第2話

絵にかいたような運動音痴なので、ジョギングはおろかウォーキングとも無縁。


筋トレなんて以ての外。


天気の良い日にちょっとそこまで散歩行こうよ、と言われても、縁側で日向ぼっこを選んでしまうくらいのインドア派。


そんな巴は、ここ数年感じたことのない違和感と筋肉痛でうっすらと目を開けた。


頬を擦り付けたシールは、パリッと糊が利いていて肌触りも極上。


目を擦ろうと腕をちょっと持ち上げれば、微妙に体が怠い。


薄暗い部屋の中に、見覚えのない高級そうなソファーが見える。


そもそも私の部屋のシーツはコレじゃない……


あれ?思いながらもぞもぞと体を動かして。


「…もう起きる?」


背後から伸びて来た見知らぬ、いや、見知った男の腕に捕まった。


ぐいっと遠慮なしの力で引き寄せられて背中から抱き込まれる。


触れた人肌の生々しい感触に、ぶわっと昨夜の記憶が蘇って来た。


普段より少しだけ掠れた低い声は、紛れもなく尚翔のものだ。


恐る恐る振り向けば。


「おはよう、巴ちゃん」


伸びて来た大きな手のひらが、優しく頬を包み込んでくる。


耳の後ろをくすぐって、首元でほつれた髪を梳く仕草まで無駄に色っぽい。


指の腹でつうっと首筋をなぞられて、堪らず声が漏れた。


「んっ……」


慌てて唇を引き結んだ巴を見つめて、尚翔がふわりと相好を崩す。


「………まだ名残が残ってる?」


「~~っ」


素っ裸なことも忘れて呆然とする巴の肩をするりと撫でた彼の手のひらが、むき出しの胸のふくらみに触れた。


たゆん、と掬うように揺らされて慌てて腕で押さえる。


”顔は平凡以下、胸だけ合格”


”うわ、まじでそれ!あの子は胸だけ”


”というか、胸だけでいい!!顔は見ない!”


大学時代に興味本位で参加した合コンで、喫煙所の横を通った時に聞こえて来た下世話な笑い声。


ああ、そういう位置付けなんだと理解してから、絶対に胸元の開いた洋服は選ばないようにしていた。


芹佳がどれだけ鎖骨から胸のラインが綺麗だと褒めてくれても。


押さえたせいでくっきりと浮かんだ谷間を凝視した尚翔が、そのまま指を伸ばしてくる。


夕べ見せたみたいな劣情の色香に、また心臓が速くなった。


腕で押さえるように潰した胸のふくらみを撫でた長い指が、数時間前まで嬲っていた赤い尖りを探り当てる。


綺麗に手入れされた爪の先でかりかりと側面を扱かれて、きゅうっと下腹部が疼いた。

 

逃げるように背中を丸める巴を尚翔がさらに深く抱き込んで来る。


少しだけ残っているアンバーな香りは、彼の香水のラストノートだろう。


蕩けそうな甘い香りに包み込まれて、ドロドロに蕩けた。


顔を隠したくて必死に手で覆って、気づいた。


化粧……そのまま……ていうか…シャワーも浴びてない!!!


初めてのロゼシャンパンにふわふわしているうちに初恋を暴露して、真横に来た尚翔が唇を啄んで…そのままソファーに押し倒されて…


抱き上げられた記憶と、ベッドに寝かされた記憶はあるけれど、バスルームに足を運んだ記憶がない。


そこかしこに残る違和感と足の隙間に残ったままの名残は、間違いなく事後のそれ。


なんなら綺麗な背中に何度も爪を立てた記憶も残っている。


二度目の後、うたた寝をしてしまって、夜中に目が覚めてからもう一度抱かれたことも。


「ああああの、わ、わたしっ……夕べ……そのっ…その…まま…」


着の身着のまま綺麗に剥かれて、シャワーも浴びずにあんなことやこんな……こんな!?


誰が見ても麗しいと評する男の顔が足の爪にまでキスする映像が脳裏をよぎった。


パンプスを脱いだ足に頬ずりしながら器用にストッキングを引きはがして、赤い舌でぺろっと……


ひいいいいいいいいいいいいい!!!


くるぶしを舐めてアキレス腱を齧ってそれからびしょ濡れのあそこを……


無理いいいいいいいいいいいい!!!!


真っ赤になって青ざめてまた真っ赤になる巴を抱き込んだまま、尚翔がさらに眉を下げる。


彼のこんなに柔らかい表情を見たことがない。


訴えたいことを正しく理解した男が、口角を持ち上げて謝罪を口にする。


「うん……待てなくてごめんね?真っ赤になる巴ちゃんがあまりにも可愛くて」


「ひ…尚翔さん………ほんとに…?」


どうか嘘だと言って!


もしも願いが叶うなら、一度くらい夢みたいな素敵な恋を、とは思っていた。


初めての恋人に手酷い仕打ちを受けるまでは。


初めての恋愛に浮かれて、きっと目を凝らせば気づけたであろう違和感を見過ごして、何もかもを失った。


あんな経験は二度と御免だと、自分の恋心を永久凍結させることを決めた。


これからはときめきとは無縁の人生を送ります。


今度こそひっそりと息を潜めて、一人で静かに、ただただ穏やかに。


やっと尚翔と芹佳のおかげで再就職先も決まって、これから人生をやり直せると思ったばかりなのに。


こんなとんでもハプニングは求めていない。


そりゃあ久しぶりの再会で胸は高鳴ったし、蘇ってくる初恋の記憶に酔いしれはした。


したけど……致すことまで想定してない!!!


これまでの色んなことへの感謝を改めて伝えて、楽しく食事をしてそれじゃあ、またね、で終わるはずだったのに。


「うーん……そんなに現実味ない?」


「だ、だって……」


わたしと尚翔さんですよ!?


天地がひっくり返ってもありない二人でしょ!?


まだ碓井さんと芹佳のほうが全然あり得るでしょ!?


「俺はやっと念願叶ったって感じだったんだけど……」


拗ねたようにぼやいた尚翔が、肩に額を擦り付けながら、巴の柔肌を遠慮なく撫でて来る。


こみあげて来るのは心地よさともどかしさ。


一晩抱き合っただけで、どうしてこんなに気持ちよくなるのかわからない。


「え……?」


まるで恋焦がれる男が吐くようなセリフを零した尚翔をもう一度振り返れば。


「これ見ても、まだ現実味湧かないかなぁ?」


無防備な巴の左手を掬い上げた尚翔が、そうっと左手の薬指を撫でた。


「……え?」


そこにあったのは、永遠の輝きを誇るダイヤモンドがきらめくプラチナリング。

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