が張り付き、月明かりがガラスの内側を照らす。声は空気を少しだけ暖めて、鍵盤の上に落ち、そこで透明な滴になった。

 ユリアンは耐えられず、椅子に腰を下ろし、ピアノの蓋をそっと上げた。黒鍵に指先が触れると、体温がすぐさま吸われる。彼は静かに和音を置いた。伴奏は声を見守る灯の列になり、歌の息継ぎを照らした。

 歌い終わって、沈黙が降りた。埃がひとつ、視界で落ちる音がした。車椅子の背凭れの上に、金の縁どりのような髪。少年は振り向いた。青い瞳に、夜の色は映らない。月が寄って、彼の頬のわずかな産毛にだけ白く着地する。

「きれいだね、声」とユリアンが言った。

 少年は口角をわずかに上げた。

「君のピアノも」

 名乗りあいは、儚く、短かった。名が音にほどけ、互いの耳の奥へ消える。

「君は軽症なんだね」とエリセイが言う。

「進行しなければ」とユリアン。「君も、足が悪いんだね」

「結核」

 その一語の硬さに、音楽室の空気が揺れた。

「痛みは?」

 ユリアンは訊ねた。

「たまにね。骨の痛みが去ると、ここに歌いに来る」

「初めて聞いたよ。少年のソプラノ。こんなにきれいなの」

 エリセイは視線を鍵穴の方へ滑らせ、「僕は、がらくただよ」と言った。「お荷物なんだ」とも。車椅子の車輪が月光を割る。彼は背を向け、廊下の別方向へ消えた。廊下は長く、月はいつも中央に落ちる。

 それから、二人は歩行訓練の時間に互いを見るようになった。エリセイは二本の手すりに掴まり、腰の重たい装具と談判するように一歩ずつ進む。額に滲む汗は、寒さに固くなったまぶたの際を温める。ユリアンは列の端からそれを見、時折、歩幅を間違えた。


 夕方の音楽室。風は窓の桟で薄く鳴り、ラジエーターは低く唸る。二人は合わせる曲を少しずつ増やした。ある夜、エリセイが言った。

「どうしても歌いたい曲がある。パニス・アンジェリクス」

「フランクの曲だね」

「歌いたい。声が続けば……」

 ユリアンは「続くよ」と答える代わりに、前奏を弾いた。宗教曲であることは知っていたが、ここでは神の名も規則の名も、同じ一音の高さで鳴る。音楽室の空気だけが、その違いを覚えている。

 ラテン語は夜の水だ。口の中で冷たく、喉の奥で柔らかい。エリセイの声が最初の歌詞を歌い切ると、窓の霜がわずかに曇った。歌が終わるたび、二人は沈黙を挟んだ。

 言葉より長い呼吸、呼吸より短い沈黙――この瞬間が、二人の間の隔たりを縮め、暗い夜の密度を高めた。

 そうして夜は早く終わり、二人は渡り廊下で別れた。

「おやすみ、エリセイ」

「また明日、ユリアン」

 月明かりが窓から差し込み、離れていく二つの影を床に描いた。静寂が残った。


 ある日、エリセイは訓練室に来なかった。ユリアンは列を離れ、渡り廊下を滑るように進み、角で指導員に止められた。

「訓練に戻りなさい。自分のすることを自覚しなさい」

 自覚——それはこの建物に似ている。あちこちの天井に黒い半球があり、そこから出る視線は、いつもひとの背筋に沿って落ちる。壁には標語があった。

「障碍は欠陥ではない。鍛えよ、ならば完全となる」

 文字は白く、冷たい。ユリアンはその白の中に、別の色――夜の薄青、鍵盤の象牙の黄、エリセイの声の透明――を思い出し、目を閉じた。彼の言葉を思い出す。


 ――僕たちはお荷物なんだ。


 ユリアンは夜を待った。音楽室の扉は開いていたが、ピアノは黙っていた。窓の外で、月が建物の輪郭をなぞる。エリセイが現れ、ユリアンの胸の中で何かがほどけた。彼は真っ直ぐユリアンの方を見て、いつものように笑った。

「ちょっと具合が悪かった……もう平気だ」

「よかった。歌う?」

「うん」

 エリセイの歌は素晴らしかった。声は高く、しかし前より少しだけ影を帯び、〈ホスティア〉を支えるところで細くなった。ユリアンは伴奏の左手を深くし、ハ音のあたりに灯りを置く。終わると、言葉がひとつ残った。

