1-5 白衣の観測者

 

 こめかみの奥がずきずきと痛む。


 まるで誰かに脳の奥を握られているみたいな、そんな重たい痛みだ。


「玲奈、大丈夫?」


 透子が私に肩を貸しながら、のぞき込んでくる。

 顔が近く、長いまつげがすだれのようで、その隙間から丸い瞳が揺れる。


 声は、少し遠くに聞こえる。


「……うん。たぶん、寝不足かな」


「顔、まっ白だよ。無理しないでね?」


 透子にそう言われて、私は小さくうなずいた。


 頭の奥で鈍く鳴る痛みを抱えたまま、私たちは廊下を歩いた。夕日はもう消えていて、照明の光だけが足元を照らす。

 人気のない学校って、どうしてこんなに広く感じるんだろう。


 保健室のドアをノックすると、すぐに落ちついた声が返ってきた。


「どうぞ」


 部屋に入ると、ほんのり甘い香りが漂っていた。


 白いカーテンがふわりと揺れ、ランプの光がその影を柔らかく映している。


 机の奥に、白衣を着た女性が座っていた。


「こんにちは。椿野つばきのさん、梧桐あおぎりさん」


 その声には不思議と逆らえない温かさがあった。


「頭が痛くて……少し診てもらってもいいですか?」


「もちろん。……最近、よく痛むの?」


 その女性――霞真理恵かすみまりえ先生は、私を椅子に座らせながら優しく聞いた。


 彼女の髪は淡い茶色で、眼鏡の奥の瞳がどこか琥珀みたいに光って見えた。


 穏やかで、冷静な印象を受ける。


「はい……ここ数日、特に夕方になると。

 あと……なんていうか、ぼんやりして、記憶が抜けるような感覚があって……」


「記憶が抜ける?」


 先生の声が少しだけ低くなった気がして、私は慌てて手を振った。


「す、すみません。変なこと言いました。きっと疲れてるだけで」


 先生は小さく首を横に振った。


「いいの。そういう感覚を口にするのは大切なことよ。

 人はね、心を守るために“忘れる”ことがあるの」


 その言葉に、胸の奥が少しざわめいた。


 私のなかに、何かを“思い出してはいけない”ような気配が一瞬だけ走った。


「……先生、私のこと、知ってるんですか?」


 気づけば、そんな言葉が口をついていた。


 先生はほんの一瞬、何かを思案するように私を見つめた後で、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。


「保健室の先生ですもの。生徒ことはよく知っていますよ」


 その言い方があまりに自然で、私はその笑顔をそのまま受け取ることはできなかった。


 透子がそっと私の肩に手を置く。


「先生、玲奈、最近夜になると顔がまっ白になるんです。

 私、ちょっと心配で……」


 先生はわずかに眉を寄せ、私を見つめた。


 その瞳の奥の光が、どこか底知れない。


「そう……。無理はしないようにね。

 それと――夜ふかしは禁物。特に、“幽霊”の噂なんて話していると、心が引きずられてしまうから」


 私は息を止めた。


 幽霊――。


 その言葉を聞いた瞬間、こめかみの痛みが強くなった。


 何かを思い出しかけて、でも何も浮かばない。


「……どうして、その話を?」


「生徒指導で耳にするのよ。学院の七不思議とか。

 昔からある噂。いつの時代もそういう話は人気なの」


 その言葉を聞いたとき、私は何も言えなかった。

 先生の目が、まるで私の心の奥底を見透かしてるみたいで。


「こわい夢を見ても、深く考えすぎないこと。いいわね?」


「……はい」


 私は小さく答えて、渡された鎮痛剤を飲んだ。

 透子がほっとしたように息をつく。


 保健室を出ると、もう夜になっていた。

 窓の外の空は黒に近い藍色で、遠くの池から蛙の声が聞こえる。


 私は一度だけ振り返った。


 閉まりかけた扉の隙間から、先生の姿が見えた。

 白衣の袖口が、机の上のノートをめくる。ペン先が紙を滑る、かすかな音がした。


 その音は、まるで“記録されている”ような――


 そんな感覚を、私はたしかに覚えていた。

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