「君はお荷物ではない」とユリアン。「なんか、奇跡みたい……その声は……」

 言ってから、彼は自分の言い方の幼さに頬が熱くなるのを感じた。奇跡という言葉はここでは禁句だが、言葉自体が月の光のように何も持たず、ただ触れては消えるだけなら、罪にもならない気がした。

 エリセイは少し微笑んだ。

「ずっとこの声を持っていられない。変わらないものは何もない。何もかも変わったとき、僕はお荷物でもごみでもなくなる」

 ごみ、という音はこの部屋に似合わない。ユリアンは首を振った。

「そんなこと言わないでよ。君はかっこいいし、きれいだ」

「ありがとう」

 それきり、二人は多くを話さなかった。話すほど、夜は短くなる。ピアノの蓋を閉じ、椅子をそっと戻す。点呼に続き、明かりが消える。同室の少年の寝息、遠くのせき込み、階段の金属音が一つになって、夜の静寂に音を添える。その小さな喧騒に耳を傾けながら、エリセイは微睡む。夢の初めに、天使のパン(パニス・アンジェリクス)を手に取り、胸に抱いたまま眠りの底まで持っていった。

 朝。空気は凍てつき、点呼の列から白い煙が上がった。前に立つ指導員の声は短く、静かだった。

「エリセイは昨夜、救急病院に運ばれました。病気が肺に浸潤して――亡くなりました」

 言葉は壁にぶつかり、戻ってきた。ユリアンは頷いたかもしれないし、頷かなかったかもしれない。規則に満ちた朝はいつもと変わりはなかった。違うのは、一つの席が空いていたということ。花も、祈りの言葉もそこにはなかった。


 放課後、音楽室の鍵は掛かっていなかった。誰もいない。窓の霜は昼のあいだにいちど溶け、また薄く貼りつき、そこに月が来る。ユリアンは譜面台を見た。セザール・フランク――角の折れた楽譜。ページの隙間に、細い髪が一本挟まっていたような気がした。彼は椅子を引き、鍵盤に手を置いた。音は出なかった。指が音を躊躇っていた。やがて、最初の和音が落ちる。誰もいないのに、息継ぎの場所で窓の霜が曇る。――曇った気がした。


 その夜、寮の廊下は普段より少し明るかった。月の位置のせいで、歩廊の真ん中に白い四角が浮かび、そこを横切ると靴の影がゆらいだ。ユリアンは足を止め、四角の端に靴のつま先を揃えた。暫し立ち尽くし、胸の内側で静かに数を数え、四で息を吸い、四で吐いた――その癖は誰に教わったわけでもなかったが、呼吸に枠があるだけで、夜は崩れない気がした。

 「君は国家の誇りだ」。天井の半球は、今夜は眠っているように見えた。ユリアンは半歩だけ前に出る。歩幅を定め、ゆっくりと前に進む。すると、足裏が拾う床の傷に、もうひとつの線が走る。誰にも見えない、夜だけの線。音楽室へと続く、月光の歩廊の線だった。


 翌日の放課後、音楽室に行くと、ユリアンはピアノの蓋を開け、そっと弾きはじめた。パニス・アンジェリクス。声はない。だが、母音は部屋のどこかに残っていて、光りながら、細い声を響かせているようだった。音が終わる。終わっても、指先の熱が鍵盤に少しだけ残った。


 ここでは、変わらないものはない――そうだろう。季節、声、規則の文句の位置。変わらないものが何もないとき、人は「お荷物」でも「ごみ」でもなくなる。名でもなくなる。ただ、その場の空気の温度差、月の角度や鍵盤の冷たさ、息継ぎの曇り――そういうもので、存在は測られる。


 ユリアンは椅子を戻した。窓の霜に指を近づけ、触れずに離す。廊下に出て、窓の影をまたぐと、靴の影がわずかに揺れた。ユリアンは真っすぐ歩を進めた。歩幅は規則どおり。胸の内側では、四で吸い、四で吐く。その枠の中に、今夜だけの音が、ひとつ入っていた。

 月の光が、歩廊の奥でひとつ、黙って瞬いた。


(了)

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